「教養とはなにか」――。このテーマについて、お笑いの爆笑問題と東大の小林康夫が対談するという面白い番組があっていた。
元々教養とは"culture"→"cultura"(耕す)というラテン語からきているらしい。つまり、頭の中を耕すことを教養と言っていたのだ。この言葉が日本に入ってきたのは明治時代。代表的な人物は言わずと知れた夏目漱石である。
この番組を通じて、学問とは何か、教養とは何か、そして今学問をしている学生は何をすればよいのかについて深く考える機会を得たので、今日はこれらについて述べたいと思う。
まず、学問とは何か。人類学者が言ったことを簡単にまとめると、もともと人間は生きていく知恵として「学ぶ」という行為を始めた。例えば、科学も何もない時代に人々は狩猟で食べ物を確保しなくてはならなかった。その際に、この槍がいいだの、ここ場所がいいだのと、知恵を働かせた。それが「学ぶこと」、すなわち「学問」のはじまりである。当時「学問」は、生活に密着した実用的なものだった。
しかし、技術が進むに連れて「学問」はだんだんと「生活」から離れていく。「学問」は様々な分野に別れ、それぞれにエリートと言われるそれ専門の学者がついた。爆笑問題の太田は彼らを過剰に批判する。まるで彼らは「孤独な陶芸家」であると。一人で部屋に閉じこもり、粘土を前にしてああでもない、こうでもないと一人陶器と格闘し、結局出来上がったものといえば、全く生活に役に立たないものなのである。つまり、現代における学者の唱える学説などは、その多くがかれらの自己満足であり、われわれの生活に全く関係のない「非実用的」なものだということだ。
確かに太田の言っていることは一理ある。私もいち学生であるから、今学んでいる学問というのがどれだけ世間から遠ざかったものであるか日々痛感している。さらにいえば、その学問を学んだ後には実際に「学問」とは真逆に位置する社会に出て行かなければならないという厳しい現実が目の前に迫っているのである。
ここで東大教授が反撃に出る。我々学者は辛くて「学問」をしているのではない。たとえ実用的でなくても、その感動を楽しんでやっているのだと。さらに「学問」に閉じこもっていてはもちろん駄目で、「学問」を一つの窓として世界をみることができること、これこそが「教養」を身につけることなのだと。ゆえにそこで得られる感動を、教師という仕事を通じてできるだけ多くの人に伝えていきたいと語る小林教授。
そこで太田がまた一発。それなら学者は可哀想だ。学校という閉じこもった世界では、その感動はほとんど伝わらないだろうと。なぜなら世間を知らないから。特に東大の教授や学生は、自分らの才能にうぬぼれて、東大の存在を疑ってかかることもしない。自分たちが100%正しくてエリートだと思っているうちは、いくら「学問」を窓にして世界をみようとしてもみえてくるものはたかが知れている。
その点で、マスコミは非常に勝っている。「生活」から離れてしまった「学問」を、色んな分野の専門家をTVに出演させることで大衆の実用的な生活に引き戻す力を持っているからだ。だから我々爆笑問題はお笑いだけでなく、こうしてNHKの教養番組にも出演しているのだよと。
さらに太田は続ける。そもそも専門などと「学問」をジャンル分けするのが間違っている。一つのことからは何も見えてこない。総合的にあらゆることを感じる心を皆持っているのだから、専門家でなくても様々なことを語って何が悪い。だから私(太田)はお笑いという型にははまらず、政治のコトだって堂々と発言しているのだと――。
ここまで聞いて、わたしは太田光の熱弁に夢中になっている自分に気がついた。彼の言葉は正確に直で私の心に突き刺さる。どんなにえらい肩書きを持った東大教授の言葉よりも、彼の言葉は率直で、説得力があるのだ。彼のように自分の考えをしっかり持ち、あれだけ素直に表現できたらどれだけよいだろうと非常に感心してしまった。あの場では、明らかに東大教授より太田の方が勝っていた。
これはまさに「学問」が「生活」から離れてしまった歪であり、いかに学者が一つの分野だけに閉じこもって意味を成さなくなってきてしまったかということをありありと物語っていた。彼こそ、本当に「教養」がある人といえるのではないだろうか。
もちろん、「学問」の重要性や必然性は太田も認めている。たとえ5000人の学者が同じ分野を研究して、そのうち1人しか認められなかったとしても、残りの4999人の研究がムダだったとはだれも考えない。社会に直接役に立たなかったとしても、底に至るまでの彼らの苦労と苦悩が彼ら自身の検証に役立っているからだ。
ゆえに問題はどのようにして、「学問」を「生活」もしくは我々庶民に「引き戻す」かということ。これが今回の最後のテーマであった。注目すべきは「表現力」。今回の対談でもよくわかったように、学者の言うことは非常に抽象的でわかりにくい。その一つの理由には、彼らが自らのことをエリートとしてふんぞり返り、周りに教養をもとめ、自分は表現方法を変えようとしないからだ。
その点太田などのお笑いは、できるだけ多くの聴衆に届けるため、我々にわかりやすい言葉で伝えようとする表現方法を心得ている。だから我々の心にも届くし、喜びを共感できるのだ。彼らは決して、我々にお笑いの専門性を求めたりしない。話し手が言っていることを周りが理解できないのは、聴き手が悪いからではない。話し手の伝え方に問題があるからだ、と太田は言う。
最終的に必要なのは、「表現方法」。「生活」から離れてしまった「学問」を、できるだけ多くの人にそのよさや感動を伝えることができる人こそ、本当に「学問」を理解している人物であり、「教養」のある人なのではないかと思う。
教師を目指している私は、この点を十分に考慮したうえで本当の意味での「教養」を身につけた人になりたいと思う。