自分は今までブログで書いてきたように、土木には利便性や防災減災という物理的な実利以上の意義があると思っています。たしかに橋やダムとかその構造物自体には何にも変えがたい機能があります。でも土木の意義はそこでとどまらないんじゃないでしょうか。それが歴史や共同体を培う側面だと思うのです。

現代ってあらゆる時間(歴史)と空間(共同体)が細切れに分断され続けている時代だと思うんです。田舎の村はますます小さくなって孤立するし、LGBTとかポリティカルコレクトネスとか色んな社会的、政治的思想が細かく分立して立ち上がって、革新的な手法によってかつての時間的な繋がりは無視されて新しいことが脈絡なく居座ってますし。でも本当は人間の社会には、過去と繋がる時間の流れ(歴史)と、一緒に生きる他者(共同体)がなければ何ら守るべき固有の価値のない、代替可能な虚しいものになると思うんです。理性をもって突き詰めても真理らしいものは何も証明できない以上、実際それくらいしか人間が確からしさを抱けるものないんじゃないですかね。そしたら歴史と共同体というものは人間にとってなくてはならないし、これらの要素を培う土木は現代においてとても大きな役割があると思うのです。(そこらへんの細かいところは過去の記事にあるていど書いたと思います。)

 

しかし!これは自分にとっての理想や信仰のようなものにすぎず、実際の現場においてはその感情が行動と一致する瞬間は少ないです。自分の行動と理想は実際の現場ではなかなか全然繋がりませんし、体現されません(笑)

いや結果として構造物ができあがれば、その理想のいくつかは叶ってはいるとは思うのですが、ただ実際そこに携わっている人間がそのことを実感できていない。感情を持つ人間としてそこに有機的な実感がないのが虚しいのです。私は頭の中ではこの土木という行為にロマンや雄大さを感じていますけど、実際に普段行っている土木はもっと堅苦しく、不自由で矮小です。それが何故なのかよく考えをめぐらすことがあります。何故理想と現実の間でこれほどまでに大きな乖離があるのか。論理的に考えれば土木という行為の本質はこの理想に結び付くことが可能だとは思うのです。でも実際の現場でそれが体現されない、働く人がそれを実感できていない。特に現場で実際に工事をしている人間が最もそこから乖離しているように思う。これが非常に大きな問題だと思っています。何故かといえば実際にその構造物に最も多く携わる人たちが「自分たちが作っているものには重要な意義があるのだ」という実感がなければ、やっていることがただただ形骸化していくじゃないですか。その果てに残されるのって自立性のない無気力なシステム中毒者ですよ。そういう人間には物事を良くしていくための内発的な力がありません。理想もなく、ただただ自らを維持し続けるためだけのシステムが回転し続ければ社会はよくなりますかね。例えばいくら法改正しても特殊詐欺なんて一向に減らないし、いじめをやめさせるためのルールをいくら作ろうともいくらでも裏でいじめは起こりますよ。肝心なのはその核心じゃないですか。なんのためにどういう理由でそれがあり、そのためにこれから先はどうしていかなければいけないかっていうことが不明確になっている。現在の公共工事や土木に必要なのはこういう事だとおもうんですよね。最近はあまりないですけど、かつて自分はよく現場で作業してて虚しさ感じてましたね。何のためにこんなことしてんだろって。「スコップで土なんか掘ってバカみたい」って(笑)。そんな風に思うのって、その行為がどこにも何にもつながってないからだと思うんです。誰のために、何のために、どういう理由でそれを行っているのかっていう。先に自分が言った「分断が起こっている」とはだいたいそういう意味です。そしてこの分断って土木とか建設業だけじゃなくてあらゆる社会の層において起こっている気がするんですが、どうですかね。

実際土木には泥臭いところもありますけど、ロマンや雄大さも幾分かは含蓄してると思うのです。そして実際に働く人がそういうことを実感しながら働けたらとても素晴らしい業界になると思うんですよね。だからこそそれを実現することが、自分が建設業で働くうえでの1つの目標です。

というわけで今回は何故こういった事態が起こりうるのかその理由について推測をいくつか書きます!

 

 

①テクノロジーは発展するほどに専門化するというジレンマを抱えている

建設業においては100年前ではできなかったようなものが、たくさん作れるようになったと思います。海中のトンネル、島を繋ぐ橋、山を見下ろせる塔とか。それを可能にしたのは科学技術の発展です。かつてはなかったような巨大なクレーンや、それを吊ることを可能にした吊り具。これらを補助する仮設足場とか。ただしそういう技術は追求すればするほど専門化するに至ります。例えばクレーンの技術に特化したのがクレーン屋で、溶接の技術を専門化したのが溶接屋です。あらゆる技能は専門化することで細分化しました。そしてこの人たちは基本的にそれしか行いません。溶接屋さんは基本的に足場を組みません。何故なら足場は足場屋さんの方が早いし上手だから。当然管理する人も管理に特化をするので作業はしません。監理する人は各工種の作業を専門の人に依頼します。任された専門家は任されたことだけをこなします。それで仕事が終わります。そういう契約なので。例えば溶接が必要になったら溶接屋さんを呼びます。ここにおいては溶接屋さんにとってはただ目の前の指定された鋼材を溶接するだけです。それだけ。そもそもその現場では何を作っているか、何のためにそういうことをしているのか、その作業が全体におけるどういう役割を果たすのか、そんなことは知らなくてもいいのです。ただ目の前の任されたことをすれば結果として役割を果たしますし、構造物の完成の一助を担います。仮に2,3日の作業だとすればその作業のためだけに、その構造物のことを隅々まで知悉する職人はほとんどいないと思います。これが現代の建設業の中で起こっていることだと思います。いや実際こうしなきゃ、品質の高いものをたくさん効率良く作ることなんて難しいと思います。専門化と細分化こそが、かつて不可能だった色んなことを可能にしたんだと思います。でもそれと同時にそのシステム化によって全体のつながりはなくなったのだと思います。全体というのは、その地域がどういう歴史をもっていて、どういう自然環境によってその構造物が要請されたのか、そして各工種がその構造物の何を担っているのか、そういうこと。構造物は多くの職人(専門家)によってつくられています。自分もかつてTHE職人やってた時はそんな感じでした。長くいる現場じゃないと今自分がやっていることが何のためにやっているかなんてわからなかったし、知る必要もありませんでしたから。別にそれを知ったところで金になるわけでもないし。当然そんな姿勢でやってたら、地域の共同体や歴史なんかと繋がるわけがありませんが。

 

②鉄の檻

以前の別の記事でも書きましたけど、人間はある目的に対する効率をよくさせようとするとシステムを強化せざるを得なくなる。

(さきほどの専門化と細分化もその1つです。)ただこのシステムを強化すればするほど人間はそれに依存して弱くなり、結果として社会は物事をよくするための自発的な力を失い機械みたいな人間ばかりの虚しい社会になる。これが鉄の檻の話です。これ建設業でもそうだと思うんですよ。今の建設業はいかに効率よくたくさんの品質の良い構造物をつくるかということに特化したシステムを築いたと思います。発注者は競争入札で最も安く工事を請け負う業者を決めて、その請負業者は工種ごとに専門家を雇うことで安く品質の良い物をつくり、専門家は目の前の専門的課題にのみ注力することができる。そして各専門家はシステムによって決められたそれぞれの役割行うだけで結果として自動的に建設業における目的が達成される。そしてその規模が増すほどにこのシステムを強靭にしなくてはこの一連の流れを保てなくなる。今となっては各プロフェッショナル達はこのシステム下におけるそれぞれの使命を果たすことだけが至上の命題となっている。でもこのシステムが強固になればなるほど一人一人が全体のつながりやその根本的な意義を失いただの歯車になる。何故ならあまりにも巨大で複雑な全体を構築するシステムを、それぞれの個が知悉することは困難だから。そうなると例の分断が発生するわけです。

 

③ハーヴェイロードの前提

自分は基本的に革新というものには懐疑的ですが、しかるべき革新は場合によって必要だと思います。しかしながら建設業においてはこの革新というものは非常に起こりにくいです。その大きな理由は、一般的な資本主義の市場のように自由競争ではないからだと思います。公共工事って政府による管理で行われますよね。予算がこれくらいで、それぞれの県にこれくらいーって予算振って、大きなプロジェクトも政府の計画のもとに行いますから基本的に一元管理なんですよ。そこにはそれと競争したり止揚するような全く異なる思想を持つ外部の存在がいません。例えばIPhoneとかapple watchみたいなものは政府には作れないと思うんですよ。鬼滅の刃みたいなのを政府の官僚が思いつきませんよ。官僚的な組織にはそういう力がない。でもそれはしようがないことです、官僚機構とはそういうものだから、別にそれ自体が悪なのではなないのです。ただし、そのおかげでトレンドやタイミングに柔軟に対応することができない。普通の企業だったら赤字が続けば倒産しますけどね、そうならないために環境に適応しようとして、必死に新しい良いもの探して試行錯誤するじゃないですか。でも政治家や官僚はなかなかそれほどフットワークが軽くはならない。実行の承認、権力のバランス、責任の所在とか色んな足かせがあるからでしょうかね。環境に配慮した取り組みとか、SDGSとかに必死に飛びついてますけど、やっていることが形式的だし何もかもワンテンポ遅いじゃないですか。建設業に必要なのはそういうことじゃないと思うんですよね。もっと建設業の根本的な意義を見つめなおさないといけないし、それに対する革新的な手法で訴える必要があると思うんです。かといってそれを行うことは困難でしょう。そんな使命感をもって必死にやらなくても、会社がつぶれるとかもないわけで、給与を国民からもらって普通に生活できますから。

でも建設業は人がこないと先がないし、予算つかないとそもそも工事ができません。かといって民間がそれをどうこうできないんですよ。何故なら市場の規模が公共工事の予算という形で国によって最初から決められているから。こんなに「職人がいない!」とか言っておきながら普通の業界ならインフレ起きて単価あがるでしょうに、公共工事の予算が決まってるから、末端の価格も変わらないし、人も集まらないじゃないですか。じゃあ何故その予算つかないかって言ったら、広報活動とか情報戦に疎いから予算減らされてきたわけですよね。建設業界隈の人は「コンクリートから人へ」なんてトンチンカンなこといわれても何もできなかったですし。結局なんでこういうことが起こるかっていうと、この業界に携わる人たちがこの国にとって、「いかにしてこの仕事が重要なのか」を説くことができなかったからだと思います。それは知識(やデータ)としても、信念としても説くほどのこと言えなかったんじゃないでしょうか。ハーヴェイロードの前提という経済用語があります。めちゃ簡単にいうと「政府の役人なんてそれぞれの保身や利害目的で動いているから、公共の善のために合理的にスマートに動くことなんてないから、そんな理想通りに経済なんて回らないよ」みたいな感じです。それを思えば政府主導がいかに色んな障害をもっているか痛感しますよね。かといって公共工事を全て民間でやることなんて不可能ですから、結局は全体を統括する何らかの組織、つまりは国が音頭をとるしかない。だって公共工事では日本国という共同体の公共財産を作っているわけですから。

 

④地域の建設業者の減少

おかげさまで現在は地域の建設業者も年々数が減ってますから、ますます地元の建設業なんていなくなって、各々が各県を跨いで工事することになってるわけでしょう。この数十年間の中で唯一売り上げが減っていないのはほとんどスーパーゼネコンとか大きいとこだけなんですよ。当然地方にもいくつか業績の伸びた中小企業もあるでしょうけどそんなものはほんのわずかです。だから地域に根差した中小企業の建設業者なんて数十年まえとくらべて俄然減ったんですよ。そうなると何が起こるかというと、いざ地域のインフラを創出する、整備する、災害の復旧をするという時には他所からきた何の縁も所縁もない人たちがやってくる。となれば当然その地域の歴史や想いなんてものは露も知らないわけですからただ工事を済ませてハイサヨナラ―って感じ。以前東日本大震災でどこかの港まちが津波による被害にあった時にどっかのゼネコンがきて巨大な防波堤を勝手につくったんですけど、地域の声は完全に無視。地域の人達からしたらそんなもの作られたら、それまでの自分たちの伝統や文化、産業が全て立ち行かなくなってしまうことが明白だったんですよ。だからそんな防波堤にはずっと反対していたにも関わらず、勝手に作られた。彼らにとって必要だったのは避難する場所、そこへ至るためのインフラ設備です。海と共に生きてきた彼らにとって、海の恩恵をうけることは津波と共に生きることなのです。そういうことが他所から来た人らにとってはどうでもよくなってしまう。だからこそ街や都市はそこに住む住民の手によってつくることが大事であるし、地域の建設業者がいないと本当の意味で良い公共工事というのは行われないと思うのです。そのためには自分が以前の記事で書いた、かつてのようにこの国の国体に沿ったような1940年頃の公共調達制度が整備されないといけないと思います。

 

⑤就労者の高齢化

 建設業は圧倒的に高齢化しています。若い子がすくないんですよ。若者の少ない業界には未来がないですよ。それは技術の継承という意味でも、業界の改善という意味でも。この若者が集まらないっていうのは先に述べたようにもたくさんの理由があると思います。まず賃金がたいしてよくない、それにタチの悪いおっさんが多い、かっこよくないとか(笑)自分は別に肉体的なキツさなんて若い人にとってはそれほど問題ではないと思うんですよね、わからないですけど(笑)。問題の1つはイメージだと思うんです。何事においてもイメージってかなり人に影響を与えると思います。飲み物でもデザインがオシャレだったりするとつい買ってしまいませんか?企業が商品開発する時ってよくブランディングっていうじゃないですか。そういうイメージってかなり大きな影響力を持っていると思うんですよね。これを踏まえたうえで建設業はどうでしょうかね。建設業は自分が知覚してる限りは、たぶん客観的にはそれほどカッコいい仕事ではないはずです(笑)汚れた服着て、ガラの悪い兄ちゃんたちがいて、肉体的にきついことをしてるってイメージありませんかね。悪い政治家が自分の利益のために不正な談合を行うし、そもそもこれ以上日本に道路必要ないだろうに無駄な工事に自分たちの税金を使いやがるし、って。世間的なイメージがこれほど悪い業界ってありますかね(笑)だってIT企業に勤めてるって言ったらなんか斜にかまえて理知的な感じするけど、建設業っていうと泥臭いじゃないですか。建設業でオシャレなのって建築のデザインや設計くらいのような気がします。こういうイメージの悪さがあるとなかなか若い子たちは入りづらいですよ。若者のご両親だってそんな業界で働くのやめときなって言うんじゃないですかね。現在の土木は高齢化してます。この業界だと40代だと「若いな!」っていわれますからね。自分は今30歳ですけど自分ももうオッサン化して何か新しいことに順応する力は徐々に失っていると思います。若者の音楽聞いてるとたまに耳痛くなるし。でもこの業界には若いパワーが必要です。若者が来ないと何が駄目かって、何か新しい手法や観点で物事を良くするような力がなくなります。新しいことが全ていいわけではないんでが、でもそういう要素がないと何かを変える力がない。自分はセレンディピティって言葉好きなんですけど、ご存じでしょうか。意図せず予想外の何か良いものを得るようなことをいいます。個人の認識には限界がありますからね、僥倖は必ずその認識の外部にしかないわけですよ。となるとどうしても他者や自分の認識の外側に身体の半分程度は預けざるを得なくなる。そして歳をとるほどになかなかそれが難しくなると思うんですよ。どうですかね、そうじゃない人ももちろんいるとは思いますが。ただ若い人ほどこのセレンディピティの機会は多いと思います。若い人は規則や習慣に縛られない行動をしますし、頭が柔らかいですからね。環境の淘汰に適応するための革新の原動力っていうやつはこういうものではないでしょうか。産業革命時代のイギリスは黒い蝶がいっぱいいたらしいです。何故かというと街中に工場の煙が立ち込めているから黄色の蝶は目立って鳥とかに食べられちゃうからです。その淘汰の結果黒い蝶がたくさん生き残ったというわけです。若者にはこの黒い蝶のような可能性があると思うんです。

 

⑥やっていることがワクワクしない!

土木という行為の核心は自然と文明の折衝で、そこが一番壮大でロマンのあるところだと思うんですけど、どうですかね。当然そこってめちゃくちゃ大変な部分だし、きれいごと言えないくらい過酷でもあると思うんですけど、例えば50年前くらいの日本の建設業にはまぁすごい人たちがたくさんいたみたいですよ。1つの工事に自分の人生の半分くらいををささげるようなプロジェクトもあったわけですから、かつての土木の偉人たちの本を読んでるとスケールがすごいんですよ!瀬戸大橋とか青函トンネルとか、ものすごい工事だったらしいですよ。人間の力でそんなものを可能にするってどういうことだって思うじゃないですか。構造物を物理的に機能させるの緻密な計算、自然の猛威の中でそれを築きあげようとする人間の意志、それを具体的に実現する技術や機械の力、こういうものによって構造物ができるわけです。こんな壮大な仕事ないでしょ!(笑)

でも今やっていることのほとんどはそういった側面からかなりかけ離れてると思います。公共工事は整備と補修、拡張、強化みたいなのが多くなって、かつてのような大規模なプロジェクトは少なくなりました。そうなるとこの仕事の本質的な部分がわかりにくくなるんじゃないのかなと思います。寿司作りたくて寿司屋に弟子入りしたのに全然寿司握らせてもらえない感じというか(笑)そうなるとやっていることが陳腐に思えてこないでしょうかね。自分もそういう0からの開拓みたいなのを携わったことはあまり携わったことないんですけど、マレーシアでやった工事は楽しかった。河のそばに井戸作ってたんですけどまずジャングルみたいなところの木をなぎ倒してスペースを作りましたね(大自然の動物さんごめんなさい)。それでそこで深さ20mくらいだったかな、直径4m程度の井戸を掘ったんですけど、普段は照り付けるように陽がさしてサングラスしながら作業してたんですけど、夕方になると風が吹いてきて、そうなると大雨がくる予兆でしてカッパを着てました。雨期には河の水位が上がって工事できなくなって、機材全部丘の上にあげてお休みしてましたね。一回だけ周囲の悪ガキ?みたいなのがかなり危ない作業中に茶化してきて自分はそいつらにめちゃ怒鳴ったこともあった。日本語で笑。「お前らのために井戸作ってんだろうがふざけんな!あぶねえだろうが!」みたいな笑。かといって普通の住民たちはみんなフレンドリーだし親切でした、あそこで飲んだコーラの異様な美味しさはなんだったんだろうか。そういう未開拓の自然や、そこに住む人との輪の中で行う工事は楽しいんですよ。日本にもそういう工事があればいいんですけどこればっかりは一企業や個人の力で簡単にどうこうなることではないですからね。建設業は予め国によって条件や環境が決められている中で仕事をするから、一企業が技術の革新でiPhoneみたいな工事を自由にうみだせるわけじゃないですから。

 

さいご 有機性の欠如

思うことは結構まだあるんですけど整理しきれなくて乱雑になるのでここらへんで区切ります。基本的に色んな理由があってそれぞれが相互に悪循環を成していると思うんですけど、その結果にあるのが有機性の欠如だと思うんですよね。自分にとって有機性っていう言葉はすごく大切な言葉なんです。自分の中での有機性という言葉の意味は、本来の意味とかなり違うんですけど。いうならば、理屈とか抜きにして実際に生きている動物?としての人間みたいな意味です。例えば、物事に因果を結び付けてそれらが脈絡をもって時間的に繋がっているように今がある感覚とか、タイミングによって気分にむらがあるし、やっていることに一貫性がなくて、理性では理解しているつもりでも実際の感情ではどうしようもなかったり、1つの体各々の器官によって成立していてそれぞれが互いに影響しあって全体があるとか、生き物としてのあって当たり前の性質みたいな感じです。これが例の分断によってことごとく失われるし、それによってまた分断が起こっているように思うんですよね。特に歴史と共同体の分断によって。そうなると人間が人間じゃなくなるような感じがするんですよ。とても非力なシステムに従うしかない機械のような存在です。そうなるとかなり社会も人間も危うくなるんじゃないかと思うんです。正直いまの日本はかなり死に体なように思える。高齢化が進んでいるとか、スタグフレーションとかGDPが先進国で唯一上がってないとかもありますけど、それらをどうしようもできないくらいに活力なきシステムの奴隷化が進んでいるように感じます。革命も暴動もなんも起きませんからねこの国は。憲法9条を押し付けられてそれを金科玉条のように祀り上げているし、SNSでは他人の失態にピラニアのように貪り集いますからね。これらの核心にあるのが分断や有機性の欠如にあると思うんですよ。多少なりとも人間としての有機性があるなら、自分らに守らなくてはいけない理想が侵されそうならルール破ろうが暴動おこしてでも守らなくてはいけませんよ。歴史的な脈絡が分断されていないならいかに憲法9条がおかしいものであるのか自明です。しかるべき共同体に根を張り名前を掲げているなら、そんなあさましいピラニアになんてなれないでしょう。だから今おこっている分断はかなりよろしくないですし、そのためにも有機的な感覚を養う必要があると思うんですよ。またそうなればこそ土木においてはその意義を改めて、活きいきとした業界にできるとおもうんですよねえ。

 

まあ今回のことはあくまで思い込みの激しい自分の主観にすぎませんけどね。でも自分は最初に掲げたような理想をもっているから、この業界にいるうちはなんとかこれに近しいものを実現したいのです。だからこそ今回の内容を踏まえたうえでどういう風なことをしたら良くなるのか、みたいなことをいずれ書きたいと思っています。

読んでいただきありがとうございました、それではまた次回!