「お前さんはずいぶんいい目をしているな」
もう何年も誰とも口をきいていなかったかのように例のホームレスは誰かが捨てていった短くなったタバコを大切に吸いながらそう言った。オレは言っている意味が理解できなかったから無視した。
「人間はな、自分の中にエネルギーを貯めておくことなんかできないんだよ。人と話すのも女を抱くのも無一文になるまでギャンブルをするのも人を殺すのもな、ぜんぶ自分の中に溜まっているエネルギーを外に吐き出すためなんだ。オレは人殺しなんかしたことはないし借金もないただの乞食だけどな、仲間には人殺しの経験があるヤツも昔は金持ちだったのにギャンブルに嵌って一家離散したヤツも通勤中の電車の中で女の足を見て興奮して我慢できずにその女の尻に射精したヤツもいるさ。そういうヤツらは世の中ではバカだとか変態だとかクズだとか言われるだろうがオレはそうは思わない、ただエネルギーを発散する方法が他の連中と違ってただけだと思うんだ。そうやって他の連中と違うやり方でエネルギーを発散したヤツに共通しているのはな、目だ。お前さんが女を抱いたことがあるかどうかは知らんが女を抱いた後の男の目には充実と欠落と感傷が一緒にある。嘘だと思ったらそこらへんで見ててみろ、ホテルから出てくる男はみんな同じ目をしてるから。
だがな、他の連中とは違うやり方でエネルギーを発散したヤツはあんなに間が抜けた目をしちゃいない、そういうやり方でしか満足できないということを自分でもわかっているからいつ誰から攻撃されるかわからない。檻の中に入れられるか死なない限り完全に安心することはできないからだろうな。充実と欠落と恐怖が混じった目をしてるもんだ、感傷じゃないぞ、恐怖だ、お前さんはそういう目をしてるな」
こいつはオレのやったことを知っているのかも知れないと考えたくなる気持ちを必死に否定した。オレは薄ら笑いを浮かべて適当に誤魔化した。
「まあお前さんがどんな理由でここに来ようがオレには関係ないし興味もない、そんなことはどうでもいいことだ」
オレはこのホームレスを殺したいという自分の欲求に気づいた。ホームレスの男は暗闇にまぎれてしまうほど垢が溜まった浅黒い顔をしていて、靴底がほとんど磨り減っているサンダルのようなものを履いている。素材やもとの色がわからないほど汚れたズボンを履いていて、生地が使い古した雑巾のようになってしまったジャケットを着ている。体中に溜まった垢と皮脂が混じって耐え難い異臭を発している。髪はボサボサに伸びて束になって不愉快な艶を帯びている。近くにいるだけで不快になる。こういうヤツは、とオレは思った。こういうヤツは例えば駅前のロータリーなんかで地面に座りながらタバコを吸っている中高生に殺されてもしょうがない、盆栽や時代劇にしか興味のない年寄りやそうなる以外に生きる方法が見つけられなかったくせにドブ川のような口臭を発しながら偉そうに説教するのを生きがいにしている教師、つまりオレの父親のような人間と一緒で、生きているよりも死んだほうが評価されるような人種だ。そう思ったオレは脳の別の場所で黒澤明の名画『七人の侍』をイメージした。あの映画に出てくる百姓は一人の例外もなくゴミのような人間だった、何もない何もないと言いながら床下には食糧や酒を隠していて自分たちの集落の外側にいる人間には恐ろしく冷たくするくせに味方になってくれそうな人間にはヘラヘラ笑って機嫌をとっていた、あの百姓たちは本来は隠しておかなければならない何かを全て露出しているような顔をしていた、このホームレスの男はあの百姓たちと同じ顔をしている。オレはホームレスに対して強烈な殺意を持ったが、歌舞伎町や超高層ビル街を誰にも気づかれずに泳ぐシーラカンスの話は興味深かった。
ホームレスが青いビニールテントの中から毛布を持ってきて一緒に温まろうと手招きをした。ものすごく寒いので嬉しかったが、毛布は一枚しかないので温まるためには男と密着しなければならない。そうすれば向かい合っている今よりもさらに強烈な悪臭を嗅がなければならない。もうすぐ正月になる夜はどんなに温かくても零度に近くなる。トレーナーとハーフコートだけで野宿をするのはほとんど不可能に近い。オレは臭いを我慢して男と隣り合った。
ホームレスの男はサカグチだと名乗った。オレは聞いていないふりをして自分の名前を名乗ることを避けた。身内で起こったことだからあのバカな父親と母親は間違いなく隠そうとするだろう、だが死んでいるかも知れない、そうなればオレは今ごろ殺人犯として捜査されているはずだ。事件を起こして逃走しているような人間はたとえ相手がホームレスだとしても自分の名前を名乗ってはいけないような気がした。
しばらくするとサカグチは例のビニールテントに入っていって中からワンカップの酒を持ち上げながら笑った。歯が見えなかったら笑ったのかどうかわからなかった。
オレはテントの中に入った。中にはワンカップの酒が幾つもあって、この酒はどうしたのかと聞いたが乞食になったら教えてやると言われた。オレはサカグチがくれた一杯目のワンカップを飲み干して煽られるがままに二杯目を飲み始めたがそこから先は記憶がない。
目覚めた時にサカグチはいなかった。便所に行くついでに公園の周りを探してみたがどこにもいなかった。時計も携帯電話も家に置いてきたので正確な時間を知ることはできなかった。太陽の位置からすると恐らく昼前後だろう。昼を意識すると急に空腹を感じた。サカグチのテントに入ってからシーラカンスの話を詳しく聞こうと思っていたが、すぐにワンカップの酒を飲んでしまったので聞くことができなかった。これからどうするのかを決めたわけではないが同じ場所にずっといるとなんとなく不安になる。自分が起こしたことがテレビやラジオのニュースで報道されているかも知れない。未成年だから名前は公表されないだろうが身につけているものや特徴くらいは報道されるかも知れない。もしそうなら子供を遊ばせながらベンチに坐って話している主婦たちがオレに気づいて警察に通報するかも知れない。例え気づかなくてもホームレスのテントの中から出てきた若い男を不審に思って通報する可能性は十分に考えられる。同じ場所に長くいるのはものすごく不安だが、サカグチの言っていたシーラカンスの話を詳しく知りたいという欲求もある。とんでもない興奮と覚醒と恍惚を死ぬまで与えてくれるシーラカンスと一体になりたいと思った。シーラカンスと一体になる方法はないと言っていたが、確か話の途中で「らしい」と言った。そうだ、あの男は間違いなくそう言った。シーラカンスの話はあいつの作り話ではなくて誰かから聞いた可能性が高い。一体になる方法は本当にないのかも知れないがサカグチにその話をした人間を教えてもらうことはできるかも知れない。オレは財布の中身を調べてから近くのコンビニで昼飯を買って、テントの中でサカグチの帰りを待つことにした。自分のことが事件として報道されているか知りたかったが世の中で起こった事件の全てが報道されるわけではない。オレは、もし父親が死んでいたとしてもテレビやラジオで報道されてはいないと思い込むことにした。
夕方になってもサカグチは帰ってこなかった。当たり前だがホームレスのテントの中にはテレビもパソコンもi-podもないのでオレは毛布に包まって寝転がって帰りを待った。昼飯の他にマイルドセブンと幕の内弁当をそれぞれ二つ買ったが、マイルドセブンをレジのカウンターに出す時に年齢を怪しまれて身分証明書を出せと言われたらどうしようかと不安になった。店員はロボットのようにニュートラルな声で弁当を温めるかと聞いただけだった。
オレはどうして自分の父親を金属バットで殴ったようにサカグチに攻撃しなかったのだろうと考えた。シーラカンスの話は聞いてすぐに興味を持ったがシーラカンスと一体になりたいと思うほど強くはなかった。強く興味を持ったのはあいつが「らしい」と言ったことを思い出してからなので攻撃していたら後悔しただろうがそれほど執着したとは思えない。それに攻撃しても殺さなければああいうヤツは自分を攻撃する人間の言いなりになるはずだ。だからそれが原因ではない。サカグチは不潔で父親と同じくらい価値のない人間だが、オレは父親を殴ったようにサカグチを殴ることはないような気がした。現にもうサカグチを攻撃しようという気はない。だがもしオレがサカグチを金属バットで殺してもサカグチはホームレスなので誰も悲しまないだろうし不衛生な人間がいなくなったと喜ばれるかも知れない、自分の父親を金属バットで殴ることはホームレスを殴ることよりも恐らく罪の意識が大きいだろうが他人を攻撃するということは同じだ、だがサカグチを殴っても今のように焦りにも似た不安な気持ちになったり何かを達成したような高揚感を持つことはないだろう、不安になったり高揚したりしないということはサカグチは昆虫や野良犬と同レベルの生き物で殴ってもたいしたことのない相手なのか、ホームレスは殴ってもよくて自分の父親は殴ってはいけないというのはどういうことだろう、オレはそういうことを考えていたがいくら考えてもわからなかった。考えているうちにいつのまにか眠ってしまった。
もう何年も誰とも口をきいていなかったかのように例のホームレスは誰かが捨てていった短くなったタバコを大切に吸いながらそう言った。オレは言っている意味が理解できなかったから無視した。
「人間はな、自分の中にエネルギーを貯めておくことなんかできないんだよ。人と話すのも女を抱くのも無一文になるまでギャンブルをするのも人を殺すのもな、ぜんぶ自分の中に溜まっているエネルギーを外に吐き出すためなんだ。オレは人殺しなんかしたことはないし借金もないただの乞食だけどな、仲間には人殺しの経験があるヤツも昔は金持ちだったのにギャンブルに嵌って一家離散したヤツも通勤中の電車の中で女の足を見て興奮して我慢できずにその女の尻に射精したヤツもいるさ。そういうヤツらは世の中ではバカだとか変態だとかクズだとか言われるだろうがオレはそうは思わない、ただエネルギーを発散する方法が他の連中と違ってただけだと思うんだ。そうやって他の連中と違うやり方でエネルギーを発散したヤツに共通しているのはな、目だ。お前さんが女を抱いたことがあるかどうかは知らんが女を抱いた後の男の目には充実と欠落と感傷が一緒にある。嘘だと思ったらそこらへんで見ててみろ、ホテルから出てくる男はみんな同じ目をしてるから。
だがな、他の連中とは違うやり方でエネルギーを発散したヤツはあんなに間が抜けた目をしちゃいない、そういうやり方でしか満足できないということを自分でもわかっているからいつ誰から攻撃されるかわからない。檻の中に入れられるか死なない限り完全に安心することはできないからだろうな。充実と欠落と恐怖が混じった目をしてるもんだ、感傷じゃないぞ、恐怖だ、お前さんはそういう目をしてるな」
こいつはオレのやったことを知っているのかも知れないと考えたくなる気持ちを必死に否定した。オレは薄ら笑いを浮かべて適当に誤魔化した。
「まあお前さんがどんな理由でここに来ようがオレには関係ないし興味もない、そんなことはどうでもいいことだ」
オレはこのホームレスを殺したいという自分の欲求に気づいた。ホームレスの男は暗闇にまぎれてしまうほど垢が溜まった浅黒い顔をしていて、靴底がほとんど磨り減っているサンダルのようなものを履いている。素材やもとの色がわからないほど汚れたズボンを履いていて、生地が使い古した雑巾のようになってしまったジャケットを着ている。体中に溜まった垢と皮脂が混じって耐え難い異臭を発している。髪はボサボサに伸びて束になって不愉快な艶を帯びている。近くにいるだけで不快になる。こういうヤツは、とオレは思った。こういうヤツは例えば駅前のロータリーなんかで地面に座りながらタバコを吸っている中高生に殺されてもしょうがない、盆栽や時代劇にしか興味のない年寄りやそうなる以外に生きる方法が見つけられなかったくせにドブ川のような口臭を発しながら偉そうに説教するのを生きがいにしている教師、つまりオレの父親のような人間と一緒で、生きているよりも死んだほうが評価されるような人種だ。そう思ったオレは脳の別の場所で黒澤明の名画『七人の侍』をイメージした。あの映画に出てくる百姓は一人の例外もなくゴミのような人間だった、何もない何もないと言いながら床下には食糧や酒を隠していて自分たちの集落の外側にいる人間には恐ろしく冷たくするくせに味方になってくれそうな人間にはヘラヘラ笑って機嫌をとっていた、あの百姓たちは本来は隠しておかなければならない何かを全て露出しているような顔をしていた、このホームレスの男はあの百姓たちと同じ顔をしている。オレはホームレスに対して強烈な殺意を持ったが、歌舞伎町や超高層ビル街を誰にも気づかれずに泳ぐシーラカンスの話は興味深かった。
ホームレスが青いビニールテントの中から毛布を持ってきて一緒に温まろうと手招きをした。ものすごく寒いので嬉しかったが、毛布は一枚しかないので温まるためには男と密着しなければならない。そうすれば向かい合っている今よりもさらに強烈な悪臭を嗅がなければならない。もうすぐ正月になる夜はどんなに温かくても零度に近くなる。トレーナーとハーフコートだけで野宿をするのはほとんど不可能に近い。オレは臭いを我慢して男と隣り合った。
ホームレスの男はサカグチだと名乗った。オレは聞いていないふりをして自分の名前を名乗ることを避けた。身内で起こったことだからあのバカな父親と母親は間違いなく隠そうとするだろう、だが死んでいるかも知れない、そうなればオレは今ごろ殺人犯として捜査されているはずだ。事件を起こして逃走しているような人間はたとえ相手がホームレスだとしても自分の名前を名乗ってはいけないような気がした。
しばらくするとサカグチは例のビニールテントに入っていって中からワンカップの酒を持ち上げながら笑った。歯が見えなかったら笑ったのかどうかわからなかった。
オレはテントの中に入った。中にはワンカップの酒が幾つもあって、この酒はどうしたのかと聞いたが乞食になったら教えてやると言われた。オレはサカグチがくれた一杯目のワンカップを飲み干して煽られるがままに二杯目を飲み始めたがそこから先は記憶がない。
目覚めた時にサカグチはいなかった。便所に行くついでに公園の周りを探してみたがどこにもいなかった。時計も携帯電話も家に置いてきたので正確な時間を知ることはできなかった。太陽の位置からすると恐らく昼前後だろう。昼を意識すると急に空腹を感じた。サカグチのテントに入ってからシーラカンスの話を詳しく聞こうと思っていたが、すぐにワンカップの酒を飲んでしまったので聞くことができなかった。これからどうするのかを決めたわけではないが同じ場所にずっといるとなんとなく不安になる。自分が起こしたことがテレビやラジオのニュースで報道されているかも知れない。未成年だから名前は公表されないだろうが身につけているものや特徴くらいは報道されるかも知れない。もしそうなら子供を遊ばせながらベンチに坐って話している主婦たちがオレに気づいて警察に通報するかも知れない。例え気づかなくてもホームレスのテントの中から出てきた若い男を不審に思って通報する可能性は十分に考えられる。同じ場所に長くいるのはものすごく不安だが、サカグチの言っていたシーラカンスの話を詳しく知りたいという欲求もある。とんでもない興奮と覚醒と恍惚を死ぬまで与えてくれるシーラカンスと一体になりたいと思った。シーラカンスと一体になる方法はないと言っていたが、確か話の途中で「らしい」と言った。そうだ、あの男は間違いなくそう言った。シーラカンスの話はあいつの作り話ではなくて誰かから聞いた可能性が高い。一体になる方法は本当にないのかも知れないがサカグチにその話をした人間を教えてもらうことはできるかも知れない。オレは財布の中身を調べてから近くのコンビニで昼飯を買って、テントの中でサカグチの帰りを待つことにした。自分のことが事件として報道されているか知りたかったが世の中で起こった事件の全てが報道されるわけではない。オレは、もし父親が死んでいたとしてもテレビやラジオで報道されてはいないと思い込むことにした。
夕方になってもサカグチは帰ってこなかった。当たり前だがホームレスのテントの中にはテレビもパソコンもi-podもないのでオレは毛布に包まって寝転がって帰りを待った。昼飯の他にマイルドセブンと幕の内弁当をそれぞれ二つ買ったが、マイルドセブンをレジのカウンターに出す時に年齢を怪しまれて身分証明書を出せと言われたらどうしようかと不安になった。店員はロボットのようにニュートラルな声で弁当を温めるかと聞いただけだった。
オレはどうして自分の父親を金属バットで殴ったようにサカグチに攻撃しなかったのだろうと考えた。シーラカンスの話は聞いてすぐに興味を持ったがシーラカンスと一体になりたいと思うほど強くはなかった。強く興味を持ったのはあいつが「らしい」と言ったことを思い出してからなので攻撃していたら後悔しただろうがそれほど執着したとは思えない。それに攻撃しても殺さなければああいうヤツは自分を攻撃する人間の言いなりになるはずだ。だからそれが原因ではない。サカグチは不潔で父親と同じくらい価値のない人間だが、オレは父親を殴ったようにサカグチを殴ることはないような気がした。現にもうサカグチを攻撃しようという気はない。だがもしオレがサカグチを金属バットで殺してもサカグチはホームレスなので誰も悲しまないだろうし不衛生な人間がいなくなったと喜ばれるかも知れない、自分の父親を金属バットで殴ることはホームレスを殴ることよりも恐らく罪の意識が大きいだろうが他人を攻撃するということは同じだ、だがサカグチを殴っても今のように焦りにも似た不安な気持ちになったり何かを達成したような高揚感を持つことはないだろう、不安になったり高揚したりしないということはサカグチは昆虫や野良犬と同レベルの生き物で殴ってもたいしたことのない相手なのか、ホームレスは殴ってもよくて自分の父親は殴ってはいけないというのはどういうことだろう、オレはそういうことを考えていたがいくら考えてもわからなかった。考えているうちにいつのまにか眠ってしまった。