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日本でのワープロ最初期を思い起こせば、「機械で書いたものに魂がこもるか?」などの批判があった。今は「パソコン・ケータイが小説のあり方を変えるか?」という議論が盛んだ。本書は、19世紀末から20世紀初頭に続々と現れたテクノロジーこそがモダニズム文学を形成したとするテクノ・モダニズム論(1987年刊)待望の本邦初訳である。
 前世紀転換期、芸術はその題材、文体、アプローチなどにおいて本質的な変化を遂げていた。バルザックが137巻の小説として構想したものを、ジョイスはダブリンのわずか1日を書くことで、『ユリシーズ』の1冊に圧縮したのである(それは小説スタイルの転換のみならず、主人公が電車で移動することにより可能になった)。この違いをケナーは、植字工が一つずつ活字を組む方法と、当時登場したライノタイプ鋳植機とのそれに準(なぞら)えている。ジョイスは、現代人がもの言わぬ「無言性」の印刷物に支配されていることを洞察し、旧来的な語り手を作品から排した。そこから無限の読みを可能にする『フィネガンズ・ウェイク』が生まれたのだ。その文学はテクノロジーとごく緊密に結びついていた。
 都市をつぶさに観察した詩人T・S・エリオットが特に意識したテクノロジーは、時計や電話や地下鉄だった。人々は朝起きると時計に分刻みで管理されて地下鉄で通勤し、電話という突然他人の生活に割りこみ声だけを運ぶ機械で会話をする。都市生活はきれぎれになり、人々の経験を「パケット化」して届ける。エリオットはこのことを敏感に感じとって『荒地(あれち)』を書いたのだと、ケナーは指摘する。多数の声を有した『荒地』を「電話の詩」と言い、中央交換局で大規模なショートが起きたさまに喩(たと)えるあたりの発想の大胆さ愉(たの)しさが、本書を親しみやすくするだろう。
 同じく詩人のエズラ・パウンドが取り憑(つ)かれたのは、機械内のメカニズムだ。機器の「力が集中する部分」にたまらない魅力を感じ、機械は機能と無関係な部分が出てきたとたん「美と思考を失う」と言った。エネルギー、効率、集中、正確さ、没個性。それはパウンドも提唱者の一人となったイマジズムの「冗長さを排する姿勢」と自然に重なるのである。
 最終章で扱うベケットはいわば情報理論を取り入れた形で、テクノロジーの点では最も進んでいたようだ。ケナーに言わせると、1944年作の『ワット』の一部はパスカルというプログラム言語にほぼ変換できる。そのプログラムは、何も行わず、何も表示 せず、何もアウトプットしないものだ。まさにベケット文学 ではないか。だが、そうしてベケットが自ら袋小路 に入りこんだことで、文学は行き止まりから引き返すことができたのだ。
 テクノロジーは人間の機能 を補綴(ほてい)するものとして作られ、気づかぬうちに生活をのみこみ、身体や感覚まで変化させていく。本書は前世紀の文学のことを書きながら未来 を見通している。すでに故人となったケナーが「ウェブという名の詩神 」を書いていてくれたらと思うのは、私だけだろうか。