三砂ちづるさん 自然出産サミットでのスピーチより
人間がこの近代医療の恩恵を使えるようになったのは、長く見積もっても百年。一般の人が使えるようになったのは50年位。産科医療の助けを全く得られない時代に人類が滅亡していないということは、基本的に妊娠出産というものはそれほど危ないことではなかったのではないか、という仮説を持つ方が正しいと思います。
母がわたしを出産した1960年前後は自宅出産と施設での出産が半々になった時代でした。わたしの祖母にあたる世代の人たち、戦後すぐの昭和20年頃はほとんどが自宅でお産をしていました。
今でも長寿で有名な山梨県棡原地区は、戦中戦後を通じて、医師も産婆もいないのに妊産婦死亡や新生児死亡がなく、お産が非常に安全な所だといわれていたので、日本家族計画協会が調査したのが1970年代の新聞記事に残っています。そこのおばあちゃん達は皆、背が小さく華奢な人たちでした。お産の話を聞こうとしても皆が「別に話すことはない」という。「お産なんか何でもない」、「何人でも産める」と。
お産は怖いものでも何でもないと、小さな頃から聞かされ、それを見て育ち、自分がお産をする時まで何も疑うことがなかったということは、すごく重要なポイントではないかと思います。
初潮を迎えた時に、「だから女は嫌なのよ」とか、「これから毎月大変ね」とか、母親からまたは親しい女性からネガティブな言葉を言われた女の子は、その後月経困難になる確率が高いという論文が出ています。わたしは「呪いの言葉効果」と呼んでいますが、自分が経験したことの無い女性性についてネガティブな印象を与えられると、そういうものなのかと思ってしまって、月経が辛くなる。しいてはお産が重くなるのでしょう。意識の働きは非常に大きいものです。
わたしたち人類は、たまに起こる非常に厳しいお産に対処しようとして、非常に精緻な近代医療の体系を築き上げてきたのだと思ます。しかしながら、そういうシステムが万全になってくると、一般の女性たちは「お産はほとんどは何も問題なく行なわれていた、何というものではないものだった」という意識が持てなくなったのです。
近代社会は科学の積み上げがベースになっていること、また学校、教育、医療システムをわたしたちは大変大切にしていることもあり、一旦システムが出来上がってしまうと非常に強固であります。その科学の目でしか、身体及び性と生殖というものを見ることができなくなってしまう。簡単に言うと、妊娠出産というものを、医療の目でしか見られなくなってしまうのです。医療のフィルタを通してしか、妊娠出産を見れなくなってしまうということが、医療関係者だけではなく、一般の女性の間でも起こり始めています。
リスクであることは一歩先をみて安全を確保することが医療の役割であり、医療の目だけで妊娠出産を見れば、すべてがリスクであり、怖いものなのです。産科医療の確立前に人類が滅亡しなかったということは、本来は妊娠出産は怖いものではない。にもかかわらず、多くの人々が怖いものだと思っているのには、そのような科学の目だけで物事を見ているからです。
野口整体の野口晴哉さんの言葉で「技術は使う為ではなく、使わない為に学ぶのだ」というものがあります。
新しい治療、新しい技術を学んだら使いたくなるものですが、会陰切開の技術に長けている産婦人科の先生も、「技術があるから、自分は他の人より待てるのだ」と、技術を持つことへの慎みをよくおっしゃっていました。
アメリカの医学のトレーニングを受けている今のお医者さんと、ドイツの医学のトレーニングを受けている昔のお医者さんは考え方に違いがあります。ドイツ医療ではなるべく自然に出産することを大切にしていたため、日本のお医者さんたちも昔はそうして仕事をしていました。
日本家族計画協会の前会長である松本清一先生の体験談で、GHQの人たちが戦後日本の産科医療の視察に来た時に、アメリカでは全員会陰切開をしているので、日本で会陰切開をしないお産を見て、大変驚いていたそうです。アメリカの医療では、お産はリスクであり、一刻も早く出そうと会陰切開をしていたのだと思います。日本のお医者さんはそのことに皆驚いていたそうです。
ところが戦後日本はアメリカの影響を強く受け、産科医療の中で非常に力のある、優秀な日本のお医者さんの留学先が、皆ドイツではなく、アメリカになりました。全員会陰切開する、助産師のいないアメリカでのお産を、最も進んだお産だと思ったのだと思います。そして留学から帰って来たら皆会陰を切るようになったそうです。
産婆は世界最古の職業だといわれています。日本やヨーロッパでは近代医療の中で産婆を助産師としてアップグレードしてきました。助産師は近代医療の職種ですが、同時にそのような、医療がなかった頃から、女性の力を信じて産むことを支えてきた人たちの末裔ですから、助産師がいる現場では自ずと医療介入が少なくなります。
一方で新大陸である北米から中南米では、産婆は魔女として排斥され、近代医療だけのお産を確立していきました。アメリカでは70年代のオルタナティブカルチャーのムーブメントが起きるまで助産師がいなかった。まだシステムとして全て整ってないのではないでしょうか。カナダでは90年代まで助産師がいなかったのです。
科学的根拠というのは、数学のようにパーマネントなものではなく、なるべく良くデザインされ、適切な形で分析されて、より良い科学的根拠に塗り替えてられていくものなのです。科学的根拠というのは、研究者の意志です。最初から「このようなデータを出したい」という意志がある研究者がいないと研究にはならないのです。データをどう解釈するのかというのが研究ですから、思うようなデータが出るように研究デザインし、多くの場合、思うような結果を出すことが多いのです。
VBAC(過去に帝王切開で出産したことのある経産婦が、次の出産で自然分娩をすること)には科学的根拠が20年前にはありましたが、今は科学的根拠が無いというデータで塗り替えられています。それに対してさらに精度の高いデータで塗り替えれば良いのですが、出てこないということは、自然出産に対して熱意のある研究者がほとんどいなくなったということです。
また、科学的根拠があるということは、全員に適応しなくてはいけないということを意味していません。臨床の場で、判断を容易にするものですが、判断の基準の一つであって、それが100%生身の人間に適応できる訳がないのです。
医療現場の決断というのは本来、科学的根拠を参考にしながら、その状況によって決定されていくものです。ですが何かあった時に責任がとれないからと、一人一人に適応した判断がされていないのが今の現状なのだと思います。
医療の言葉でしか全てを語らせることができなくなっているのが問題だと思います。性と生殖に関わること、生まれること死ぬことに関わることは、医療の言葉だけではなくて、わたしたちの日々の生活の言葉で語られるべきことだったのですが、その言葉をわたしたち自身が失っているのです。普通の女性たちが、自分のからだのことを医療の言葉でしか語ることができなくなっている。母から娘に対しても、どこか具合が悪いと「お医者さん行きなさい」しか言えないのです。自分たちのからだを全て医療に明け渡すことが一番良きことであると、多くの人は思っています。
どのような生活の知恵も三世代で失われると思います。実際の生活の上でやっていないと、三世代に伝わらないのです。二代目でやり方がわからなくなり、三代目だと見てもいません。
知り合いの開業医が言うには、自分の祖母や母親が粉ミルクでの哺育だった場合、母乳哺育をしようとしても中々出ないそうです。それは出ると思っていないという、意識の問題なのでしょう。できるだけ母親に無理させず楽な方法を提供しようとする世の中とも合致しています。
でもそうして、自然のお産、自然な哺乳は遠のいていき、赤ちゃんの排泄と向き合うきっかけをなくしていくと、母性のスイッチが入りにくくなります。出産の医療介入と紙おむつ、粉ミルクは母性のスイッチがなるべく入らないように守っているようなシステムに思えます。母性のスイッチが入らないことはお母さんにとっても辛いことなのです。
日本は元々上半身は裸のうちに入っていなかったですから、人前で胸を出すことを何とも思っていなかったですし、その昔は人前で入浴することだって何とも思っていませんでした。ところが西洋社会はそういうものをひたすら隠そうとしてきた社会ですから、授乳ケープも西洋化の一環だと思います。
寛容であることを皆良しとしなくなったのです。そこで、こんなもの要らないわと、ケープを剥ぎ取るほどの力強い女性たちが出てくることをわたしは期待しています。女の人はやっぱり寛容になって色んなことを受け入れて、愛と祈りに生きるしか、やることがないと思うのですけれど。人に対してどんどん厳しくなっていって、自分が受け入れられるものがどんどん少なくなっていくのは、豊かな生き方にはわたしは思えないのです。
自然な出産というのは、正統派のマイノリティです。今の強固な医療システムの中で、助産院でのお産がマジョリティになるはずがないのです。でも、正統派のマイノリティとして日本の開業助産院は生き延びでもらいたい。
まったく医療介入することのできない助産師が、医師のいないところで、生活の場のようなところでお産ができる、そのような場は日本にしかありません。外国の方が見るとみんな感動されます。日本の文化遺産として残してほしいと思う程です。日本の助産師は世界の宝です。
助産院がマジョリティになることはあり得ませんが、この灯は消えてほしくないのです。助産院での出産は全体の1%しかありませんが、日本が守ってきた世界でここだけの場所なので。それが残るかどうかは、これからの若い女性たちが選ぶかどうかにかかっています。