結成してすぐメンバー間のゴタゴタがあり、2代目ベーシストとしてジョニー・ロットンが連れてきたのが、シド・ヴィシャス。ベースはほとんど弾けかなったようです。
でもパンク・スピリットだけは突出しており、ライヴでは観客としょっちゅう殴り合いを演じます。

(シド・ヴィシャス)

プロデューサーのマルコムは、ジョニー(VO)の反発の度合いと反比例してその関心をジョニーからシドに切り替えていったことは前回も述べました。

それにしてもシド・ヴィシャスに「マイ・ウェイ」を歌わせたマルコム・マクラーレンの真意はどこにあったのでしょうか?

1970年代後半にはフランク・シナトラも復活して本格活動中でした。(シナトラは1971年に一時引退していましたが、1973年にOL' BLUE EYES IS BACKというアルバムを出して「LET ME TRY AGAIN」と歌っています)自分のプロデュースでパンク・ロッカーに「マイ・ウェイ」を歌わせてシナトラが怒るのでは、とは考えなかったのでしょうか。それが不思議でなりませんが。)

(ピストルズのベストに収録されているシドの「マイ・ウェイ)」

でもマルコムは、セックス・ピストルズ集大成映画「ロックン・ロール・スウィンドル」のなかのハイライト・シーンでシド・ヴィシャスにステージ上で「マイ・ウエイ」を歌わせ、しかもピストルで観客を射殺するというエゲツナイ演出をしています(監督はクセモノ、ジュリアン・テンプルを起用)。

シド・ヴィシャス「マイ・ウェイ」のシーン(最後は観客を射殺するシーンです。ご注意ください)



果たして現実の世界で、シド・ヴィシャスは(薬物摂取過多により、といわれています)恋人のナンシー・スパンゲンを刺殺。マルコムたちが保釈したのも束の間、オーバードーズで死亡します(1979年2月)。21歳でした。

シド・アンド・ナンシー

ところがこの二人、シド・アンド・ナンシーは、パンクをリアルに生きたことでアイドル視されることになります。70年代のボニー・アンド・クライド(映画「俺たちに明日はない」の主人公)なんだそうです。

死後7年経って、二人を主人公にした映画「シド・アンド・ナンシー」が制作されました。日本で公開されたのが、確か1987年ごろだったと思います。渋谷の単館まで見に行った記憶があります。主演の二人が実物に余りにも似ていて、暗澹たる気分になったことも覚えています。

↓その映画の予告編がYouTubeにありました。



すこしややこしいですが、映画「シド・アンド・ナンシー」のクライマックスは、ピストルズたちの映画「ロックン・ロール・スウィンドル」のなかでシド・ヴィシャスが「マイ・ウェイ」を歌うシーンの再現場面です。

いまにして思うと、マルコムは自らプロデュースしたピストルズ映画のクライマックスは、パンクのシンボル、シド・ヴィシャスに「マイ・ウェイ」を歌わせるシーンにしよう、と最初から決めていたのではないかと推測せざるを得ませんね。噂によればシドは「マイ・ウェイ」を歌うのを嫌がっていたようですから。

*ところで次回は、その「マイ・ウェイ」の原曲、「コム・ダビチュード」を歌った人気歌手、クロード・フランソワのことについてです。