芸術は知識でない。
芸術は知識を厭ふ。
創造の世界に知識はない。
天分の多い芸術家に、知識の豊富なることは、もとより妨げがない。しかし、ただ妨げがないといふだけのことである。
芸術を鑑賞しやうとする人にあつては、知識が往々妨げになる。芸術は感情の世界であるから、知識といふものは、大抵の場合、堆積脂肪である。堆積脂肪がスポーツマンに禍ひするが如く、知識は芸術鑑賞家を毒する。
知識は直線である。
芸術は曲線である。
曲線のないところに、知識の頑固性がある。
雑駁なる知識を卑む。といふが、知識といふものは、尽く雑駁なるものである。
「あの人は物知りだ」といふことばには、決してその人を尊敬した意味はない。物識りは軽蔑されるのである。知識が軽蔑されるのである。
私の郷里には、「節用集」といふあだ名を人につける習慣がある。そのあだ名をつけられた人は皆物識りである。私の少年の頃、村々に大抵一人づつの節用集があつたものだ。なんでもわからんことがあつたなら、「節用集のところへ行つて問ふて来い。」それですぐ間に合つた。
「節用集」は甚だ重宝であるが、尊敬されてゐなかつた。昔から、知らず知らずのうちに、人は知識を卑んだものらしい。
少年の頃、私は、父の曝書を手伝ひつつ、古事記や旧事記や、玉だすきの間から、「節用集」といふ古い書物が一冊出て来たのを見て、大に笑つたことがある。物識りのことを「節用集」と、人並みに呼んで愚弄することをおぼえてゐたが、そのいはれを知らなかつたのである。なるほど、この本にはなんでも書いてある。これ一冊あつたら、大抵のことがわかる。それで物識りのあだ名が「節用集」か。と、私は一つの珍らしい知識を得たのに、 一種の妙な感情をそそられたことがある。知識もかうなると、芸術に近い。
知らぬ他国にも、百科大辞典式知識を卑しむ風習があつて、「百科大辞典」が物識りのあだ名に用ゐられてゐる。
「節用集」と「百科大辞典」と、それから。堆積脂肪と。
知識は玄米で、学問は白米だ。同じものを精製しただけの話だ。
或る一部の人たちに玄米食が行はれてゐるやうに、学問有害の説もないではない。しかし、なんと言つても、口にうまいのは白米だ。どちらにしても、堆積脂肪のもとになることだけはたしかだが。
論語読みの論語知らず。といふことばは、前に言った「節用集」に似ている。
学問のうちでも、科学は胚芽米のやうなものであらう。
科学は一ばんよく、芸術と相抱擁する可能性をもつてゐる。特に自然科学において。
エヂソンは、蓄音機を発明した。五十年の昔に。しかし、晩年のころ最新式の蓄音機の前に立つた彼れは、そのかけ方を知らなかつたといふ。
これあるかな。と私は感心した。科学上の発明もエチソンぐらゐになれば、一つの芸術だとも言ひ得るか知れない。天才である。節用集や百科大辞典知識では、できない仕事だ。
進歩した機械の構成が、直ちに芸術と一致する。そこに、新芸術が生れる。といふことを、このごろだいぶ聞くやうになつた。まさに芸術と科学との握手である。私もそれについて、少し発表したことがある。
機械が、直ちに芸術の内容となり得るものか。
芸術の形式と機械の表現とは、一致し得るものか。
機械の感覚のみで、人間生活は伴はないでも、それが芸術的であり得るものか。
かういふやうな、幼稚と言へば幼稚な質問を、私は、この一二ヶ月以来、諸方から受けてゐる。
レコード誌の発刊を幸ひに、私は、これからかうした質問に答ふるやうなつもりで、毎号何か書いてみたいと思つてゐる。
蓄音機のレコードに直線はない。彼れは曲線ばかりで成立してゐる。
(文学界社、昭和11年刊『蓄音機読本』による。初出は、音楽世界社『レコード』創刊号(昭和5年9月)か)
・「解剖 マスターピース」は北斎の特集。
・神奈川沖波裏の波の形を追っていく。曲亭馬琴『椿説弓張月』を「荒唐無稽な作品です」と端的に紹介してました。
・いや、そうなんでしょうが、どうなんでしょう。もう少し言い様があるような気がしますが・・・
・神奈川沖波裏の波の形を追っていく。曲亭馬琴『椿説弓張月』を「荒唐無稽な作品です」と端的に紹介してました。
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