私は、
『神への愛』と『人への愛』は表裏一体ということを、
あまり考えたことがなかった。
ものみの塔出版物で、
『神が人間に求める愛』=『(王国を第一にするという)行動』
という刷り込みをされたからなのかもしれない。
この授業では、放蕩息子の物語と雅歌(ソロモンの歌)の一部が取り上げられた。
放蕩息子に示した親の愛が、神の愛ということは、(JWに)よく知られている。
しかし、雅歌の愛の表現が『神が人間に求める愛の描写』ということは、知らなかった。
(私だけなのか?)
(ものみの塔出版物には、雅歌の引用・参照聖句が少ないので読まなかったからなのか?)
雅歌8章3節~7節
『愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。
大水も愛を消すことはできない。洪水もそれを押し流すことはできない。』
という表現と、
申命記6章4節
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛すること』
を比べると、
『神への愛』は、恋愛で愛するのと同じと考えることができる。
『雅歌に表現されている男女の盲目的な激しい恋愛感情は、
神への愛の強さと在り方はどうあるべきかを学ぶためのもの』
と考えると、
恋愛感情を持ったことのある人は、神への愛が理解できることになる。
例えば、ネアンデルタール人。
遺跡を調査すると、彼らは埋葬する習慣を持っていたようだ。
→仲間の死を悼んでいた
→恋愛をしていた
→宗教(神への愛)を持っていたのかもしれない
となる。
では、どのように人は恋愛をするのか?
心理学者のユングが考えたのは、
『熱烈に恋愛するが、その実体は自分の理想像を無意識に作り上げているだけ』
『自分の心の中の理想像は自分でコントロールできるが、本物はコントロールできないから、相手に失望する』
『女性の理想像は、『強くたくましい男性』→『実行力のある男性』→『言葉と知性ある男性』→『意味を与えてくれる男性』というように変化する』
ということだ。
JWと重ねて考えると…
まず、
自分の理想を膨らませて恋をする。
自分の望みを叶えてくれる、自分の周囲の状況を変えてくれることを期待する。
→現実の悲惨さを訴え、悲しみも苦しみも死もない楽園での生活を夢見る。
→自分の理想をエホバ神に投影する。
この後、JWの行く末を3つに分けてみた。
①実物の男性が自分の理想と違うことを認識し、失望する
→楽園での希望が非現実的だと思い直し、WTやJWから離れる
②実物の男性が自分の理想通りだったら、その人に熱狂する
→いわゆるマイコン状態に入る。会衆内の霊的パラダイスに満足するので宣教に励む。
理想像が変化したなら、恋愛感情をずっと持ち続けるのは難しい。
→『初めに抱いた愛を忘れないように』と、WTは教え続ける。
理想像が変化するのは、本人の人間的成長によるもの。
成長すると要求が変化するので、理想像も変化する。
→『自分の力で考え・行動するのは、独立の精神なので避けるべき』とWTは教えるので、
JWは人間的成長を阻まれ、理想像は変化しないかもしれない。
③実物の男性に会うことができないので、初めの理想を持ち続ける・理想を膨らませる
→『エホバを待つ』『エホバのご意志』というフレーズにより、実際の『神』と向き合うことを避ける。もしくは、向き合おうとしても叶わない。
ある意味、片想い状態が続くと言えるかもしれない。
…と考えると…
『エホバへの愛』と恋愛は似ている…
それなら、
『エホバに恋するJWをエホバから引き離すことは不可能に近い』
と、なってしまう。
たとえ、『恋人が『だめんず』だったとしても、別れさせることは難しい』ことを考えると、
ガッカリだが、仕方ないとも思える。
せめて、WTの教える神は『だめんず』と気付いてほしいのだが…
勿論、WT・JWに限らず、宗教と恋愛は似ているのだろう。
そして、宗教と愛も。
(次に続くかもしれない)