さて「朝日のあたる家」最終回は、われらが日本のアーティストたちの表現力の多彩さを味わってみたいと思います。
最初は、ジュリーこと沢田研二さん。この曲は世界的にはアニマルズのヒット、もっと言えば黒っぽいリード・ヴァーカルのエリック・バードンの歌唱がロック・シンガーの魂を揺さぶったことに疑いはなく、沢田さんの歌にもその影響を聴くことができます。男の色気を感じさせてくれて、スバラシイ。
沢田研二
7年前に公演先のホテルで亡くなった浅川マキ。伝説のシンガーという風説が伝わっていますが、おそらく本人は極めて自分に厳しく、かつ周りにもその姿勢を貫いた人だったようです。石川県の(現)白山市出身で、東京に出てきてから1968年に新宿三丁目のアートシアターの建物の地下にあった蠍座でのライブが伝説を生んだことになったようです。
また、当時センセーショナルな演劇集団として注目を集めていた天井桟敷の主宰者である寺山修二が重用した存在だったとのこと。時代は下がりますが、ボクも東京に出てきてからこのアートシアターと蠍座での実験的な映画上映には時代の空気が流れていてとれも好きでした。
後に1972年3月5日に発表された浅川マキの「朝日のあたる家」は、初のライヴ・アルバム「MAKI LIVE(マキ・ライヴ)」に収録された一曲です。しかも自分自身の訳詩で、タイトルが「朝日楼」と名付けられています。そうなのです。♪汽車に乗り、ついにはニューオリンズにある朝日楼という遊郭にたどり着いた女の独白の歌詞がこの歌の本質を突いているのです。
藤圭子が「朝日のあたる家」を歌った記録は、1971年7月に行われたサンケイホールでのライヴのみである。歌われた歌詞は浅川マキのものではなく、(おそらく彼女のプロデューサーとして作品を提供していた石坂まさをであろうが)作詞家は不明です。
どちらかといえばあたりさわりのない表現に終始し、「遊郭」という直接の表現は避けているのは、本人を角付け旅芸人の娘という身上をアピールしていた彼女の関係者が、この歌の主人公のように遊郭に身を落としてしまったと誤解されないための作戦ではなかったのでは?とボクは考えています。深読みでしょうが・・・。
いよいよ、最後の「朝日のあたる家」は、(朝日楼)と副題のついた浅川マキの訳詩をちあきなおみが歌ったヴァージョンです。1989年テレビ出演時のものですが、絶唱というべき歌唱です。とりわけ♪あぁ~~とグリッサンドしながら競りあがるちあきなおみの叫びにも似た歌唱に、背筋の凍る思いがしたのはボクだけではないと思います。
以前も大好きなちあきなおみの歌唱に触れてきましたが、この「朝日のあたる家」の主人公(遊郭に身を落とした女性)の心情をここまでリアルに表現できる歌手は、世界を見回してもザラにはいないと思っています。
それはちあきなおみが、常に歌の主人公に同化して、あるいは時に憑依する究極の表現者にたどり着いたためでしょう。まるで目の前の聴衆が彼女の眼には入っていないかのようです。ボクが彼女を「劇場型歌手」とよぶ所以です。そこには「ちあきなおみ劇場」が展開されているように思えます。
「矢切の渡し」冒頭における男女二人の道行の決意を表す一人二役歌唱にも、「霧笛(アマリア・ロドリゲスの「難船」を吉田旺が訳詩した)」の微妙な表情においても、「夜へ急ぐ人」(友川かずき作)の紅白歌合戦でも、常にちあきなおみは主人公になりきって歌う。
ボクが「世界を見回してもザラにいない」と讃えるのは、その点においてです。
ただ、このちあきの表現がすべての世代に共感をよぶかどうか、これはひとえに「聴く側」に音楽の歌唱表現が時代とともに推移してきた流れに正面から向き合えるかどうかにかかってきているように思えてなりません。
たかが大衆歌謡。されど大衆の愛した歌謡表現の奥深さを、ボクはちあきなおみを通じて心に刻んでいます。
さてこれで本年のマイ・ブログもこれにて打ち止め。
実は来年6月でこのブログも満10年にもなるのです。自分でもビックリですが、最近はネタ不足状態ですので、ぜひリクエストなどいただければ幸いです。
来年もどうぞヨロシク。