親父が存命なら80歳だが残念なことに昨年七回忌が終わっている。
少し早かったし親孝行の真似ごとも出来てなかったので残念な想いにかられる。
親父は面白い人だった。
私は野球が好きで頑張っていたが、親父は競輪選手になれと毎日言っていた。
競輪選手になる為に進学する高校も決めていた。
私は江戸時代の藩校だった伝統ある私学に進学したかったが受験すらさせてもらえなかった。
妥協点は親父の希望でも私の希望でもない高校に進学することで落ち着いた。
競輪選手をあきらめた親父は今度は自分の仕事を継がせる作戦に出た。
私は進学するつもりだったし、親父の仕事には否定的だったので絶対に嫌だと
意思表示はしていた。高校3年で大学受験の時親父には相談せず母親から
受験料を貰って受験していた時、親父が突然ここの大学に行けと校名を言った。
文系の私にはなじみの無い大学名であったが親父の仕事に直結する学部がある大学
だった。取引のあった会社の社長と理事長が親友とのことで願書を出せば
合格することに話をつけてきたから安心しろとの弁である。
現代社会では考えられないような話だが当時はこの手の話はさほど稀でもなかった。
結局、私は親父の言う大学は受験せず別の大学へ進学することにした。
親父は『入学金と今年の授業料は出すが、今後一切俺から金を貰おうと思うな』
と言いそれを実行することになる。翌年からの授業料は冬休み、春休みに
親父の仕事を手伝い日当を貰って自分で支払った。結局3年間親父の仕事を
手伝うのだがバイトは出来ても本職にするつもりはなかった。
いわゆる就職活動は親父もまた戦略を練っていた。
そんなに嫌なら公務員、学校の先生にでもなれと言いだした。
私は教職を履修していたので記念受験だけはしていた。
100%ダメなのは分かっていたのでその話をすると、県会議員の
先生に頼み行くと言いだした。私はやむを得ず親父と一緒に先生のもとへ
お願いに上がった。献金や賄賂ではなく日本酒二升と言う正攻法で
勝負したのでが結果は残念であった。
こんなことが私が生まれてからずーと永遠に繰り返され意にそぐわない息子と
訳のわからない親父の関係が45年続いたのだが面白い親父だったと
つくづくに思われる。
親父が作った私の思春期の一部です。
幼少期、思春期完全版、俺は大人だと3編書ける濃密な親子関係でした。