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武市は藩論を転換すべく積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国、中国、九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年(1861年)10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」[16]を授かった後に、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れて長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から武市宛の書簡を託されている[30]。
龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいると挫折を感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来た。脱藩は藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、浪人となった脱藩者は藩内では罪人となり、更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。


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武市は藩論を変えて挙藩勤王を希望しており、脱藩して上洛する策には反対していた。だが、一部の同志が脱藩することを止めることはできず、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞等が脱藩し、ここにおいて龍馬も脱藩を決意した[31]。
龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞の手引きを受けていた。龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀は全て権平に取り上げられてしまった。この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある[32]。龍馬は那須信吾(後に脱藩して天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した[33]。
脱藩した龍馬と沢村はまず長州下関の豪商白石正一郎を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日に寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清された。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。一般的には龍馬は沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は詳らかではない[34]。
一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月頃に大坂に潜伏している[34]。この時期に龍馬は望月清平と連絡を取り[35]、自らが吉田東洋暗殺の容疑者と見なされていることを知らされる。

土佐藩では幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。だが、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を豊範に譲り隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。
安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった[26]。
同年7月、龍馬の朋友である武市半平太が武者修行のために門人の岡田以蔵(後に「人斬り以蔵」の名で知られる幕末四大人斬りの一人となる)、久松喜代馬、島村外内らとともに土佐を出立した。武者修行と称していたが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前・美作・備中・備後・安芸・長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。
文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起り、下士と上士の間で対立が深まった。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
同年4月、武市は江戸に上り、水戸藩、長州藩、薩摩藩などの諸藩の藩士と交流を持ち、土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした[27]。これにより、同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた[28]。
武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した[29]。 武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与えて、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。
勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。


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小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から「修業中心得大意」[16]を授けられ、溝渕広之丞とともに土佐を出立した。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷[17](または鍛冶橋の土佐藩上屋敷[9])に寄宿し、北辰一刀流の千葉定吉道場(現:東京都千代田区)の門人となる。定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小千葉」または「桶町千葉」として知られ、周作の「玄武館」(大千葉)とは別である。道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われる佐那)がいた。
龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている[18]。
同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した。そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教授されていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。
安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中に、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」[16]を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽記略』を編んだ絵師河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎、長岡謙吉らを紹介されている[19]。 またこの時期に、徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。
安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した[20]。 同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、武市半平太、大石弥太郎らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では小千葉道場とともにお玉が池の玄武館でも一時期修行している[21]。
安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年、盗みを働き切腹沙汰となった龍馬と武市の親戚関係にある山本琢磨を逃がす[22]。 安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる[23]。 千葉佐那の回顧によると、この年に龍馬と佐那が結納を交わしているが[24]、結納は文久2年とする見方もある[25]。同年9月に土佐へ帰国した。