悩み多き日常を村上春樹風に綴るブログ、ぽんすけの。

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タイトルの通りです。
楽しんで頂ければ。

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「***ってワキガらしいよ」
とマツイさんは言った。まるで割れやすい陶器の花瓶を宇宙空間に向けて投げるかのようにためらいのない言い方だった。
ぼくたちはあるミュージシャンの話をしていた。ぼくとマツイさんはよく音楽の話をする。
まるでオフィスという言葉のイメージを再現したかのようなオフィスの一角にあるデスクで、ぼくとマツイさんは話していた。ぼくは24歳で、マツイさんはぼくより8つ年上でぼくが会社で一番仲の良い先輩だった。奥さんにも一度、会ったことがある。
「そうなんですか」
とぼくは平静を装って言った。
あんなにギターが上手いのにワキガなんだぜ、とマツイさんは惜しそうに言った。
意外ですねとぼくは言ったが頭の中では別のことを考えていた。
「いよいよバレたのだろうか…」
ぼくがこの会社に入って二年近くが経とうとしていた。
ぼくはドブのような嵐が心臓から肛門までを滅茶苦茶にしてしまう様な恐怖を感じた。


ぼくはワキガだ。それは間違いのない事実だった。地球が太陽の周りを回っているのが間違いのない事実であるのと同じ様に、ぼくもワキガだった。
そしてそこから派生する様々な事象はぼくをひどく混乱させた。
まず第一に、ぼくは自分がワキガであることを長い間知らなかった。そうかもしれないと疑問に思ったこともないし、誰もそれをぼくに教えてくれなかった。
今から考えてみるとそれはとても真っ当なことだった。言わないのではなく、言えなかったのだ。
それをぼくに教えてくれたのはトモコだった。トモコは僕が二十歳のときに初めて付き合った子で、ぼくの2つ下だった。
ぼくたちは付き合ってすぐに、何でも遠慮なく言える関係になった。
二人ともそういうタイプの交際を望んでいた。
だからトモコがぼくに、ねぇ臭いよと言ったときもぼくはオナラか何かだと思った。
「さっきのオナラかな」
とぼくは言った。
トモコはそれには答えず、鼻をクンクンさせながらぼくの全身を嗅いで、最後に脇の付近を集中的にクンクンした。そして突然
「オヴェっッッ」
と言った。
「おまえ脇くッッさ」
彼女は時々、男っぽい言葉を使う。
「そうかな」ぼくは右腕を上げ、可能な限り首を右に向け脇の匂いを嗅いでみた。
たしかに少し酸味のあるようなツンとした匂いを感じたけれど、それは肌の匂いだった。
誰だって肌の匂いはあるし、それが人と大きく違うなんてことは考えたこともなかった。
「ぽんすけワキガだよ。きもっ」
モーツァルトのソナタを初めて聴いた小鳥のように可笑しそうにトモコが言った。
「そんなに臭い?」とぼくは訊いた。
「とても」と彼女は言った。「自分でわからないの?」
「うん。むしろいい匂いだ」
ぼくがそう言うと彼女は小さな声で
「やばっ…」と言った。まるで声というものはいつもそうあるべきだとでも言いたげな確信的な言い方だった。
僕はもう一度自分の脇を嗅いでみたがそこには慣れ親しんだいつもの匂いがあるだけだった。
「やれやれ」とぼくは言った。


夜の河川敷は酷く静まり返っていた。遠くの高速道路を走る長距離トラックがその静けさを切り裂いているようにも思えたが、それは僕の想像だった。静けさは走る長距離トラックを呑み込む様にどこまでも広がっていた。
その中をぼくはいつもの様に走る。ナイキのスニーカーは気持ちよく僕の足に反発を与えてくれた。
夜の河川敷をひとりで走っているとだんだんと世界との距離を測る僕の中の目盛りの様なものが薄れていくように感じる。そしてその感覚に身を任せることが僕の中では走ることとイコールになりつつあった。走れば走るほど、薄れていく。
どうしてマツイさんはぼくにワキガの話をしたのだろうか。
ぼくは昼間の記憶を引っ張り出してきて考えてみた。ただ単純に面白い話だからそういう話題を出したのか(もっともぼくにとってそれはちっとも面白い種類の話ではなかったけれど)、それともぼくに何かしらのカマをかけたのだろうか。
しかしどれだけ考えたところでそれは分からなかった。
ぼくがワキガかもしれないとわかった夜、ぼくとトモコはインターネットでワキガの特徴を調べてみた。
ネット上にはワキガに関するサイトが実にたくさんあった。医療機関のホームページから話題の新治療法の紹介、体験をただ語り合うというページまであり、それらを見ているとこの世の半分の人間はワキガなんじゃないかとさえ思えた。
ふたりで幾つかのサイトを見た結果、ある程度ワキガの特徴が分かってきた。
自分では匂いに気付きにくい。耳垢が湿っぽい。脇汗をかきやすい。などいくつかあったがそれらはすべてぼくに当てはまった。
「ほら。やっぱりそうじゃん」とトモコは興奮して言った。
やれやれ、これはどうやらいよいよそういうことらしい。
それからぼくは会社に行くときは必ず制汗剤を脇に塗って出かけた。夏には汗を吸収するパットもつけた。それでも会社から帰ったぼくの脇を嗅ぐとトモコは顔をしかめた。
「まぁなにもしないよりはマシね」と彼女は言った。


どうしてぼくはワキガなのだろうか。
ぼくは走りながら今まで幾度となく頭を巡ったそのことをもう一度思考の中心に置いて考えてみた。
ワキガなんてものがぼくの人生に登場するなんて考えたこともなかったし、必要もないものだった。そんなものを意識する出来事も、認識すべきタイミングもなかった。
しかしそれは充分にあり得ることだなとぼくは思った。ぼくたちの人生は必要なものだけで構成されている訳ではないし、これから起きることを予め認識することもできない。むしろ不必要なものに囲まれながら、あらゆる突発的な意外性を持つ事象によってのみ人生は構成されていくのかもしれない。
そういった意味では、ぼくがワキガであることはとても自然なことのようにも思われた。


家に帰るとトモコがテレビを観ながら柚子シャーベットを食べていた。ぼくとトモコは、ぼくが働き出してすぐに一緒に住み始めた。
「自分で作ってみたの。ぽんすけも食べる?」と彼女は言った。
食べる、とぼくは言って汗を吸ったTシャツとハーフパンツを洗濯かごに入れた。
Tシャツを脱いだときそれとなく匂いを嗅いでみたが匂いらしい匂いはしなかった。
「今日会社の人と話してたらワキガの話題になったよ」とぼくは言ってみた。
「へ~」トモコは興味があるのかないのか分からない相づちを打った。
「バレたかな?」
ぼくはソファに座って柚子シャーベットを食べた。味よりも冷たさがぼくの舌を刺激した。
「バレたんじゃない?」
「ヤバいよヤバいよ。どうしよう…」
世紀末にひとり地球に取り残された出川哲朗の様にぼくは言った。
「ウケる~」と彼女は言った。
ぼくは食べていた柚子シャーベットをテーブルに置いた。
「やれやれ」とぼくは言った。