若山牧水は「白鳥(しらとり)は哀しからずや」とうたいましたが、鳥の中で最も哀しいのは「かなりや」ではないでしょうか?
かなりや
理由・その1.炭鉱での作業の前に異常ガスが発生していないかどうかを検知するため、鳥かごにいれられたカナリヤが使われたこと。
いつも鳴いてばかりかなりやが大人しくなったら異常事態だそうですが、人間のための危険探知機みたいで哀れをさそいます。
理由・その2.歌を忘れたかなりやは、この歌で散々な目にあわされること。
いえいえ♪それは可哀そう、とか、いえいえ♪それはなりませんぬ、とかのフォローがあって決してそういう仕打ちには合わない作りにはなっているのですが・・・・。
この全編の歌詞が哀感をそそります。
西条八十・作詞、成田為三・作曲
この曲は、『赤い鳥』を主宰した鈴木三重吉が童謡運動として世に送った第一作だといわれています。
時に、大正8年(1919年)。2年前に刊行していた『赤い鳥』の別冊『赤い鳥曲譜集その一』に収録され、翌年に帝劇で催された『赤い鳥音楽会』で、少女たちによって歌われたのが評判となったそうです。唱歌批判から始まった三重吉たちの童謡運動は若き西条八十にとっても“初”の成功作となりました。
西条八十 唄の自叙伝
このいきさつは、『西条八十 唄の自叙伝』でこのように書かれています。
・・・・ある朝、意外な客が訪れた。鈴木三重吉と名刺に書いてあったので私はびっくりした。
当時、小説家三重吉の名を知らない者はほとんどなかった。その有名人が無名の一青年を訪ねてきたのである。
「新しい童謡をあなたに書いて頂きたいのです」
雑誌『赤い鳥』のために、わたしはまず「薔薇」という童謡を書き、次にあのひろく唱われた「かなりや」を書いた。
そのモティーフは、幼い日誰かに伴れられて行った、たしか麹町のある教会だった。年に一度の聖祭の夜、会堂内に華やかに灯された電灯のうちただ一個、ちょうどわたしの頭の真うえに在るのだけが、消えていた。それがただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥--「唄を忘れたかなりや」のような印象を起こさせて哀れに想えた。・・・(自分の境遇に照らして、)わたしはまさに歌を忘れたかなりやである。
♪唄を忘れた金絲雀(かなりや)は
うしろの山に棄てましょか。
いえ、いえ、それはなりませぬ。
♪唄を忘れた金絲雀は
背戸の小藪に埋めましょか。
いえ、いえ、それもなりませぬ。
♪唄を忘れた金絲雀は
柳の鞭でぶちましょか。
いえ、いえ、それはかはいそう。
♪唄を忘れた金絲雀は
象牙の船に、銀の櫂
月夜の海に浮べれば
忘れた歌を想ひだす。
・・・・・(歌詞は、自叙伝の原文通り。)
この曲の作曲者、成田為三の素晴らしいところは、最後の4番にそれまでの3番のメロディとはまったく違う別のメロディをつけたことにある、とボクは昔から思っていました。
1番から3番までのメロディは2/4拍子なのに、4番だけは3/8拍子なのです。おそらく日本ではあまり普及していなかった三拍子を最後にもってくるなんて、とても力が入った作曲技法だと感心してしまいます。
後年、西条八十は「成田為三氏にちなむ想い出」という文の中で;
「ぼくは成田氏がぼくのこの童謡を、いわゆる唱歌式イージーゴーイングなかたちで作曲せず、かなりむずかしくもある高度な芸術的手法で作曲してくれたことに感謝した」と記しています。
ちなみに成田為三は、「浜辺の歌」の作曲でも名を残しかたです。
YouTubeには、懐かしいSP盤(78回転)による歌唱があります。
SP平井英子
かなりやは哀しからずや。
そういえば、ダイナ・ショアもブルー(哀しいを表す)カナリーですからね。
【蛇足】1918年に最初に『赤い鳥』に掲載されたときはタイトルが「かなりあ」でしたが、1921年に赤い鳥社発行の西条八十童謡集『鸚鵡と時計』ではは「かなりや」に訂正されています。前回ブログでJASRACのデータベースでは「かなりや」となっていることを紹介しましたが、こういういきさつに拘っての表記かもしれませんね。
*注:この記事は、上記自叙伝と横山太郎著『童謡へのお誘い』を参考にしました。
かなりや
理由・その1.炭鉱での作業の前に異常ガスが発生していないかどうかを検知するため、鳥かごにいれられたカナリヤが使われたこと。
いつも鳴いてばかりかなりやが大人しくなったら異常事態だそうですが、人間のための危険探知機みたいで哀れをさそいます。
理由・その2.歌を忘れたかなりやは、この歌で散々な目にあわされること。
いえいえ♪それは可哀そう、とか、いえいえ♪それはなりませんぬ、とかのフォローがあって決してそういう仕打ちには合わない作りにはなっているのですが・・・・。
この全編の歌詞が哀感をそそります。
西条八十・作詞、成田為三・作曲
この曲は、『赤い鳥』を主宰した鈴木三重吉が童謡運動として世に送った第一作だといわれています。
時に、大正8年(1919年)。2年前に刊行していた『赤い鳥』の別冊『赤い鳥曲譜集その一』に収録され、翌年に帝劇で催された『赤い鳥音楽会』で、少女たちによって歌われたのが評判となったそうです。唱歌批判から始まった三重吉たちの童謡運動は若き西条八十にとっても“初”の成功作となりました。
西条八十 唄の自叙伝
このいきさつは、『西条八十 唄の自叙伝』でこのように書かれています。
・・・・ある朝、意外な客が訪れた。鈴木三重吉と名刺に書いてあったので私はびっくりした。
当時、小説家三重吉の名を知らない者はほとんどなかった。その有名人が無名の一青年を訪ねてきたのである。
「新しい童謡をあなたに書いて頂きたいのです」
雑誌『赤い鳥』のために、わたしはまず「薔薇」という童謡を書き、次にあのひろく唱われた「かなりや」を書いた。
そのモティーフは、幼い日誰かに伴れられて行った、たしか麹町のある教会だった。年に一度の聖祭の夜、会堂内に華やかに灯された電灯のうちただ一個、ちょうどわたしの頭の真うえに在るのだけが、消えていた。それがただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥--「唄を忘れたかなりや」のような印象を起こさせて哀れに想えた。・・・(自分の境遇に照らして、)わたしはまさに歌を忘れたかなりやである。
♪唄を忘れた金絲雀(かなりや)は
うしろの山に棄てましょか。
いえ、いえ、それはなりませぬ。
♪唄を忘れた金絲雀は
背戸の小藪に埋めましょか。
いえ、いえ、それもなりませぬ。
♪唄を忘れた金絲雀は
柳の鞭でぶちましょか。
いえ、いえ、それはかはいそう。
♪唄を忘れた金絲雀は
象牙の船に、銀の櫂
月夜の海に浮べれば
忘れた歌を想ひだす。
・・・・・(歌詞は、自叙伝の原文通り。)
この曲の作曲者、成田為三の素晴らしいところは、最後の4番にそれまでの3番のメロディとはまったく違う別のメロディをつけたことにある、とボクは昔から思っていました。
1番から3番までのメロディは2/4拍子なのに、4番だけは3/8拍子なのです。おそらく日本ではあまり普及していなかった三拍子を最後にもってくるなんて、とても力が入った作曲技法だと感心してしまいます。
後年、西条八十は「成田為三氏にちなむ想い出」という文の中で;
「ぼくは成田氏がぼくのこの童謡を、いわゆる唱歌式イージーゴーイングなかたちで作曲せず、かなりむずかしくもある高度な芸術的手法で作曲してくれたことに感謝した」と記しています。
ちなみに成田為三は、「浜辺の歌」の作曲でも名を残しかたです。
YouTubeには、懐かしいSP盤(78回転)による歌唱があります。
SP平井英子
かなりやは哀しからずや。
そういえば、ダイナ・ショアもブルー(哀しいを表す)カナリーですからね。
【蛇足】1918年に最初に『赤い鳥』に掲載されたときはタイトルが「かなりあ」でしたが、1921年に赤い鳥社発行の西条八十童謡集『鸚鵡と時計』ではは「かなりや」に訂正されています。前回ブログでJASRACのデータベースでは「かなりや」となっていることを紹介しましたが、こういういきさつに拘っての表記かもしれませんね。
*注:この記事は、上記自叙伝と横山太郎著『童謡へのお誘い』を参考にしました。