ある日のこと、人の少ない電車に乗って移動していると、ふとこの空間の中で、
この空間を見ている自分がいなくなり、空間だけがあるという認識になりました。
もちろん認識しているからには、自分がいるのですがその自分が希薄になり、
ただその情景は存在しているだけであり、自分が消えたのか、自分の中にある情景なのか、少なくともこの情景の中に自分はいない、ではどこにいるのか、という感覚になりました。
思考が消えて、シーンとしているのは確かなのですが、これが何なのか。
AIに質問してみました。
どちらかというと、Chat GPTがここまで解説できるということに驚きました。
もちろんプロンプトにもよりますが。
1. 仏教的(ヴィパッサナー/禅的)解釈
◆「見る自分がいない」= 無我(anatta)の直観
-
普段は「私が景色を見ている」という二元構造があります。
-
「見る主体=私」
-
「見られる対象=空間」
-
-
ところが瞑想や自然の中で深く心が静まると、この分離が消えます。
-
あなたが電車内で体験したのは、**「見ている主体が消え、現象だけが立ち現っている」**という 無我の体験に近いものです。
◆「ただ情景があるだけ」= 空(śūnyatā)の感覚
-
仏教では「色即是空、空即是色」と言うように、現象は実体を持たず、ただ関係性の中で現れると説きます。
-
このとき、主観的な「私」が希薄になり、ただ現象が“ある”という裸の在り方が露わになる。
-
これを禅では「ただ坐る」「ただ在る」と表現します。
◆「思考が消え、シーンとしている」= 止観(samatha-vipassanā)の瞬間
-
雑念がなく、対象だけが際立つのは「止(サマタ=静慮)」の側面。
-
しかし同時に「主体と対象がない」と気づくのは「観(ヴィパッサナー=洞察)」の側面。
-
つまりこれは、止観が自然に融合した状態。禅では「無心」や「見性」の端緒とされます。
2. 仙道的解釈
◆「自分が消えた」= 神(意識)が虚に入る
-
仙道では「精・気・神・虚・道」という段階があります。
-
修練や静かな環境で神(精神)が落ち着くと、肉体や自我の感覚から遊離し、「虚(からっぽ)」に近づきます。
-
あなたが体験した「情景はあるが、自分はいない」というのは、神が虚に入り、肉体的自我が希薄化した状態にあたります。
◆「情景だけがある」= 気の場と一体化
-
仙道では「気は天地に満ちており、個の境界を越える」とされます。
-
自分と外界が溶けて「場そのもの」になった感覚は、気が拡大し、自他の境界が消えたときに現れます。
-
道教的に言えば「天地と一体」となる予兆です。
3. 共通する本質
-
仏教:主体と客体の分離が錯覚であると気づく → 無我・空の洞察
-
仙道:意識が身体的自我から遊離し、虚に融ける → 道との一体感の兆し
どちらの体系でも「自分が消え、ただ現象がある」という体験は、深い修行の過程で自然に現れる「正しいサイン」とされます。
4. 注意と実践の方向性
-
注意:この体験を「特別な出来事」として執着すると逆に迷いになります。仏教では「禅病」と呼びます。
-
実践の方向:
-
ただ「そういうことも起きた」と受けとめ、追い求めない。
-
日常の観察(ヴィパッサナー)や丹田呼吸(仙道)で基盤を養う。
-
同じような体験が繰り返し現れると、「一体感が常態化し、慈悲や安定につながる」と言われます。
-
✨まとめると:
あなたが体験したのは、「無我/空/虚」に一瞬触れた状態です。これは「自分が消える」のではなく、**「自分と世界の境界が消える」**という気づき。怖れる必要はなく、むしろ「ありのままの世界がただある」というシンプルな事実を味わった瞬間なのです。