きた!福山雅治が坂本龍馬!


最初はえー?て思ったけど、


きっとまた、新しい福山さんが見られるんだと思ったら


どうしようもなくわくわくしてきて、


もうブッキーには申し訳ないが


天地人は早送りして、早く2010年になっていただきたい。


さぁ、どんなキャスティングになるんだろう。


妄想は止まらない~♪


ゆれる


<ストーリー>

東京で写真家として成功した猛は母の一周忌で久しぶりに帰郷し、実家に残り父親と暮らしている兄の稔、幼なじみの智恵子との3人で近くの渓谷に足をのばすことにする。
懐かしい場所にはしゃぐ稔。
稔のいない所で、猛と一緒に東京へ行くと言い出す智恵子。
だが渓谷にかかった吊り橋から流れの激しい渓流へ、智恵子が落下してしまう。その時そばにいたのは、稔ひとりだった。


事故だったのか、事件なのか。
裁判が始められるが、次第にこれまでとは違う一面を見せるようになる兄を前にして猛の心はゆれていく。
やがて猛が選択した行為は、誰もが思いもよらないことだった──。

(↑公式サイトより抜粋)

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兄・稔の最初の裁判が行われた後、亡くなった智恵子の母親が猛に投げかけたセリフ。


「娘は殺されるような人間だったのでしょうか。」



私が「ゆれる」を観たのは今年2008年の初夏。


秋葉原での事件の少し後のことでした。


だからなのか、このセリフが妙に頭の中で繰り返されてしまいます。


殺されていい人なんかいない、


まして自分の大切な人であれば、今日も明日も明後日も生きていて当然。と私たちは信じています。


なのに事件に巻き込まれた途端、その確信はもろくも崩れ去ってしまう。


私の身近な大切な人たちは今日もみんな元気にやってて、


私もこうしてブログをのんびり書いていて、なんてことなく生きてるけど、


もしも誰かが、何かに巻き込まれたとしたら・・・


考えたくもないです。考えません。


でもきっと、「なんで?」ていう想いと共に、


「○○は殺されるような人間だったの?」って心のどこかで自問自答してしまうのだと思います。


もちろん、「そうじゃない!」ってことは自分が一番わかってるのに。


こんな苦しいこと、ないですよね。



そして、  この苦しみ  と  兄弟であること  の間にゆられざるを得なかったのが


この映画に登場する兄弟の弟・猛なんだと思います。



娘を失った辛さを搾り出すように、智恵子の母親が吐き出したという静かな悲鳴


兄・稔が殺してしまったんだ という不完全な記憶


「殺人者の弟」になりたくないだけ という兄からの挑発



「尊敬していた」兄、「田舎でこじんまり生活している」兄、「智恵子のことで自分に嫉妬していた」兄...


事件を発端に様々な兄像が頭の中に呼び起こされ、生成されていく兄に関する記憶のなかで、


猛の記憶は「兄が智恵子を殺した」という確信に近いものができあがっていたのだと、私はおもいます。



兄弟だからこそ、その事実を隠そうとがんばってみたんだけど、


稔の狂乱ぶりや挑発をうけるうちに、


兄弟だからこそ、兄に殺人の罪を償わせるべきなんだ!という気持ちのほうが強くなっていった。



それは一見正義ともとれるけど、無意識のうちに自分とは正反対の兄に対する歪んだ想いにあふれていました。


智恵子という存在や、彼女との関係が、


猛のゆれる気持ちを一層「兄が殺した」方向へと導いたのではないでしょうか。


もしも、亡くなったのが智恵子ではなかったら、猛の気持ちはゆれなかったかもしれません。



結局、無実の罪で刑務所に7年送られてしまった稔ですが、


私には、稔はそうなることを望んでいたように思えてしようがありません。


根拠はありませんが、稔は純粋に、全てを弟に委ねたのではないでしょうか。


猛が自分を疑っていることも、おそらく有罪の証言をするだろうということも、全部予想した上で。



状況がどうであれ、自分の振る舞いが智恵子を死なせてしまったことに違いはなく、


晴れて無罪放免、早いうちに仕事に復帰しても一度貼られたレッテルは色濃く付きまとうに決まっている。


それならば刑務所に行き、出所後は誰も知らない地へ向かおう


という、有罪か否かの問題よりも


半加害者側として残された家族や仲間たちをできる限り守るために


稔なりに自分にできることだったのではないか、と感じました。


無実だとみんなが信じている中で、この独りよがりの想いに到達してしまうほど


稔自身もゆれていたのではないでしょうか。


まああくまで、私の感じたことなんですけどね。



信じることや、思いやることって、


たとえ「兄弟」という堅い絆があるように見えていても、


とても難しいことなんだなって、


逆に疑うことって、本当に簡単なことだなって、


痛烈に感じさせられた映画でした。


稔は難しいことのできる人で、猛は簡単なことに逃げてしまった人。



私を含めほとんどの人が、猛なんだと思います。


日々ゆれてゆれてゆれまくって、「不確かな」確信のなかで生きてる気がするから。



だからこそ、


7年後、ラストシーンの稔の笑みが、赦しにも、稔の勝利にも感じられるのですが、


私はこれが、猛と観客に対する「赦しの笑み」だと信じています。