🟡 「当たり前」に込められている「想い」
僕が今年1番大切にしなければと思っている

『「当たり前」の捉え方』

について書いてみようと思います。

みなさんは「当たり前」の捉え方次第で、私たちの人生が大きく変わることをご存知でしょうか?
私は最近、気がつきました(笑)

私たちの人生とは、日々の暮らしの集合体のようなものです。
1日1日が積み重なり1年という単位になります。(1歳年をとります)
そして1年という単位を何度も繰り返すことで、人生を築いていきます。

そう考えると、日々をどのような「心」で生きているのかが、そのまま人生に反映されていくことになります。

仕事でも、育児でも、日々の出来事に「豊かな心」で向き合うことができれば、人生はとても豊かで素晴らしいものになるはずです。

では日々の出来事に「豊かな心」で向き合うには、どうすればいいのでしょうか?

じつは今日『「当たり前」の捉え方』について書こうと思ったのは、『「当たり前」の捉え方』によって、私たちは「豊かな心」で生きていくための力をもらうことができると感じたからです。
「当たり前」に込められた「想い」を感じることができれば、私たちは「豊かな心」で人生を築いていくことができます。

今日は僕5年前体験した出来事をもとに、『「当たり前」にはどのような「想い」が込められているのか?』を説明させていただきます。

「当たり前」に込められている素晴らしいギフトを、ぜひみなさまにも受けとっていただければと思います!

「当たり前」は多くの「想い」によって形作られている

みなさんにとって「当たり前」とは、どのようなことですか?

ご飯を食べれることでしょうか?

お風呂に入れることでしょうか?

家があることでしょうか?

家族や友人がいることでしょうか?

健康でいられることでしょうか?

教育制度が整っていることでしょうか?

医療制度が整っていることでしょうか?

私が生まれてこの方、上記のような物事は全て「当たり前」のこととしてありました。
私は上記のような「当たり前」の物事を、「当たり前」として捉え生きてきました。

しかし47歳の時に脳梗塞で右脳を失い、今まで感じていた「当たり前」が崩れる経験をします。
半身不随になり、後遺症と呼ばれる脳神経の病後、鬱を併発し、歩くこと、と生きることが難しい時期があったからです。

私はこの時はじめて、健康でいられることは「当たり前」ではないことに気づくことができました。

よく言われることですが、「当たり前」の反対語(対義語)は「感謝」です。
僕は健康でいられる体を失って、はじめて「当たり前」の捉え方を変えることができました。健康な体でいられることは、「当たり前」ではなく、とても「感謝すべきこと」なんだと。
しかしこの時はまだ、「当たり前」の捉え方が少し変わった程度で、まだまだ浅い段階でした。

なぜなら「当たり前」を形作っている「想い」に気づくことができていなかったからです。

私は健康な体でいられることには「感謝」をしていましたが、病院への「感謝」は皆無でした。
(脳梗塞により右脳を失ったから)

病院があることは「当たり前」

病院で病気を治してもらえることは「当たり前」

健康に関しては、少しは感謝できるようになれたのですが、その他のことに関しては「当たり前」と感じてしまうことが多々ありました。
しかし昨年、ある出来事をきっかけに「当たり前」を形作っている「想い」を強く感じる経験をします。

じつは2年前、禁煙にチャレンジしました。そしたら、鬱が酷くなってしまったんですね(笑)
今度は精神科へと、すると先生は一言「辞めるのを辞めなさい」精神科医が言っているんだ。脳外には、言っておくからと、
(自業自得ですが 笑)

病気になるのは辛いことですが、病気になることで気づけることもたくさんあります。

特に「当たり前」に込められた「想い」を深く感じることができたことは、今後の人生にとってかけがえのないものになると確信しています。

今僕がお世話になっている病院では、先生が診断した結果をもとに、他の病気にならないか検査を定期的にを行なってくれます。リハビリに通っていたときの先生たちから教わった不自由な部分の原因になっている部分の負担を軽減するための体幹を鍛える方法や、痛みを和らげるストレッチなども教しえていただきました。
病院にはリハビリに役立つ設備が充実しています。スポーツジム並みにリハビリに役立つ機械が揃っており、運動療法により痛みや不自由な面のの根本を改善する取り組みも行われていました。
(設備は充実しているので、あとは各個人の努力次第です 笑)

医療というのは年々進化しており、昔は対処できなかったことにも、時代と共に対処できる方法が確立されるようになりました。

僕がなった脳梗塞についても同じです。
僕は体力が低下して歩くことや話すことができないほどの時もあるのですが、リハビリで教わったトレーニングや、脳トレをすると、不思議と 体力や、思考が軽減され、仕事ができるようになります。
(体とは様々なところが繋がっているようで、不自由で、体の痛みが軽減されます)

医療の発展のおかげで、僕は日々の生活を、痛みとうまく付き合いながら送ることができています。

しかし、もしこの「当たり前」に受けることができる医療が発展していなければどうでしょうか?

僕が教えていただいた「柔軟」やトレーニングなどの痛みや不自由さに対応する方法もそうですし、体幹トレーニングや運動療法もそうです。
今となっては医学的には「当たり前」と思えるこれらの方法もすべてありません。
もしかすると生まれた時代によっては、私は寝たきりになっていた可能性さえあります。

考えるだけでもとても恐ろしいことです。それと同時にこんなことも考えるようになりました。

『医療の「当たり前」はどのように確立されたのだろうか?』と。

この時私が感じたのが、「当たり前」に込められている「想い」についてです。

私と同じような悩みを抱えた人を、多くの人が「どうにかして悩みを楽にしてあげたい」と想い行動してくれたかこそ、今の医療の発展があるのではないでしょうか?

体の構造を研究してくれた多くの研究者たち。治療法を考えてくださった医療関係者の方々。リハビリの機械を考え出してくれた人たち。彼らの仕事を支えているたくさんの人たち。
もちろん最初から全ての治療法やシステムが確立されていたわけではありません。失敗を何度も繰り返し、それでも諦めずに「強い想い」を持ち、取り組み続けてくれた人たちのおかげです。

僕は「病院があることが当たり前」「病院では病気を治せることが当たり前」という感覚でしたが、このように「当たり前」に込められている「想い」を感じると、とても「当たり前」と言うことはできません。

ここまで医療を支えてくれた全ての人の「想い」が、今の私を支えてくれているのですから。

今の医療の「当たり前」は、多くの人たちの愛ある「想い」によって形作られています。
このことは医療以外の、他の「当たり前」に関しても同じです。

雨風をしのげる家に暮らすことができるのも。水道から水が出るのも。電気がつくのも。
近所のスーパーで気軽に食材を購入することができるのも、学校で勉強ができるのも、他にも・・・

僕たちの周りにある「当たり前」は、多くの人たちの「愛情」「思いやり」といった素晴らしい「想い」から生まれたものが、たくさんあります。
多くの時代、数え切れないほどの人たちの「想い」がつながり、今の「当たり前」は形作られています。

「当たり前」から「想い」を感じることができれば、私たちは生まれた時からずっと多くの人たちから愛情を受け育ってきたことがわかります。
たとえ自分が愛情を受けて育っていないと思っている人であっても。自分は恵まれない環境で育ってきたと思っている人であっても。

誰もが多くの「想い」によって支えられ、生かされています。
もう書いてるだけで思い出し涙が出てしまいます。

皆んなに伝わればいいなぁと思ってます。

〜 佐藤憲一 〜



🟢 「頭で考えること」、「心で感じること」の違いとは?・・・・

       
みなさんは「頭で考える」こと、「心で感じる」ことの違いってわかりますか?

なんとなく、「頭で考える」ことより「心で感じる」ことのほうが良さそうな気はしますが、「言葉で説明してくれない?」と言われると困ってしまいますよね。
よくドラマや映画、漫画などでは、師匠が弟子に向かって「頭で考えるんじゃない!心で感じるんだ!!」と言っているのを見聞きしますが、おそらく師匠も「具体的に説明してくれません?」と言われると困るはずです(笑)

僕は「心で考える」脳の病気をしたからなのか脳の仕組みや機能を沢山勉強調べたりしました。人間は、脳に支配しれているのかとか、「心で感じる」ことがとても大切だと思ったからこそ、意識して生活するようになったとも言えます。
今回ははこの「心で感じる」ことを意識して生活するようになり気づいた、「頭で考える」こと「心で感じる」ことの違いを書いていこうと思います。

「頭で考える」と「心で感じる」の違いを「言葉」で表すことで、みなさんにも2つの違いを、まずは「頭」で理解していただきたいと思います。そして2つの違いを、実生活を通して「心」で感じていただければと思います。

 

「本質」が見えるのは、「頭で考えた時」ではなく「心で感じた時」

「頭で考える」と「心で感じる」との違いは、一言でいうと『「本質」を捉えることが、「できるか」「できないか」』の違いです。

「頭」で考えた場合、私たちは物事を「浅く」しか見ることができません。しかし「心で感じる」ことができれば、物事を「広く深く」見ることができます。
私たちは、物事を「広く深く」見ることができた時、その物事の「本質」を捉えることができます。

冒頭で師匠と弟子の話をしましたが、「頭で考えるんじゃない!心で感じるんだ!!」というセリフは、『物事を「表面上の情報」だけで判断するのではなく、「本質」を捉えなさい』と言っているのと同じです。

じつはこの「頭で考えるんじゃない!心で感じるんだ!!」という言葉は、世の中では様々な表現で語られています。

「失敗は成功のもと」

「目先の欲に囚われてはいけない」

「見た目に惑わされてはいけない」

「基礎を疎かにしてはいけない」

一見すると全て違う言葉のようですが、これらの言葉は、全て『「頭」で考えるのではなく「心」で感じなさい。』と言っているようなものです。

上記の言葉を言い換えるとするなら、下記のようになります。

「頭」で考えていては、「失敗」を活かすことはできませんよ。
「頭」で考えていては、「欲」に囚われますよ。
「頭」で考えていては、「見た目」に惑わされますよ。
「頭」で考えていては、「基礎」を疎かにしてしまいますよ。

では「頭で考える」、「心で感じる」とは、具体的に、どのように考えたり感じたりすることなのでしょうか?

 

・「頭で考える」とは?

「頭」で考えるとは、その言葉どおり人間の「頭」を使い考えること、つまり「脳」が持っている「力」を使い考えることです。

僕たちが普段、無意識に使っている「脳」の力ですが、この「脳」の力に、私たちは知らず知らずのうちに、大きく影響されています。

僕たちは、「目」や「耳」で見聞きした「表面上の情報」をもとに、物事を考えます。
(これまでの「経験」も含め)
しかし実際には「表面上の情報」というのは、「人」や「物事」を判断する材料の1つにはなりますが、全てを表しているわけではありません。

「脳科学」でも次々に明らかにされているように、「脳」というのは、私たち人間にとっての素晴らしい機能をたくさん兼ね備えています。私たちが生きていくために、「脳」は進化し、一生懸命働いてくれています。

僕たちが「危険」を避けることができるのは、「脳」の判断のおかげです。お腹が空くのも「脳」が判断してくれます。「脳」のおかげで、便利な道具を作りだすこともできます。

このように人類が誕生して以来、「脳」のおかげで僕たちは生きて行くことができ、今の世の中の発展があるとも言えます。

しかしこの「脳」の素晴らしい機能が、僕たちの「心」で感じることの邪魔になる時があります。

僕たち人間は、「不安」や「恐怖」という感情に敏感です。なぜなら遥か昔から、人類が生きていくためには、「不安」や「恐怖」という感情に敏感になることが求められてきたからです。
僕たちの身が「危険」にさらされた場合、たとえば猛獣に襲われた場合や、災害が起きた場合、私たちが1番優先しなければいけないのが「命」を守ることです。
「脳」が「恐怖」を感じ、瞬時に「逃げる」という命令を「体」に下すことで、僕たちは「危険」を避け、「命」を守ることができます。

「本能」とも呼ばれるこの「力」があるからこそ、私たち人間は「逃げる」という選択を瞬時にとることができます。

しかし「不安」や「恐怖」を感じた時に、この「脳」の反応に影響されないほうが良い時もあります。
「失敗」に向き合う時などは、まさにそうです。

「失敗」に向き合わずに「逃げる」ことを選択してしまう時などは、この「本能」とも呼べる「脳」が持つ力の影響を、強く受けてしまう時です。

僕たちの多くは「失敗」に対して、「嫌なこと」「怖いこと」「怒られること」などの良くないイメージを持っています。さきほど言ったように私たち人間の「脳」というのは、「不安」や「恐怖」を感じると、本能的に「逃げる」ことを選択してしまいます。
「頭」で「失敗」について考えた場合、「不安」や「恐怖」に囚われてしまい、「失敗」に向き合わず「逃げる」という選択をしてしまいます。
これは「頭で考える」、つまり「脳」を使うことで、「失敗」という物事の持つ「表面的な情報」である「嫌なこと」「怖いこと」「怒られること」、というイメージに左右されてしまうからです。

「脳」は、「失敗」の悪い部分を強く感じてしまい、「失敗」の一面だけを見て判断してしまうので、「逃げる」という選択肢を選んでしまいます。

しかしその「失敗」に対して、「頭」で考えた物事に囚われるのではなく、「心」で感じることができた人がいます。
その人が「心」で感じ、出した答えが「失敗は成功のもと」という言葉で表現されています。

 

・「心で感じる」とは?

「心で感じる」とは、文字どおり「心」で物事を感じようとすることです。

物事の「表面上の情報」や「イメージ」に囚われないよう、物事の全てを感じ、「本質」を捉えようとすることです。

さきほどの「失敗」の例に戻りますが、「頭」で考えてしまうと、「失敗」に対して「不安」や「恐怖」という感情に囚われてしまい、「逃げる」ことを選択してしまいました。
では「心で感じる」と、どうなるのでしょうか?

「心で感じる」とは、「失敗」に対する「嫌なこと」「怖いこと」というイメージに「囚われないようにすること」です。
「嫌なこと」「怖いこと」といったイメージだけでなく、「失敗」が持つ全ての要素を感じることで、「失敗」の「本質」を捉えようとします。

「心で感じる」とは、物事の「全て」を受けとめようとすることです。

「失敗」とは「嫌なこと」「怖いこと」ではあるけれど、「活かす」こともできるものだと。
「失敗」には必ず「原因」があり、「原因」を考え改善することができれば、「成功」に導くことができるものだと。

このように物事というのは、「心」で感じることができれば、「本質」を捉えることができます。
「本質」を捉えることができれば、「頭」で考えていた時よりも、多くの選択肢を持つことができますし、より良い選択肢を選べることにも繋がります。

「頭で考える」ことは大切ですが、「心で感じる」ことはもっと大切なことです。
「頭で考える」ことに左右されず、「心で感じる」ことができれば、より広く深く物事を見ることができ、「本質」を捉えることができます。

では、さきほど上の方で書いた表現にも、当てはめて考えてみようと思います。

「目先の欲に囚われてはいけない」

「見た目に惑わされてはいけない」

「基礎を疎かにしてはいけない」

これらは全て、「頭」で考えてしまった場合に起きてしまうことです。

「頭」で考てしまうと、「脳」が持つ目先の「快楽」を求めるという「本能」に左右されてしまいます。(「欲」に負ける)

「頭」で考てしまうと、「脳」が「目」や「耳」で見聞きした「表面上の情報」で判断してしまいます。(見た目に惑わされる)

「頭」で考えてしまうと、「面倒くさい」という「脳」の反応に左右されてしまいます。(基礎を疎かにしてしまう)

僕たちは、「頭」で物事を考えてしまう時、最善の選択ができなくなってしまいます。
逆に物事に「心」で向き合い、「全て」を感じようとすれば、より良い選択肢を選ぶことができます。

「心」で感じることができれば、目先の「欲」に囚われず、より全体(先)を見て良い判断を下せます。

「心」で感じることができれば、見た目で判断するのではなく、「人」や「物事」に対して、広い視野でより良い判断をすることができます。

「心」で感じることができれば、「基礎」の「面倒くさそう」「地味」「面白くなさそう」といった「表面上の情報」に左右されることなく、「本質」を捉えることができます。
「基礎」の「本質」は、「成功のもと」であることを理解し、「基礎」を大切なものとして扱うことができます。

僕たちが生きていく中で、「頭で考える」(「脳」の力を使う)ことはとても大切です。
しかし「頭」で考えてばかりいては、「本質」を捉えることはできません。
物事を広く深く見ることができなければ、「本質」を見逃してしまいます。
「本質」を捉え、より良い選択をするためには、「心で感じる」ことを大切にしなければなりません。

(「失敗は成功のもと」「基礎が大切」の個別の「本質」については、以前このブログで書いた記事をお読みいただければと思います。)

 

自分の「本質」を捉えよう

僕たちの今の世の中というのは、「頭で考える」ことが「当たり前」になっている世の中です。

子供の時を思い出していただければおわかりかと思うのですが、私たちは「成績」「運動神経」といった、ある一面を見て物事を評価することが「当たり前」の世の中で生きてきました。
人それぞれに「得意なこと」、「苦手なこと」、「興味があること」、「興味のないこと」、「頑張れること」、「頑張れないこと」があるのにも関わらず、ある一面の評価を重視して優劣を決めてしまいます。

子供の頃から、このように「ある一面の評価」を重視して人を判断することが「当たり前」になっているので、僕たちの多くは、何の疑問を持つこともなく、この「頭で考える」ことが「当たり前」になり大人になります。
そして多くの人は、「頭で考える」こと、つまり「脳」が求めるものを満たすために人生を歩むことになります。
「他人と比べて自分はどうか」「世の中の基準に照らし合わせて、自分の収入、生活、容姿はどうか?」など。

もちろん僕たちは人間ですから、みなこのようなことを気にするのは「当たり前」のことです。お金を稼ぐことや世間の目を気にすることは「頭」が考えてしまうものなので、それを感じないのはまた別の意味でおかしなことなのかもしれません(笑)

ただ、もしこのように自分の「表面上の世界」を満たすためだけに(囚われて)、自分の人生を歩んでいるとしたら、それは本当に自分の「本質」から出た答えに従って、人生を歩んでいると言えるのでしょうか?

さきほど書いたように、僕たちは「頭」で考えてしまうと、物事を表面上の情報で判断してしまい、「浅く」しか見ることができません。「心」で感じることができれば、表面上の情報に囚われず、物事を「広く深く」見ることができます。

これは自分の「人生」に当てはめても、同じことが言えます。

もし僕たちが「お金」や「世間体」、「将来の不安」などに囚われて生きているなら、自分自身の人生を「頭」で考え生きていることになります。
表面上の情報に囚われ、「心」の奥底にある自分の「本質」に気づくことができていない状態で、人生を歩んでいる可能性があります。

自分が持つ「本質」である、「才能」や「可能性」に気づき生きていきたいのなら、「頭」で考えた物事に囚われることなく、自分自身にしっかりと向き合い考える必要があります。

「自分が囚われているものは何か?」「自分が本当に求めているもの何か?」「心がワクワクすることは何か?」「心から喜びを感じることは何か?」を深く見つめ考え、自分の「本質」に気づくことが、自分らしく人生を生きることに繋がります。
自分自身の「本質」を発揮できた時、私たちは本当の意味で「幸せ」を感じることができます。
それは、いくら「お金」や「地位」や「名誉」を手に入れても、満たすことができないものです。

だからこそ、僕たちは自分の「本質」に目を向けられるよう、「心で感じる」ことを大切にしなければなりません。

 

今回は「頭で考える」こと、「心で感じる」ことの違いを説明させていただきました。

僕たち人間には、「頭で考える」「心で感じる」、2つの「力」が備わっています。
「物事」と向き合う時、「心で感じる」ことができれば、より多くの選択肢を持つことができます。「頭」で考えていた時よりも、より良い選択肢を持つことができます。

ただ、ここで勘違いしてほしくないことが1つあります。私は「頭で考える」ことが悪いと言いたいのではありません。
なぜなら僕たちの今があるのは、「頭で考える」という、「脳」の素晴らしい「力」のおかげだからです。
だからこそ、その素晴らしい「力」を活かすためにも、「心で感じる」ことを大事にしなければいけません。

僕たちは「心で感じる」ことで、より良い選択肢を持つことができます。そしてそのより良い選択肢を実生活で活かすには、「脳」の力で考えることが必要です。より良い選択肢を活かすためには、「頭」で考えることも、とても大切なことです。

だからこそ、順番が大事だと感じています。

何か大切なことを決める場合、自分の人生であれ、家族の人生であれ。会社の目指す方向、社会の目指す方向、世界の目指す方向であれ。
どのような物事に向き合う際にも、まずは「心で感じる」ことを大切にしてみる。そして「心で感じる」ことで見えたより良い選択肢を活かすために「頭で考える」。
この2つの「力」を、順番を守り活かすことができた時、私たちは「今の自分」「今の世の中」を超える、素晴らしい「道」を見つけることができます。

僕たちがまずしなければいけないことは、いかに「頭で考える」ことに囚われているかに「気づく」ことです。

実生活では多かれ少なかれ、誰もが必ず「不安」や「恐怖」「欲望」などに囚われてしまう時や、物事を「表面上の情報」で判断してしまうような時があります。これは人間である以上、避けることはできないことなのかもしれません。
ただ、そんな時こそ、一度立ちどまる練習をしてみてください。

深呼吸をするのもいいですし、少し時間をおくのもいいでしょう。散歩をしたり、運動をするのも効果が期待できます。
「頭を冷やす」という言葉があるように、これらは頭を休ませる方法の1つです。

頭で考えることの影響を受けすぎず、「心」に余裕のある状態でもう一度同じ物事に向き合うことができれば、おそらく少し違った目線で物事を見れるようになるはずです。

「頭で考える」、「心で感じる」、これらの違いをしっかりと理解し、実生活で意識することで、みなさまにも「心で感じる」ことの大切さを、経験をとおして実感していただければと思います!

 

ちなみに、「心で感じる」ことができるようになるためのポイントは、「心の余裕」を持つことです。
私たち人間は、「心」に余裕がなくなると、物事の一面しか見ることができなくなります。
「怒り」「憎しみ」「悲しみ」「恐怖」「欲」などの影響を強く受ける時というのは、「心で感じる」ことが難しくなってしまいます。

逆に「心に余裕」のある時は、物事の全てを受け入れることができます。
私たちが「より良い選択」、「より良い人生」を歩むためには、「心の余裕」を持ち、様々な物事に囚われることなく、「心で感じる」ことができるようになる必要があります。

僕は今、鬱病です。今も病院も、通院通いお薬も飲んでます。自分が、鬱だとわからなかった時は、物凄く辛かったです。お医者さんに、「術後鬱だ!  、なおっから!」と言われた時、腰砕け先生の前で崩れ落ちました。「なーんだ病気のせいだったのか」
と安心したんです。凄く怖い病気です。立ち直るために僕は、記憶をたどり、以前の自分を振り返りました。何度も何度も、「無敵のポジティブマン」だった自分を取り戻せた感じですが、でも、先生にもう来なくていいと言われるまで、はお世話になります。

〜 佐藤憲一 〜


エアコンのお掃除です。

こんにちは、デイサービスなごみです。

今日は朝早くから エアコンクリーニングの業者(ライフアップ)さんにきていただき

エアコンのお掃除をしていただきました。

今年は 室外機の方もしっかりとお願いしたので 気持ちのよい風が吹く事でしょう。

日曜日にもかかわらず 遅くまで ありがとうございました。

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