子供の頃の将来の夢何だった?
雑誌を作る人になりたかった
こどもの頃になりたかったもの。
左官屋さん→白バイ警官→ジャム屋さん→「小学4年生」を作る人……
いろいろ回り道はした。「小学4年生」には書いたことはないけれど、雑誌を「つくる側」の仕事ができたことは、私の人生で「ほとんど唯一うまくいったこと」かもしれない。
「小学4年生」にこそ“ご縁”がなかったが、小学館の雑誌だと「女性セブン」や「別冊サライ」で書いた。「週刊ポスト」では連載も持たせてもらった。小学館には足を向けて眠れない。
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いわゆる「物心」がついた頃には、もう本に夢中だった。うちはずっと共稼ぎだったので、本は“子守り代わり”だった。本ばかりだと飽きてしまうので、『ベビーブック』『めばえ』『幼稚園』『たのしい幼稚園』『キンダーブック』と、子ども向けの雑誌はほとんど定期購読していたと思う。
小学校に入ってからは、小学館の『小学〇年生』シリーズ、学研の『学習』と『科学』。付録にはほとんど興味がなくて、とにかく文字を隅々まで読んでいた。その頃は漠然と、そういう「雑誌を作る人」はどんな人だろう。自分もなれるだろうかと思っていた。まだ「編集」という言葉すら知らなかった。
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高校生になる頃には、おこづかいのほとんどが雑誌に消える生活だった。そして「投稿」。読者が参加できるページにはどんどん手紙やハガキを送った。自慢ではないが完全に自慢だが、採用率は9割程度。「OLIVE」「an・an」「ビックリハウス」「ぴあ」「ダ・ヴィンチ」……「an・an」のコピーライト大賞では最優秀を1本、優秀を2本とって、ご褒美にコピーを書いたブランドのジャケットをもらった。今でも大事に着ている。
それから進学や留学、留学先での大学院受験の失敗などなど、紆余曲折があった。何をやってもうまくいかない挫折感の中で「どうせダメなら、やりたいことをやろう」と思った。でも「食っていく」ため、自分の中で一番高く売れる部分で稼ぐしかない。私の場合、それが「書く」ことであり、ステージが「雑誌」だった。
「でもしか」でフリーランスのライターになったわけだが、まさに“雑誌”という水を得た魚。デビュー2年目には、かつて読者で、毎週ボロボロになるまで読んでいた「ぴあ」で連載を持たせてもらった。小学生の頃の「漠然とした夢」が叶ったともいえるだろう。
夢はある日「目標」になり、やがて「目的」になる。そこを乗り越えれば、あとはメシのタネだったり、自己表現だったり「手段」となる。今はもう“かつての夢”は、稼ぐための「道具」だ。ボールペン1本と同じくらいカジュアルに、自分の手の中にある。
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