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★自作乙★

小説について考える日々のあれこれ。創作日記。読書。自己分析。

震災から一年が経った。


僕は一応、東北に住んでいるわけであり、打撃こそ少なかったが、去年の今頃はまさに停電の真っただ中だった。


生憎、暖房器具は電気を要するものしか無かったため、暗闇の中毛布にくるまって、ペンライト片手に漫画を読みながら復旧を待っていた。翌日、車の中でラジオを聴くまでは、あれほどまでの大惨事になっているなど、知る由もなかった。


直接被害にあった地域に比べたら、僕の住んでいる街など無傷も同然なのだが、やはり買い占めは発生した。米が店から消え、カップラーメンすら買えなかったため、職場で昼飯代わりにポテトチップスを食べていた日が何日か続いた。


確かに「異常」な買い方をしている奴はいた。電池をアホみたくカゴにぶち込んで万単位の会計を支払っている奴、

品切れに逆ギレし、店の店員に「倉庫を見せろ」と怒鳴っている奴、

そんな奴らは確かにいた。


だが、それは「生きる」意思とは、何か別なもののような気がした。


現状に、常に優位であろうとするふてぶてしさ、自宅に溜め込んだ生活必需品を眺め「ウチは大丈夫だ」と、優越感に浸るいやらしさを感じた。


この国は自殺が多い。年間3万人という数字は世界的に見ても異常である。しかも、この数字は自殺実行から24時間以内に死亡した人間のみカウントされたものである。つまり、それ以後の死亡、あるいは未遂者はカウントされない。単純に考えても3万という数字の倍以上の人間が自殺を試みている計算となる。


この自殺大国の裏には、日本国民が異様に固執する「優位性」に問題があるのではないかと、僕は思う。


決して致命的ではない「現状」でも、それが他者、平均より下位であるというだけで不安でたまらない。死んだほうがマシだと考える。これははっきり言って「病気」だ。


内定が決まらない、というだけで自殺する大学生がいるという話を聞いたとき、じゃあ高卒の自分(僕)は生きる価値すらないのだろうか、と首を傾げてしまった。


「比較」への圧倒的な弱さ。これが現代の日本人の最大の問題ではないだろうか。


優位性を欲するということは、結局のところ「差別」の上位に位置することが生きる意味となる。それが努力あるいは成功への原動力となるのも事実だが、そうした価値観の浸透が、人を殺しているのもまた事実である。


話は反れたが、震災から一年を振り返って、僕自身東北人の一人として単純に考えたことを記述してみた。被災者の方々には「頑張れ」などという安い言葉はかけられない。金を送るほどの余裕もない。僕に出来ることは、そういった「比較」の外で生きること。アホな優越感や劣等感は捨てること。いつ誰が、どこで生活をはじめても、お金が無くても、恥じる必要などない社会を築くことである。また、それが出来なければ、震災は終りを迎えることはなく、また、自殺大国の「病」を癒すことは出来ないだろう。