まずは、今まで読んで下さった、ボランティア精神の旺盛な皆様に感謝の気持ちを述べます。
本当にありがとうございました。
何とか11月中に終えることが出来ました。
それにしても、7月末に始めて以来、自分でも、こんなに続くとは思いもしませんでした。
途中、何度止めようとしたことか。
そんな時、励ましてくれたNさん、Mさん、Fさん、Cさん、Sさん、Rさん、その他にも、沢山はいませんが(笑)、読んで下さった皆様、こんな自己満足、自己感傷?的な文章にお付きあいしていただきありがとうございました。
感謝の気持ちでいっぱいです。
さて、ここからは単純に結果報告のみにします。
僕は、年明けの頃より、精神状態が不安定となりました。
入試の始まった二月には、自分の呼吸が止まってしまうのではないかというほどの緊張感の中での本番でした。
無理もありません。それまで勉強とは全く無縁の僕が、あっちゃんと出会って以来、一年半も京大合格という無謀な挑戦を続けたのですから。
直前になって、極度の緊張のため、精神のバランスを崩してしまっても、それは当然のことだったのかも知れません。
それでも、出願した六校は全て受験しました。
結果は、、、、
4勝2敗
第一志望の京大と、滑り止めのA大が不合格で、それ以外は合格という不可思議なものでした。
京大は駄目でも、同志社、立命は合格、つまり、念願の京都の大学に進学出来ることにはなりました。親も、手続き金を振り込んでくれていました。
ところが、僕はそうしませんでした。
京大不合格が分かった後に、失意のうちに受験し合格した、国立大学への入学を決めめたのです。
もう一年という選択肢は、全くありませんでした。限界ギリギリのところ、いや、限界はとっくに超えていたからです。
では、なぜ京都の大学にしなかったのか?
今でも分かりません。
どうして京都へ行かなかったのか。
最後の最後まで悩んだのは事実です。
京大以外では、あっちゃんとの約束、
『京大合格までのリザーブ』
を果たすことが出来ないと考えたから?
いえ、多分違います。
あっちゃんは、同志社、立命でも大喜びしてくれました。
その後、あっちゃんとは、僕が大学三年、彼女が京都の大学に入学した年の晩秋、ちょうど今頃の季節まで、付き合いました。
そして、11月の末日、そうです、その年の今日、僕達は別れました。
京都から最終の新幹線の中で、僕は東京駅に到着するまで、涙が止まりませんでした。
授業を終えて戻ってきたあっちゃんと、河原町にある小さな喫茶店で待ち合わせ。
それが最後でした。
彼女は、ドアベルを鳴らして、一人静かに出て行きました。
僕は、その音で彼女が僕の元を去って行ったことを知ったのです。
あとには、テーブルに置かれた花を見つめる僕だけが残されました。
その後、どこをどう歩いたのか、僕は京都駅から最終の新幹線に乗ったのです。
タケシ先輩は、地元の医学部に入ったものの、その年の六月に自らの命を絶ちました。その辺りのことは、以前のブログにも少し書かせてもらってます。
あっちゃんとのことは、また機会があれば、書きたいと思います。
今は僕の『17才夏物語』は、ここで閉じたいと思います。
最後に、もう一度、今まで本当にありがとうございました。
アキラ
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