11月15日 撮り鉄&紅葉 明智光秀ゆかりの地・滋賀院門跡 | ウォーリーのブログ

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前回の続き 一週間前の11月15日(日)。西教寺から歩いて30分。滋賀院門跡へ向いました。

元和元年(1615)天海大僧正が、後陽成上皇より、京都の法勝寺を腸わり、移築され明暦元年(1655)後水尾上皇より滋賀院の号を腸わった。しかし、残念な事に、明治11年に火災で全焼し、現建築は明治13年に、延暦寺の山上にあった建物を移築再建したものである。

境域は約一万坪の敷地にお成門(勅使門)・内仏殿・宸殿・二階書院・庫裡・台所・通用門の6棟の土蔵からなり、宸殿と二階書院に面した庭園があり、外観は堂々たる石垣の上に土塀がめぐらされ、天台座主の御座所として地元では、滋賀院御殿と呼んでいます。

当日は、天気が良く、本堂から近江富士を観る事が出来ました。

庭園 宸殿の西側に、三代将軍家光公の命により、南北に細長く池泉観賞式に作庭され、特徴としては、蓬莱山形式を用い、左手に亀島を、右手の滝に巨石で鶴石組をなし、正面を蓬莱山となし、池中央には豪華な切石で橋を架けて、細長い池庭を引き締めて居ます。

南北にある船着石は、硯石の手法をとり、切石橋と共に江戸初期の作風を表している。

作庭は小堀遠州で、二階書院より眺める庭園は琵琶湖を借景としており、蹴鞄の庭と呼ばれています。

慈眼堂 比叡山焼き打ち後の復興に力を注ぎ、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、黒衣の宰相と云われた慈眼大師、南光坊天海大僧正を祀る廟所である。

境内には桓武天皇、後陽成上皇、後水尾上皇および徳川家康や紫式部、和泉式部、新田義貞の供養塔、そして江戸期以降の歴代天台座主の墓がある。

 

天海=光秀説 明智光秀は、本能寺の変で、織田信長を討ち果たした後、山崎の戦いで、豊臣秀吉に敗れ、落命したとされますが、生き延びて、南光天海と名を変えて僧と成り、徳川家康に仕えたという説が有ります。

本能寺の変の黒幕が、家康との説も有り、信長を殺害した光秀に恩義を感じ、一般的には、秀吉に殺害された事にして、天海と名を変え、自分の側近に加えたという事。

天海の前半生は不明で謎に包まれて居ますが、その余命は100歳を超えたと言われて居ます。