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細野通之~本当しかいらない

携帯(スマホ)で撮ったオリジナルの写真や、性別も超えた想いや詩や文章を中心に、この世の本当のことだけを書いています



四万 桃太郎の滝


水は
流れていく



気がつけば


どうしていいかわからないまま
ずいぶんと時が流れた



流れながら溜まる水が
輝いている




そんな風に
生きていたい



































私たちは
自分と対になるような何かを
切望し
引き寄せようとすることがあります

恋愛などはその最たるもので
その他にも
素晴らしいと思えるものが欲しくなったり
自分に無いものを持っている誰かを好きになったり
今の自分の境遇とは全然違う待遇を望んだり
無い物ねだりしたりします

憧れたり
諦めたり
嫉妬したり
逃げたり
追い求めたりします

しかしそれは
一方的なものでは成就しません

自分と対になる何かに
求められるような自分でなければ
それは
独りよがり
一人相撲になってしまいます



私は今
その資格を得よとか
同じ価値同士でなければとか
そういう話はしていません

自分と対になるものだと思っているものが
実は
自分とそれとが
同じ意味の中に存在していることを
知ることこそが
大事なんだという話をしています


ある素晴らしい絵があるとします
その絵は確かに
その人でなければ
描けなかったのかもしれません

その絵に価値があるとすれば
あなたのように
その絵が素晴らしいと思う人が
勝手に価値をつけます

誰も価値をつけなくても
その絵は既に
素晴らしいのですが


その絵が酷いと思う人がいても
素晴らしいと思う人がいても
その人たちの意識も含めて
その絵なのです

その人達がその絵に
注目した時点で
その絵の存在と
その絵を意識した人の意識とが
合わさって
その絵になります

絵は物ですから
その絵は発信元でしかありません
如何様にもその絵は解釈され得ます
ひとりの人であっても
気分によって
その絵の見方が変わるかもしれません

でも絵はそのままです


これが絵ではなく
人だとしたら
もう少し複雑です

人はお互いに影響を与えあって
そのままではいられないからです
ましてや
生きているのですから
変化し続けていることになります

エスカレーターに乗るときに
歩調をエスカレーターの速さに合わせると
殆ど衝撃が無く
スムースにエスカレーターに乗れます

キャッチボールで球をとる時
掴むというよりは
軌道に合わせて
球をグラブに入れる感じにとると
スムースにキャッチ出来ます


何が言いたいのかというと
この世の物事は
ホリスティックに存在しているということです


バタフライエフェクトのように
ほんの小さな何かが
全ての物事に影響し
ともすると信じられないくらい
増長する可能性を秘めているということです




ここが、利根川と吾妻川が合流する地点です。
手前から奥に流れる川が吾妻川。
奥の左手から右手に流れるのが利根川。
利根川と吾妻川に挟まれた左手の陸地が渋川市白井。
合併以前で言うところの子持です。
←が北。
その左側はるか奥手には子持山が鎮座します。
北を上にして、利根川の右側には赤城山。
吾妻川の左側には榛名山がそびえています。
画面右手の陸地が渋川市街地。
私が生まれたのはこんな場所です。
渋川市は、日本列島の真ん中に位置するというキャッチフレーズで、ここ30数年、へそ祭りなるものを催しますが、実は渋川市街地は股下なのではないかと私は思います。
私の誕生日は、昔から達磨市で賑わいます。

とてもおかしなことですが、他の場所と地続きであるかのように当たり前に、生まれ育ったこの地を訪れることが出来るようになったのも、ここ数年です。
幼少期に想像し抱いた世界観があまりにも濃く充満しているため、私にとってこの地だけは別世界だったのです。
まるで、ずっとずっと昔に毎日のように観ていたテレビドラマ、そこで使われた風景に実際に立つように、
私の胸は今もザワザワします。
それは種明かしをされた手品のようでもあり、夢でしか行くことのできない場所を目の当たりにしているようでもあります。
視野の狭いが故に凝縮された濃厚な空気を、幼いが故に創り出した…その片鱗がまだそこにはあります。
強い重力をも感じます。
それは母が若かりし日の想い出や、私が産まれる時に初めて感じた光や音や匂いでもあります。
私にとってはそういう場所なのです。