平塚らいてう『青鞜』より

 

原始、女性は実に太陽であった。真生の人であった。

今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である。

 

私どもは隠されてしまった我が太陽を今や取り戻さねばならぬ。

「隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ」、こは私どもの内に向っての不断の叫び声、押さえがたく消しがたき渇望、一切の雑多な部分的本能の統一せられたる最終の全人格的の唯一本能である。

ああ、潜める天才よ。我々の心の底の、奥底の情意の火焔の中たる「自然」の知恵の卵よ。全智全能性の「自然」の子どもよ。

私は潜める天才を信じずにはいられない。私の混乱した内的生活がわずかに統一を保って行けるのはただこれあるがためだと信じずにはいられない。

私の希う真の自由解放とは何だろう、いうまでもなく、潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させることにほかならぬ。それには発展の妨害となるもののすべてをまず取り除かねばならぬ。それは外的の圧迫だろうか、はたまた智識の不足だろうか、否、それらも全くなくはあるまい、しかしその主たるものはやはり我そのもの、天才の所有者、天才の宿れ宮なる我そのものである。

私はすべての女性と共に潜める天才を確信したい。ただ唯一の可能性に信頼し、女性としてこの世に生まれ来って我らの幸いを心から喜びたい。

私どもの救主はただ私どもの内なる天才そのものだ。もはや私どもは寺院や、教会に仏や神を求むるものではない。

私どもはもはや、天啓を待つものではない。我れ自らの努力によって、我が内なる自然の秘密を暴露し、自ら天啓たらんとするものだ。

私どもは奇蹟を求め、遠き彼方の神秘に憧れるものではない。我れ自らの努力によって我が内なる自然の秘密を暴露し自ら奇蹟たり、神秘たらんとするものだ。

私どもをして熱烈なる祈祷を、精神集注を不断に継続せしめよ。かくてあくまでも徹底せしめよ。潜める天才を産む日まで、隠れたる太陽の輝く日まで。

その日私どもは唯我独尊の王者として我が踵もて自然の心核に自存自立する反省の要なき真正の人となるのである。

そして孤独、寂寥のいかに楽しく、豊かなるかと知るであろう。

 

もはや女性は月ではない。

その日、女性はやはり原始の太陽である。真正の人である。

子どもの権利を侵害していることに無自覚な大人に育てられ、

その子どもが大人になり、また無自覚に子育てをしている。

世界の中でも日本では子どもの権利に対する意識がまだ低く、守られていない家庭が多くみられます。

自分が子どもの頃にその権利を侵されていたことを知り、

その世代の連鎖を断ち切り、子どもの権利をふまえて子育てをすることで、

子どもだけでなく大人自身が癒されることでしょう。

 

『クーヨン』2019年5月号より

 

子どもの権利を尊重するとはどんなことなのか?

ふだんの生活の場面でついやってしまいがちな大人の言動を挙げてみました。

 

悲しいことがあって泣いている子どもに、「泣くんじゃない」と叱る

泣くことだって、自分を表明する権利です。

 

子どもが話を聞いてほしくて話しかけているのに、「今はいそがしいの」「あとでね」と向き合おうとしない

大人に向き合ってもらうことも、権利のひとつです。

 

泣いたりわめいたり、地面に寝転がってかんしゃくを起こしたり、じっと黙り込んだり。

こうしたすべてのことが意思表明にあたります。

大人はつい泣き止ませようとしてしまいますが、

子どもは感じていることを言葉や態度で存分に表現し、大人に受け止めてもらう権利があります。

 

「女の子なんだから」「男の子なのに」などと、性別を理由に叱ったり差別したりする

いかなる理由でも、差別・区別されない権利があります。

 

「お兄ちゃんは○○なのに」「どうしてお前は○○なの」と、きょうだいや他人と比べて叱る

誰とも比べられず、自分らしく育つ権利があります。

 

子どもには、その子らしく育つ権利があります。子どもをつい他の子どもと比べてしまったりすることもあるかもしれません。

けれどそれは、一人ひとり固有の尊厳を侵害しているという自覚を持ちましょう。

 

子どもが失敗した時に、叱ったり責めたりする

子どもには失敗を責められない権利があります。

 

子どもが失敗しないよう、常に先回りして手出し口出しをする

子どもには失敗して自ら学ぶ権利があります。

 

子どもにとって、失敗すること、そこから自分なりに試行錯誤することは、大きくなるために欠かせない貴重な体験です。

子どもの安全を守ることは必要ですが、それ以外のことは、多少失敗しても、痛い思いをしてもよいと割り切る考えが必要です。

 

子どもに毎日たくさんの習い事をさせる

子どもは十分なあそびと休息の時間をもつ権利があります。

 

「早く」「急いで」などと、常に子どもをせきたてる

子どもにはぼんやり過ごす時間をもつ権利もあります。

 

子どもがあそぶためには、「時間」「空間」「仲間」の「3つの間」が必要といわれていますが、現代の子どもはそのすべてを奪われがち。子どもの過ごし方に合わせ、大人の都合でそれらを奪わないようにしましょう。

 

子どもの前でママ友に「この子ったらまだおねしょしてるのよ」などと言いふらす

子どもにはプライバシーを守られる権利があります。

 

子どもの失敗談をおもしろおかしく他人に話してしまうことや、大勢の前でオムツを替えること、ありませんか?

小さい子にも、秘密や名誉、プライバシーを守られる権利があります。

大人が恥ずかしいと思うような言動は、子どもにも控えるようにしましょう。

 

 

『母親であることを学ぶ~ニキーチン夫人の母親日記~』より

 

ロシア人で七人兄弟の長男・アリーシャのコメント

 

とび級は、僕にはいい役割をしてくれたと思うよ。だって僕は、学校に長くいなかった分だけ学校教育の悪影響を受けずにすんだからだよ。

学校っていうのは、社会のひな型だよ。いまわしいひな型だよ。学校やクラスのなかでの人間関係は、社会でのよくない人間関係のひな型なんだよ。

僕は、そのスタンダードな悪しき人間関係の影響を免れたんです。むしろ逆に、それに抵抗しつづけて八年生まで来て、教育専門学校に入るまでは、クラスのアウトローだったんだ。

クラスの人間関係には組み込まれていなかったことは大きなプラスだよ。それに僕は十六歳で仕事に就くこともできた。そうやって二年間もそこで働くことができたんだ。しかもその前に、すでに教育専門学校にも通えたしね。つまり僕は、人より多くのことがやれたんだ。人より多くの経験を積めたんだ。一つ学年、一つ学校にじっとしていたら、それはできなかったんだよ。

もし他のきょうだいが学校や社会にうまく順応できても、僕はそれを羨ましがったりはしなかったと思うよ。

 

いま学校では、子どもたちはそれぞれの年齢枠でくくられていますよね。これは良くないですね。これがよくない結果を招いているんですよ。子どもにとっても、社会全体にとっても、年下の人間、あるいは年上の人間に、どう対すべきかが分からなくなるんだ。そりゃ、家にきょうだいが大勢いればいいでしょうけど、もし、きょうだいがいなかったり、年齢差が開きすぎたりしたらどうだろう?

でも、もし学校生活のなかに、年齢差のある集団がごく当たり前に形成されていたとしたら、つまり、もし年齢差のある人間関係が学校のなかに存在していたならば、そんなことちっとも珍しくなくなるだろうってことですよ。そうすれば、とび級だって何の問題もなくなるだろうってことですよ。

でも、現状では、クラスは同一年齢内に閉じ込められるシステムだから、その年齢の持つきびしい習慣やなれ合いがそっくりそのまま持ち込まれるわけだけど、それが面倒のもとでね。

 

世間では、とかく思春期の子どもをどうも一面的にしか見てないという気がするな。人間は、自分をよりよく律しようとするときには、必ず自分自身のなかに最善の師を見いだすものなんだよ。思春期のトラブルっていうのは、その年頃の子どもに対する無理解から起きてると思うよ。うちでそういうことがあまりなかったっていうのは、子どもがいつも一人前の人間として扱ってもらえたからじゃないかな。

何より大事なことは、子どもに対する態度を、子どもの年齢によって変えないことだね。うちでは、それが一貫していたからね。僕にとっては、その人間が何歳だろうと…三歳だろうと、五歳だろうと十五歳だろうと、まったく差はないね。

どの子とも同じようにつきあうんじゃなくて、同じように対するってことさ。学校での「教師と生徒とのあの絶対的な関係」は、どうにも我慢ならなかったよ。

三砂ちづるさん 自然出産サミットでのスピーチより

 

人間がこの近代医療の恩恵を使えるようになったのは、長く見積もっても百年。一般の人が使えるようになったのは50年位。産科医療の助けを全く得られない時代に人類が滅亡していないということは、基本的に妊娠出産というものはそれほど危ないことではなかったのではないか、という仮説を持つ方が正しいと思います。

母がわたしを出産した1960年前後は自宅出産と施設での出産が半々になった時代でした。わたしの祖母にあたる世代の人たち、戦後すぐの昭和20年頃はほとんどが自宅でお産をしていました。

今でも長寿で有名な山梨県棡原地区は、戦中戦後を通じて、医師も産婆もいないのに妊産婦死亡や新生児死亡がなく、お産が非常に安全な所だといわれていたので、日本家族計画協会が調査したのが1970年代の新聞記事に残っています。そこのおばあちゃん達は皆、背が小さく華奢な人たちでした。お産の話を聞こうとしても皆が「別に話すことはない」という。「お産なんか何でもない」、「何人でも産める」と。

お産は怖いものでも何でもないと、小さな頃から聞かされ、それを見て育ち、自分がお産をする時まで何も疑うことがなかったということは、すごく重要なポイントではないかと思います。

初潮を迎えた時に、「だから女は嫌なのよ」とか、「これから毎月大変ね」とか、母親からまたは親しい女性からネガティブな言葉を言われた女の子は、その後月経困難になる確率が高いという論文が出ています。わたしは「呪いの言葉効果」と呼んでいますが、自分が経験したことの無い女性性についてネガティブな印象を与えられると、そういうものなのかと思ってしまって、月経が辛くなる。しいてはお産が重くなるのでしょう。意識の働きは非常に大きいものです。

わたしたち人類は、たまに起こる非常に厳しいお産に対処しようとして、非常に精緻な近代医療の体系を築き上げてきたのだと思ます。しかしながら、そういうシステムが万全になってくると、一般の女性たちは「お産はほとんどは何も問題なく行なわれていた、何というものではないものだった」という意識が持てなくなったのです。

近代社会は科学の積み上げがベースになっていること、また学校、教育、医療システムをわたしたちは大変大切にしていることもあり、一旦システムが出来上がってしまうと非常に強固であります。その科学の目でしか、身体及び性と生殖というものを見ることができなくなってしまう。簡単に言うと、妊娠出産というものを、医療の目でしか見られなくなってしまうのです。医療のフィルタを通してしか、妊娠出産を見れなくなってしまうということが、医療関係者だけではなく、一般の女性の間でも起こり始めています。

リスクであることは一歩先をみて安全を確保することが医療の役割であり、医療の目だけで妊娠出産を見れば、すべてがリスクであり、怖いものなのです。産科医療の確立前に人類が滅亡しなかったということは、本来は妊娠出産は怖いものではない。にもかかわらず、多くの人々が怖いものだと思っているのには、そのような科学の目だけで物事を見ているからです。

 

野口整体の野口晴哉さんの言葉で「技術は使う為ではなく、使わない為に学ぶのだ」というものがあります。

新しい治療、新しい技術を学んだら使いたくなるものですが、会陰切開の技術に長けている産婦人科の先生も、「技術があるから、自分は他の人より待てるのだ」と、技術を持つことへの慎みをよくおっしゃっていました。

アメリカの医学のトレーニングを受けている今のお医者さんと、ドイツの医学のトレーニングを受けている昔のお医者さんは考え方に違いがあります。ドイツ医療ではなるべく自然に出産することを大切にしていたため、日本のお医者さんたちも昔はそうして仕事をしていました。

日本家族計画協会の前会長である松本清一先生の体験談で、GHQの人たちが戦後日本の産科医療の視察に来た時に、アメリカでは全員会陰切開をしているので、日本で会陰切開をしないお産を見て、大変驚いていたそうです。アメリカの医療では、お産はリスクであり、一刻も早く出そうと会陰切開をしていたのだと思います。日本のお医者さんはそのことに皆驚いていたそうです。

ところが戦後日本はアメリカの影響を強く受け、産科医療の中で非常に力のある、優秀な日本のお医者さんの留学先が、皆ドイツではなく、アメリカになりました。全員会陰切開する、助産師のいないアメリカでのお産を、最も進んだお産だと思ったのだと思います。そして留学から帰って来たら皆会陰を切るようになったそうです。

産婆は世界最古の職業だといわれています。日本やヨーロッパでは近代医療の中で産婆を助産師としてアップグレードしてきました。助産師は近代医療の職種ですが、同時にそのような、医療がなかった頃から、女性の力を信じて産むことを支えてきた人たちの末裔ですから、助産師がいる現場では自ずと医療介入が少なくなります。

一方で新大陸である北米から中南米では、産婆は魔女として排斥され、近代医療だけのお産を確立していきました。アメリカでは70年代のオルタナティブカルチャーのムーブメントが起きるまで助産師がいなかった。まだシステムとして全て整ってないのではないでしょうか。カナダでは90年代まで助産師がいなかったのです。

 

科学的根拠というのは、数学のようにパーマネントなものではなく、なるべく良くデザインされ、適切な形で分析されて、より良い科学的根拠に塗り替えてられていくものなのです。科学的根拠というのは、研究者の意志です。最初から「このようなデータを出したい」という意志がある研究者がいないと研究にはならないのです。データをどう解釈するのかというのが研究ですから、思うようなデータが出るように研究デザインし、多くの場合、思うような結果を出すことが多いのです。

VBAC(過去に帝王切開で出産したことのある経産婦が、次の出産で自然分娩をすること)には科学的根拠が20年前にはありましたが、今は科学的根拠が無いというデータで塗り替えられています。それに対してさらに精度の高いデータで塗り替えれば良いのですが、出てこないということは、自然出産に対して熱意のある研究者がほとんどいなくなったということです。

また、科学的根拠があるということは、全員に適応しなくてはいけないということを意味していません。臨床の場で、判断を容易にするものですが、判断の基準の一つであって、それが100%生身の人間に適応できる訳がないのです。

医療現場の決断というのは本来、科学的根拠を参考にしながら、その状況によって決定されていくものです。ですが何かあった時に責任がとれないからと、一人一人に適応した判断がされていないのが今の現状なのだと思います。

 

医療の言葉でしか全てを語らせることができなくなっているのが問題だと思います。性と生殖に関わること、生まれること死ぬことに関わることは、医療の言葉だけではなくて、わたしたちの日々の生活の言葉で語られるべきことだったのですが、その言葉をわたしたち自身が失っているのです。普通の女性たちが、自分のからだのことを医療の言葉でしか語ることができなくなっている。母から娘に対しても、どこか具合が悪いと「お医者さん行きなさい」しか言えないのです。自分たちのからだを全て医療に明け渡すことが一番良きことであると、多くの人は思っています。

 

どのような生活の知恵も三世代で失われると思います。実際の生活の上でやっていないと、三世代に伝わらないのです。二代目でやり方がわからなくなり、三代目だと見てもいません。

知り合いの開業医が言うには、自分の祖母や母親が粉ミルクでの哺育だった場合、母乳哺育をしようとしても中々出ないそうです。それは出ると思っていないという、意識の問題なのでしょう。できるだけ母親に無理させず楽な方法を提供しようとする世の中とも合致しています。

でもそうして、自然のお産、自然な哺乳は遠のいていき、赤ちゃんの排泄と向き合うきっかけをなくしていくと、母性のスイッチが入りにくくなります。出産の医療介入と紙おむつ、粉ミルクは母性のスイッチがなるべく入らないように守っているようなシステムに思えます。母性のスイッチが入らないことはお母さんにとっても辛いことなのです。

 

日本は元々上半身は裸のうちに入っていなかったですから、人前で胸を出すことを何とも思っていなかったですし、その昔は人前で入浴することだって何とも思っていませんでした。ところが西洋社会はそういうものをひたすら隠そうとしてきた社会ですから、授乳ケープも西洋化の一環だと思います。

寛容であることを皆良しとしなくなったのです。そこで、こんなもの要らないわと、ケープを剥ぎ取るほどの力強い女性たちが出てくることをわたしは期待しています。女の人はやっぱり寛容になって色んなことを受け入れて、愛と祈りに生きるしか、やることがないと思うのですけれど。人に対してどんどん厳しくなっていって、自分が受け入れられるものがどんどん少なくなっていくのは、豊かな生き方にはわたしは思えないのです。

 

自然な出産というのは、正統派のマイノリティです。今の強固な医療システムの中で、助産院でのお産がマジョリティになるはずがないのです。でも、正統派のマイノリティとして日本の開業助産院は生き延びでもらいたい。

まったく医療介入することのできない助産師が、医師のいないところで、生活の場のようなところでお産ができる、そのような場は日本にしかありません。外国の方が見るとみんな感動されます。日本の文化遺産として残してほしいと思う程です。日本の助産師は世界の宝です。

助産院がマジョリティになることはあり得ませんが、この灯は消えてほしくないのです。助産院での出産は全体の1%しかありませんが、日本が守ってきた世界でここだけの場所なので。それが残るかどうかは、これからの若い女性たちが選ぶかどうかにかかっています。

『健康のためなら死んでもいいのか?』毛利子来、幕内秀夫著より

 

赤ちゃんが産まれた時から、断乳、離乳準備食、手づかみ食べ、三角食べなど行政による指導が行なわれてきました。

赤ちゃんは無理矢理おっぱいを取り上げられて泣き叫び、少しでも体重が増えなければ強制的に人工栄養が勧められ、離乳食を上手に食べさせられなければ母親は責められることになります。幼児期になれば意味不明のバランス論によって、野菜を食べない子どもたちに偏食という烙印を押し、母親を叱責してきたのです。

それらの指導は、子どもの個性を無視し「数字」しか見ない画一的な指導でした。

これらの経過を考えれば、まじめな母親は神経症にならない方が不思議だと言わざるを得ません。

数字で育児を縛ることが蔓延しています。なぜ数字かとというと、数字のある指導の方が、行政は責任を回避できるからです。それに一般の人々が巻き込まれているわけです。

数字によって子どもが健康かどうかを測る被害は、目を覆わんばかりです。お母さんは保健センターや病院で、保健士や医師から責められる、怒鳴られる。まさに、お母さんは被害者です。

数字がどうかというのは、おじいちゃんおばあちゃんも気にしていますし、近所の人にも言われる。子どもには個性があるので、基準に当てはまらないことなんていっぱいある。そういう子のお母さんは救われません。

これは子育て中の母親だけの話ではありません。今の医療は病気を治そうとしているのではなく、病人を作って金儲けをしているだけだと思います。煙草を吸う人は病気、お腹の出た人も病気、ちょっと血圧の高い人も病気、という風になっています。全部、薬がからんでいます。また、「早く」とか「危ない」とか、やたらと恐怖を煽り検査を促します。儲けるために検査をするわけです。検査の時には、必ず「数字」がからんできます。

一方で、健康食品業者も頑張っています。これを飲めばよくなるとか、これを食べれば楽になるとか、いろいろ煽っています。恐怖感は誰かによって作られている訳で、その辺を考えないといけません。

生命保険、健康食品、健康器具、薬、病気を診断する機器といったものは、恐怖感や不安感を煽れば煽るほどビジネスになるのですから。

わたしたち日本人全体が、体重、ウエスト、血圧、コレステロール、偏差値、平均年収、平均寿命など、さまざまな「数字」によって脅かされ、縛られ、もがき苦しんでいるように思えてなりません。

それらの「数字」から解放されたら、どれほど楽になれるでしょうか。