『早稲田の一文といったら難関じゃないですか。そんな条件をどうして受け入れたんですか?ひどいじゃないですか』
『そこなんだよ。確かにこれは親父の策略だよね。いくら成績良かったからって、あれだけさぼってたら受かるはずはないよ。僕だって分かってたよ。でも、僕はその条件を受け入れた』
『なぜ?』
『それは、僕が弱いからだよ。僕は、結局今医学部の道へと戻った。親父の言うとおりになった。僕にはそうなる大義名分が欲しかったのさ。文学は目指したけど、駄目だった。でも、本当は、川を渡って向こう岸に行く勇気はなかった。楽な安定した道を選んだ』
僕は、同じ医学部を目指す岡村のことを思い出していた。
確かに、同じ医学部進学の悩みでも、岡村の方が、ずっと深刻のようにも思われた。
『親父は、医学部だったらどこでもいいって言ってる。実は地元にも私立の医学部があって、そこなら大した勉強しなくても、入学できると思うんだ。でもね、君の話を聞いてたら、ちょっと考えさせられた』
『と、いうと』
『そんな後ろ向きな気持ちで入るより、京大目指そうかなって』
『えーっ、大賛成です。僕は医学部じゃないから』
『そうか、じゃあアキラ君と同じ学部にしようかな』
『止めて下さいよ。ライバルが増えちゃう』
僕は、慌てて言った。
タケシ先輩は、そんな僕を見て、心の底から笑ったように思えた。
『こんなに人としゃべって、笑ったのは久しぶりだよ。アキラ君ありがとう』
『いえ、こちらこそです。じゃあ今、金沢住んでるんですか?』
『いや、東京の予備校に通ってる。予備校の寮に住んでる。でも、ここの方がずーっと落ち着く。君もいるしね』
僕は、あっちゃんに電話しようとしていたことも忘れていた。
その日をきっかけとして、僕達は勉強の合間によく話をするようになった。話だけではなく、食後には、山を散歩したり、運動不足解消のため相撲をとったり。
お盆の時期には、ご主人に村の夏祭りにも連れていってもらった。そこで、盆踊りにも参加して、僕達は二人で仲良く踊った。
そして、僕が文学部志望だと知ると、室生犀星の詩を読み上げてくれたりもした。
『僕は、小景異情という詩集の、ふるさとは遠きにありておもうもの……が一番好きです』
僕がそう言うと、タケシ先輩は嬉しそうな顔をして、その詩を読み上げてくれた。
読み終わった後で、こう付け加えた。
『多分、故郷を離れた作者が、異郷の地で故郷を懐かしく思ってると解釈されるんだろうが、実は違うんだよ。生まれ故郷には、たとえ、こじきになっても帰りたくないんだよ』
『愛憎入り交じるってやつですか?』
『さすがは文学部志望だ。それに近い。彼の生きざまを話すと長くなるから、また今度話してあげるよ』
『分かりました』
タケシ先輩は、節度ある人だった。決して自分の考えを押し付けたりしない。優し過ぎるのかも知れない。
そして、僕達は再びそれぞれの机に向かうのだった。
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