Tango

8月29日、◎◎社長を誘いラプラタ報知社を訪問。Uspallataという

ちょっと薄暗い通りにある古~いビルの中にあり、少しビビったが、

比嘉社長、前原副社長、高木編集長に会うことができた。
ラプラタ報知社はまもなく創業60年とのことだが、前身の新聞社は

1910年代創業で、資料室の棚の上にうず高く積まれていた製本版

のバックナンバーで戦前の記事を見せて貰った。小学生の頃の

学級新聞を思い出したが、ガリ版刷りのような手書きの紙面と

船会社や日系社会の理髪店などの広告がレトロで、とても魅力的。

その後シマを変えて、BelgranoのTranqueraで食事となり、

その場は高木編集長の高座独演会となった。今年80歳になられた

高木一臣氏は、ラプラタ報知の一番面白い記事「展望台」コラムの

執筆者であり、少年兵として満州に出兵した話や終戦間際に

北朝鮮の羅津港から魚雷ウヨウヨの日本海を命からがら新潟まで
辿り着いた話、26歳(1951年)の時、西回り航路でマニラ、ケープ

タウンを経てスウェーデンのパスポート(米国占領下で日本に

外交権がなかったから)で亜国に入国し、三井の前身の第一物産

に2年勤めた後、亜国の国際ラジオ放送で日本語の放送をしつつ、

ジャーナリストの道に入り、ラプラタ報知に1966年入社後40年近く

編集長として活躍して来た波乱万丈の人生の各エピソードが

ユーモアと迫力あるVisualizeされた口調で次々と披露され、

我々は腹を抱え、突っ込みを入れながら夢中で話を聞いた。

亜国にいたフランス外交官の娘だった奥さん(先立たれた)との出会い、
第一物産時代にドイツ女性やら亜国の女性にモテまくった話、

日本人相手専門の気風のいい娼婦ロシータのちょっとホロリと

させるエピソード、ブタ、トリ、ウシを相手に性◎を満たしていた

偉人(?)たちの記事を書いた話、などなど、たった一人の

人間が経験した実話としては驚くべき多彩な話の山であった。

日本からも先日、とあるジャーナリストが高木さんの一生を取材に

来たそうで近く本になるらしいが、寧ろこれらのエピソードを是非

映像化して欲しいと思った。Tranqueraで12時近くなり最後は

比嘉社長が、「高木さん、今日はこれくらいにしてまた次回」と〆ねば

ならぬ程、高木さんの話は盛り上がり続けた。
一度エンターテインメントとして、何かの形で商工会議所の「会員

サービス」 をして貰ったらどうだろう? 尤も艶ネタの数々は抱腹絶倒

ではあるものの、残念ながら老若男女・善男善女・紳士淑女・

お茶の間の坊ちゃん嬢ちゃんが読む「会報」には載せられない

ので(XXXなど伏字だらけ?)、お父さん族を対象に簡単な写真や

再現フィルム(っぽいモノ)を交えて「囲む会」などをやっても面白い

かもしれない。


Buenos Aires Bar

今週はサンパウロの◎君が来ていたので、その歓迎と新しく入った

パレルモのアパートのHouse Warmingの意味で会社のメンバー

合計15名(怪我や休暇中のエルネスト、ペドロ、グラシェラマシェル、

ミルタ、ガニコを除く)を呼び、ピザを取ってパーティをしました。

アルゼンチンタンゴのLDをかけると意外なことにベテラン弁護士の

グラシェラムサンテがマイクハナサーズ状態となり「Adios Muchachos」、

「Mi Buenos Aires Querido」、「El Choclo」などを熱唱、大喝采となりました。

◎君と私でメキシコの逸品テキーラPatron Añejadoを抜き、パブログロッソ

とショットグラスで 3回くらい一気飲みをすると、普段はおとなしい感じの

パブロ青年が大はしゃぎとなり、誰かれかまわず肩組んでドンチャン騒ぎ

になりました。そこで、社宅にあった2000年ミレニアウムの5ℓボトル木箱

入りのシャンパンを空け、全員で乾杯。そして真打のノルマがこぶしの

利いた演歌を2曲、沖縄歌謡の元ちとせ並のうまさで全員感激。

10時になったので近所の迷惑も考え、そろそろKeith Jarrett Trioの

ビデオをかけ、夜景を見ながらシブく飲もうというModeに切り替えると、

今夜の主役2人(パブロとグラシェラ)が2つある客用トイレの便器

ハナサーズ状態に。リリアナ、バレンティナ、カルラ、マリアイネスなどが

付きっ切りで看病する中、◎君とビビがカラオケを続け、私は疲れて

マッサージ椅子で意識朦朧.....。斉藤さんはスーダラ節に出てくる駅の

ベンチで横になってクダ巻いてる酔っ払いの有様で大声でいろんな人の

名前を怒鳴りながら、大いびきで寝てしまい、結局最後まで残った斉藤さん、

◎君、リリアナ、グラシェラが帰ったのが2時半でした。横堀さん、横田さんも

ニヤニヤしながら楽しんでいました。横堀さんの味のある歌も出ました。

ドライバーのダニエルは今日は酒が飲めると目をランランと輝かせながら

ビールをグイグイやっていましたが、12時ごろ顔面蒼白のパブロをレミス

で家まで送って行きました。

Dog Keeper
とある日曜日、ブエノスアイレス市内
はずれにあるコリアンタウンの散策に
出かけました。Chacabucoというbarrio
(地区)にあるAv.Carboboと交差する
Av.CastaniaresからAv.Balbastroまでの
2 cuadras(区画)あたりがその中心で、
現在のソウルあたりの華やかさからは
かけ離れた非常に貧相な感じのところです。
土方色に日焼けし、くすんで薄汚れた
服を身にまとった、髪がボサボサのおじさん、
おばさんが大根、白菜、乾燥コンブなどを
売っています。本屋に入ると1980年代頃
の中国東北部のような雰囲気で、古い
ほこりをかぶった粗末な装丁の本を
並べています。何件かあるレストランも、
ほっぺたが赤い子供が鼻水をたらしながら、
ホーローひきの器に入ったぶっかけ飯
を食べていたりして、おそらく現在の
北朝鮮の地方都市の様子に似ているの
ではないでしょうか。まだ食べるもの
があるだけここの方がマシかもしれません。
案内してくれた日系レミス(ハイヤー)
会社のラウルとくもん氏によれば、
ここのコリアンは皆韓国系だといいますが、
外見的にはどうしても中国東北部や
北朝鮮のイメージになってしまいます。
この近くにはボリビアやペルーからの
不法移民の部落があり、ブエノス市
当局者もUntouchableになっている
無法地帯を形成しており、部落の中で
文盲に近いこれら不法移民達をタダ同然で
こき使いながら作った生地やカーペット
などで財を成すコリアンもいるとのことです。

因みにアルゼンチンの日系移民の70%は
沖縄系で、苗字も仲村渠(なかんだかり)、
比嘉(ひが)、我如古(がにこ)など耳慣れ
ない人が多いですが、ラウルは2世です。
日系人の職業としては、花屋、野菜農家、
クリーニング屋などが多くアルゼンチン
社会には好感を持って受け入れられ、
うまく適応しています。2世、3世の代では
ラウルのような運転手、日本レストランの
ウェイター、大学出は我々日系企業のスタッフ
などが多いです。コリアンタウンのような
部落を作って固まって住んでいないことも、
社会への適応をスムーズにした原因では
ないかと思います。隣のブラジルでは
日系人の数が桁違いに多いですが、車上
荒らしなどの犯罪者も多く、いい意味でも
悪い意味でも、いわゆる普通の(世界各地
からの移民で成り立っている)ブラジル人
になっている、と聞きます。
コリアンタウンを後にし、日本大使公邸など
がある住宅街のBelgrano地区に近い
チャイナタウンへ行きました。Arribenios
という通り沿いのほんの3 cuadras程度の
地域にあり、NYやサンフランシスコのチャイナ
タウンと比べれば規模も華やかさも違い
ますが、先ほどのコリアンタウンのような
薄汚れた感じではなく、活気があり日本人
駐在員家族も多く買い物をする食材店や
レストラン、衣料品などを扱う雑貨店も
あります。よく見るとほとんどの店が台湾系で
漢字も繁体字です。日本食材はよく
みないと「賞味期限2004年3月」のものが
平気で売られていますが。

最近は大陸からヤクザが乗り込んできて、
歌舞伎町ほどではないにせよ、ウラ世界
での中国大陸人同士の抗争もあるそうです。
昔は多くの台湾系移民がArribeniosで
財をなしてから台湾に戻ったそうですが、
昨今の中国の脅威もあり、アルゼンチン
国籍を取り直して再びArribeniosに
戻ってくるものが増えているようです。
地球の裏側でもこのように東アジア情勢が
微妙に反映されていたり、コリアン
タウンでは40年前の韓国が妙な形で取り
残されているのが伺えます。
ブエノスアイレスの一般的な生活では
こういう部分に触れることはほとんど
なく、大河ラプラタ川沿いに広がる
南欧風の落ち着いた町並みでイタリア系
美食文化を謳歌する国民性で、食料自給率
が高いことに加え、2001年末の経済危機
以降政府が暴動を恐れ、生活基本物資
やサービスの価格を異様に低く抑さえ
込んでいる為、世界の中でこの国が
置かれている厳しい立場(借金踏み倒し
国家のレッテルを貼られつつある)を
殆ど意識することなく、毎日を楽しく
過ごしているブエノスアイレス市民も
多いですが、南米の中では衛生面、治安面
などで恵まれており、美的センスの高さなど
民度もかなり高いと思います。