今朝のNHKのニュースで、富山県の立山(たてやま)にあるみくりが池の特集があっていました。

ここでは、なんと一度に3つの季節が味わえるとのこと!


まずはwinter。完全に雪解けしていないので、池のふちには真っ白な雪が白い砂浜のように広がっているのです。

二つ目はspring。雪のカーペットを少し行くと、今遅れて芽吹き始めた小さな花たちがちらほら。

そして三つ目が夏。青々とした緑が草原のように広がっています。



ああ~。やっぱりこの季節は山ですよね~!


昨日はなぜか突発的に水に浸かって見たいという衝動に駆られて中学生ぶりくらいにプールに行ってきましたが、

案の定全く泳げませんでした(笑) 楽しかったけど。


だからやっぱり山に行きたい。それで出来れば少し標高が高くて盲ちょっと涼しかったら最高ですね。

ま、今年は無理かなあ・・・(; _ ;)

夢がまた一つ増えました☆

山中漆器1  
















★日本には素晴らしい技術がたくさん眠っている。

  それをブランド化し、

  さらに庶民の生活に取り入れていく工夫が必要である。

   byデザイナー 富田一彦





 ★伝統とは昔のものをただ受け継げばよいというものではない。


  昔の技術を受け継ぎつつ、


  今の若者の新しい感覚を取り入れていく――


  その過程で新しい伝統を生み出していくことこそ、


  今から必要な伝統である。


 by京都の「弟子入り制度」企画長




※上記の写真は、富田氏がデザインした陶器である。

赤や黒が一般的だった日本の陶器に、新しい色を加えた。

しかしそこには、日本の伝統がきちんと受け継がれている。


たとえば、スプーンのデザインなどは、そのふちの部分に

白の色がきちんと一定の間隔で残されている。

これは、機械では決して出来ない技術なのである。

最終的には手仕事でしか生まれない美しさ、

その伝統を見事に新しい伝統に作り変えた例である。

今日は「教師論」という授業の中で、教育者として長い経験をお持ちのベテラン先生に講演をしていただく機会がありました。今は引退された○上先生ですが、とてもそうとは思えないほどの快活で流暢なお話しぶりに、私はぐいぐい引きづりこまれてしまいました。一時間半の授業が本当に「あっ」という間に感じられる授業でした。


大学の授業に慣れていた私はまず、中学校の先生の話し方の素晴らしさに感激しました。きっと物事をきちんと子どもたちに伝えるために、大学の先生以上に「表現方法」ということに気を使っておられるのだなあという印象を受けました。


昨日の「教養とは何か」についてのブログにも書きましたが、教える内容をどれだけ聴き手に伝えられるかということは、内容以上に大切な要素だと思います。いくら伝える内容を持っていても、それを聴き手にうまく伝えることができなければ、せっかくの内容も無意味に終わってしまいます。ですから、私はこれから子供たちに伝える「内容」はもちろんのこと、それを伝える「表現方法」のスキルも磨いていきたいと思いました。


また、先生のお話の中で面白かったことは、今まで先生が経験されたことのない部活動にも積極的に顧問を引き受けられたというお話です。先生はバドミントンの経験はあったそうなのですが、それ以外にも人数不足の都合上、彼女はバスケットボールや新体操、英会話部の顧問まで引き受けたんだとか。私はいつも完璧に出来ないことに対して、「私なんかにできるわけない」とつい消極的になってしまいがちなのですが、初体験のことも敢えて「できますっ!」と言って、やりこなしてしまう○上先生のお話を聴いて、非常に勇気づけられました。


もうひとつ、○上先生の度量の大きさに驚いたお話があります。それは、彼女が東大を合格するほど優秀な生徒を担当されたときのこと。授業中に、その秀才君は先生に「鎌倉時代のの誰々の甥にあたる誰々が、いついつに言ったこれこれについて、先生はどう思われますか?」と聞いたそうです。国語が担当の○上先生は、歴史上の人物ならまだしも、その甥が言ったことまでわかるはずがありません。そこで彼女は正直にわからないことを伝えたそうです。


家庭教師をしている私も、たまに即答できない質問をされるときがあるので、そのときの困惑は非常によくわかります。しかし彼女はこう言いました。「生徒の中にはすごいのが必ずいます。その生徒から逆に教師が教えられることも多くあります。そこで、私は学び方を彼に教えました。」と。


そうなのです。教科内容で教えてあげられることがなかったからと言って、教師が彼らに全く何もしてあげられないということでは決してないのです。学んできた経験値から言うと、断然教師の方が上回っています。そこで教師が生徒にしてあげられることは、「学び方」を伝授することです。ちなみに彼女は本をたくさん持ってきて、文体の違いについて彼に教えてあげたそうです。私たちはなんだかんだ言って、小学生から大学生になる今まで、「学び」の環境の中で試行錯誤を繰り返してきました。そこで得た「学ぶ」スキルを子どもたちに教えてあげること。このことは教科内容と同じくらい大切なものだと気がつきました。


それも踏まえて、○上先生は最後に、これから我々ができることを提案してくださいました。それは、「不易流行」。変わらないものは守りつつも、今世界で起こっていることに敏感になること。しかしそれだけでは駄目です。事実を語ることはTVニュースだってできます。その事象を我々の心の中で咀嚼した上で、生徒たちにわかりやすくどんな話ができるか。これが教師の力量だということでしょう。


授業の中での学生の発言にもありましたが、教師というのはいい意味でも悪い意味でも生徒に大きな影響を及ぼすことがあります。生徒の青春時代の貴重な数年間に、できるだけよい出会いやチャンスを与えてあげたい。そんな先生になりたいと心から思わされる講演会でした。


そういう意味でも、今日の○上先生との出会いは私にとって非常に刺激的でよい機会になったと感謝しています。


最後に、私が思う教師の魅力を3つと、それを成し遂げるために今していることを書いてしめたいと思います。

1.教科内容を教えることで、生徒の「ああ、そっか!わかったぞ!」という喜びの表情をみることができること。

→今まで以上に専門の英語の実力をつけるため、色んな視点から勉学(英語)に励んでいます。(小説、詩、スピーチ、映画、音楽、演劇、ペンパルなど)


2.生徒と一緒に学び、一緒に成長できること。(教師は教える職業と思いがちですが、逆に教師が子どもたちから教わることもたくさんあるのです。)

→家庭教師を週に1回行い、その1時間30分の中で、私が生徒に指導する時間と、おやつを食べながら生徒の話を聴いて楽しく過ごす時間と両方をバランスよくとるようにしています。また、可能な限り近所のこどもたちと触れ合う機会を持つようにしています。


3.私が今まで未熟ながらも経験してきた喜びや苦しみの体験を生かして、生徒の人生のサポートをすることができること。

→大学に在学している今の時期は、とても貴重な時期だと思います。なぜなら生徒という立場と、教師の立場の両方を経験できるからです。ですから、大学では生徒として、我が大学の先生をじっくり観察し、アルバイトで先生をしているときは教師の立場から生徒に意識して接しています。生徒と教師の両方の立場から教育の現場をみれるように日々意識して過ごしています。

「教養とはなにか」――。このテーマについて、お笑いの爆笑問題と東大の小林康夫が対談するという面白い番組があっていた。


元々教養とは"culture"→"cultura"(耕す)というラテン語からきているらしい。つまり、頭の中を耕すことを教養と言っていたのだ。この言葉が日本に入ってきたのは明治時代。代表的な人物は言わずと知れた夏目漱石である。


この番組を通じて、学問とは何か、教養とは何か、そして今学問をしている学生は何をすればよいのかについて深く考える機会を得たので、今日はこれらについて述べたいと思う。


まず、学問とは何か。人類学者が言ったことを簡単にまとめると、もともと人間は生きていく知恵として「学ぶ」という行為を始めた。例えば、科学も何もない時代に人々は狩猟で食べ物を確保しなくてはならなかった。その際に、この槍がいいだの、ここ場所がいいだのと、知恵を働かせた。それが「学ぶこと」、すなわち「学問」のはじまりである。当時「学問」は、生活に密着した実用的なものだった。


しかし、技術が進むに連れて「学問」はだんだんと「生活」から離れていく。「学問」は様々な分野に別れ、それぞれにエリートと言われるそれ専門の学者がついた。爆笑問題の太田は彼らを過剰に批判する。まるで彼らは「孤独な陶芸家」であると。一人で部屋に閉じこもり、粘土を前にしてああでもない、こうでもないと一人陶器と格闘し、結局出来上がったものといえば、全く生活に役に立たないものなのである。つまり、現代における学者の唱える学説などは、その多くがかれらの自己満足であり、われわれの生活に全く関係のない「非実用的」なものだということだ。


確かに太田の言っていることは一理ある。私もいち学生であるから、今学んでいる学問というのがどれだけ世間から遠ざかったものであるか日々痛感している。さらにいえば、その学問を学んだ後には実際に「学問」とは真逆に位置する社会に出て行かなければならないという厳しい現実が目の前に迫っているのである。


ここで東大教授が反撃に出る。我々学者は辛くて「学問」をしているのではない。たとえ実用的でなくても、その感動を楽しんでやっているのだと。さらに「学問」に閉じこもっていてはもちろん駄目で、「学問」を一つの窓として世界をみることができること、これこそが「教養」を身につけることなのだと。ゆえにそこで得られる感動を、教師という仕事を通じてできるだけ多くの人に伝えていきたいと語る小林教授。


そこで太田がまた一発。それなら学者は可哀想だ。学校という閉じこもった世界では、その感動はほとんど伝わらないだろうと。なぜなら世間を知らないから。特に東大の教授や学生は、自分らの才能にうぬぼれて、東大の存在を疑ってかかることもしない。自分たちが100%正しくてエリートだと思っているうちは、いくら「学問」を窓にして世界をみようとしてもみえてくるものはたかが知れている。


その点で、マスコミは非常に勝っている。「生活」から離れてしまった「学問」を、色んな分野の専門家をTVに出演させることで大衆の実用的な生活に引き戻す力を持っているからだ。だから我々爆笑問題はお笑いだけでなく、こうしてNHKの教養番組にも出演しているのだよと。


さらに太田は続ける。そもそも専門などと「学問」をジャンル分けするのが間違っている。一つのことからは何も見えてこない。総合的にあらゆることを感じる心を皆持っているのだから、専門家でなくても様々なことを語って何が悪い。だから私(太田)はお笑いという型にははまらず、政治のコトだって堂々と発言しているのだと――。


ここまで聞いて、わたしは太田光の熱弁に夢中になっている自分に気がついた。彼の言葉は正確に直で私の心に突き刺さる。どんなにえらい肩書きを持った東大教授の言葉よりも、彼の言葉は率直で、説得力があるのだ。彼のように自分の考えをしっかり持ち、あれだけ素直に表現できたらどれだけよいだろうと非常に感心してしまった。あの場では、明らかに東大教授より太田の方が勝っていた。


これはまさに「学問」が「生活」から離れてしまった歪であり、いかに学者が一つの分野だけに閉じこもって意味を成さなくなってきてしまったかということをありありと物語っていた。彼こそ、本当に「教養」がある人といえるのではないだろうか。


もちろん、「学問」の重要性や必然性は太田も認めている。たとえ5000人の学者が同じ分野を研究して、そのうち1人しか認められなかったとしても、残りの4999人の研究がムダだったとはだれも考えない。社会に直接役に立たなかったとしても、底に至るまでの彼らの苦労と苦悩が彼ら自身の検証に役立っているからだ。


ゆえに問題はどのようにして、「学問」を「生活」もしくは我々庶民に「引き戻す」かということ。これが今回の最後のテーマであった。注目すべきは「表現力」。今回の対談でもよくわかったように、学者の言うことは非常に抽象的でわかりにくい。その一つの理由には、彼らが自らのことをエリートとしてふんぞり返り、周りに教養をもとめ、自分は表現方法を変えようとしないからだ。


その点太田などのお笑いは、できるだけ多くの聴衆に届けるため、我々にわかりやすい言葉で伝えようとする表現方法を心得ている。だから我々の心にも届くし、喜びを共感できるのだ。彼らは決して、我々にお笑いの専門性を求めたりしない。話し手が言っていることを周りが理解できないのは、聴き手が悪いからではない。話し手の伝え方に問題があるからだ、と太田は言う。


最終的に必要なのは、「表現方法」。「生活」から離れてしまった「学問」を、できるだけ多くの人にそのよさや感動を伝えることができる人こそ、本当に「学問」を理解している人物であり、「教養」のある人なのではないかと思う。


教師を目指している私は、この点を十分に考慮したうえで本当の意味での「教養」を身につけた人になりたいと思う。


トップランナーという番組で、ファッションデザイナーの皆川明さんが紹介されていました。

私は彼のことを今まで知らなかったのですが、とても穏かで独特の世界を持っている方でした。

例えれば、真夜中に静かに満ちたり引いたりしている波の中に、時折強く明るい光の粒を見る――そんな印象です。


そんな彼に私が一番惹かれた理由は、彼が「人生の長距離ランナー」であったことにあります。

彼は中学高校生時代、本当に長距離のランナーでした。当時はデザイナーという文字は彼の意識下には全く無かったそうです。できれば将来はランナーとしてずっと走っていたい、それが彼の夢でした。


しかし、高校3年生の夏、足を骨折してしまいます。夢を絶たれた皆川さんは、パリへ留学。そこで偶然パリコレクションのお手伝いをさせられることになるのです。人生って本当にわからないものですね。


さて、それからデザインに目覚めた皆川さんは帰国後デザイナー学校に入り猛特訓!…のはずだったのですが、全くの落ちこぼれだったそうです。先生がお手本として示されるものは全てマジックのようで、成績もあまりよくなかったよう…。最後に自分の服を着て卒業することになっていたらしいのですが、これも間に合わず一人出遅れて卒業。ここまで聞いた時点では、彼が世界で騒がれるデザイナーになるなんてだれも想像できませんよね。


そこでコメンテーターが皆川さんに尋ねます。「まわりの友達にも大幅な遅れをとって、自信をなくしたり、焦ったりはしなかったのですか?」彼は答えます。

「いえ、それはありませんでした。学校に行き始めた時点で、デザイナーの仕事は一生辞めないと決めていたので、一生というと、あと40年くらいはやるのかなと。そう考えれば、40年のうちの2、3年というのはほんのわずか。まあ、あと10年くらい続けていれば、今出来なかったことはできるようになるだろうし、そしたらあと30年は自分の好きなものを作れるのではないかと考えていました。」


どうですか!?このなが~いキャリアプラン!さすが長距離ランナーです。人生に対する考えもとても長いスパンで考えるんですね。少し話はそれますが、私も大学三年生の半ばも過ぎようというこの時期、将来についてとても悩んでしまいます。自分のやりたいことはみつかっていても、それは実現できるのは難しいそう…。だったら妥協して、望んでいるところでなくてもまともな職につくべきだろうかと。


しかし、皆川さんのコメントを聞いて、私はもう少し自分の凝り固まった考えを弛緩させてみようと思いました。就職課の事務さんにも言われたのですが、「自分がその職業につけるかつけないかというのはひとまず置いておいて、自分がどれくらいその職業につきたいのかを考えてから就職活動をしたらよいのではないか」ということです。


私はついつい、自分の才能や実力に限界を感じてしまうことが先で、夢を追いかけるよりも前に不安が先に立って道をふさいでしまいます。とても焦ってしまいます。でも、皆川さんのように自分の人生を長いスパンで考えることができれば、焦る必要なんか全くないし、本当に自分が人生でやりたいことというのがおのずと見えてくるはず。そしてそれを素直に自分の心で受け取ってあげる。あとはそれに向かって自分のできることを精一杯やればいいのです。


そんなことを、今日はデザイナー皆川さんから教わった気がします。


長距離ランナー。私も自分のライフコースを長距離で口笛を吹きながら疾走するつもりです(笑)


I run on the course of my life while whistling forever.

今日はアルバイトで家庭教師をする日でした。


実は、数日前突然家庭教師業者の○ライさんから電話があって、4月から受け持っていた中学三年生の女の子が急に家庭教師を辞めることになったと聞きました。もしかして私の指導が行き届いてなかったからなのかも…(; _ ;)!と非常に不安になって、とても悩んでしまいました。


確かにお互いの日程が合わず、実施日が不規則になってしまったところはあったけれど、それにしてもお母さんとも本人とも、徐々にではあるが心を通わせることが出来てきていると感じていた直後だったのでショックでした。


私としては、別にその子の指導がキャンセルになることで困ることはありませんが(頻繁に指導をしませんかという依頼の電話がかかってくるから)、私が心配だったのは、その子が今受験を間近に控えているということでした。その子は塾が大嫌いだったようで、以前それで嫌な思いをしたそうです。なので家庭教師を辞めたら、後半年は塾にも行かずどうするんだろう…満足する受験が迎えられるだろうか…それだけが心配でした。


そして詳しく事情を聞こうと思って迎えた今日――。休憩時間はその子が好きな漫画の話で盛り上がり、映画の話もしました。英語や数学も、なんとかポイントを得た指導が出来た実感があって、生徒の「へぇ~!」をみれたので嬉しかった!


指導が終わって、例の件をお母さんとその子と少し話し合いました。家庭教師をやめることにしたことは本当のようでした。しかしその理由はやはり業者さんとの多くの行き違い。そして、そろそろ勉強時間数を増やしたいということでした。時間を増やすことに関して言うと、家庭教師ではどうしても費用がかさばってしまいます。ゆえに違う個人指導の塾に通うことにしたそうです。塾はダメだと聞いていたので心配していましたが、見学に言った様子だと個人指導の塾だったら出来そうだということだったので、とても安心しました。


なにかを辞めるときは、迷いはつき物です。特に「辞める」というのは、悪い言い方をすれば「途中で諦めた」という言い方も出来ます。かといって、自分に合っていないものをずっと続けていてもいいとは一概に言えません。。よって私は何かを辞めるかどうかを決めるときは、次のことを基準に考えるようにしています。(ある人から教わりました)


みなさん、まず自分の手を出してください。そして何かをつかんだふりをしてください。それが今あなたが行なっている何かです。そして、それを辞めるということは手をパーにして広げること。広げてしまえばその時点ではあなたは何も持っていません。とすると、それはとても不安定な状態を意味します。


しかし、今何かを握っている状態で、もうすでに他に握りたいもの(手に入れたいもの)が見つかっているとき、今持っているものをつかんでいたらそのそれ以上にほしいものがつかめないとき、こういうときは手をパーにして、一度それを辞めるべきときです。そしてそれはとてもいいことだと思います。なぜなら人はあれもこれもできない、つまり手には一つのものしかつかめいのですから。今の事柄を捨てたことで、次にあるもっと素晴らしいと評価したものがつかめるようになるというのは、自分をステップアップさせることに繋がります。


というわけで、私が何かをやめるときには、今もっているものを手放しても後悔しないほど今どうしてもほしいものがある、というときです。 その生徒の場合、家庭教師を辞めようと決意したときには、もうすでに次の進路(個人指導の塾に行くこと)を考えていました。なので私の心配は取り越し苦労だったようです。その話を聞いた時、私はとても安心しました。その子がより自分を高め、自分自信と戦っていくよいフィールドに立てることがこの受験期の一番の目的だと私は考えているからです。


さらに、お母さんもその子も、しきりに「本当のところは家庭教師をして、あなたに習った方が一番ためになってよいのだけれども…」と非常に残念そうな表情を浮かべて、何度も私のことを評価してくださっていました。お世辞も含まれているとは思いますが、二人の温かく、信頼のある瞳をみて、とても嬉しく思いました。


結論としては、指導は7月一杯で終了になります。最後までその子の指導が出来ないことに関しては非常に残念ですが、私はこの家庭教師の経験でたいへん多くのことを得ることができました。 こんなに未熟な自分でも勉強を教えてあげられるのだという自信、生徒がわかった!と思ったときにする「へえ~」を感じたとき、生徒の保護者との付き合い方、今の中学生が興味を持っているものいないもの、今の学校の様子などなど。


手ごたえを感じる家庭教師というシゴト。今回の生徒には感謝すると共に、また新たな出会いを求めて頑張っていきたいと思った日でした。

今日、ふとしたことから中学校卒業以来一度も会っていないバスケット部の友達とごはんを食べに行きました。


とぉ~ってもたのしかった~!!!(>_<)


きっかけはKちゃんがmixyで私を探し当ててくれたこと。ほんっと感謝しています(^-^)v


みんな学生生活をエンジョイしていて、青春していて、のびのびとして、迷っていて…。それぞれ違う人生だけど、それでもどこか共通のところがあって…。もうなんだか言葉にならないけれど、ひとつわかることはみんな大好きってこと!


卒業して5年くらい経つのに、すごく自然体で会話が出来た。それがすごくすごく幸せでした。


同時にみんなの話を聴いていて、たくさんのパワーをもらった気がする。


また是非誘ってほしいな!(^-^)v!コスモス


満ちては引き、また満ちては引いていく――。


最近の私の日常生活はまるで潮流のようです。

私にとって「満ちている」状態とは、大学の講義などで多くの刺激を受け、

新しいことを学んだときの状態を指します。


今日は、まさにその「満ちている」日でした。

一つ目は、「読書講座」という授業で、生徒たちがオリジナルで作った小説のプロットを聞くというものです。100人以上の生徒の中から、よりすぐりの作品が先生によって読まれました。そのどの作品も、ど肝を抜くものばかり。さすが文学部中心の西南だけあって、小説家のたまごがたくさん眠っているなあと篤くなりました。このようなチャンスを設けてくださった、作家の東山彰良先生にも感謝感謝!


二つ目は、K先生のオフィスアワー。オフィスアワーとは、放課後に自由に先生や学生とコミュニケーションを図れる時間のことで、私は毎週のように通っています。今日は特別にアメリカに留学されていた英文学科の一つ上の先輩のお話を聴くことができました。彼女はとても視野が広く、夢はアフリカの子どもたちに英語を教えること、とのこと。お話を聴けば聴くほど、篤い方だなあという印象を受けました。K先生が素晴らしいのは言うまでもありませんが、その先生についている学生の方も素晴らしい方が多いのは、やはり何か関係があるのでしょうね~!私はすでにK先生の尊敬すべきゼミ生を4人も知っています。


さらに、今日はK先生からまた新しい「窓」の開き方を教えていただきました。皆さんはテキスト(文学作品)を読むときにどのような読み方をしますか?もしくは論文を書くときにどのようなところに視点をおきますか?


英文学科で学んだ英文学の読み方は、主に2つあります。内在的読み方と外在的読み方です。前者は、一つのテキストの中のみに焦点を当て、ひとつひとつの言葉や象徴されているイメージを細かく考え、その作品に深く入っていく読み方です。それとは反対に後者は、テキストから飛び出して、そのテキストと窓としてとらえて他のコンテクストを見ていく読み方です。


そのコンテクストの主なものとしては「歴史」が挙げられます。例えば、作品を通じてその背景にある歴史を見ることで歴史についての知識がより深くなる。または、歴史を通じて作品を読むことで、その作品のことがより理解できる――。この読み方は大学に入って初めて知った読み方だったので、私が今とても注目している方法です。


K先生の読み方は後者の外在的読み方。特に歴史をコンテクストとして用いる読み方です。しかしそれだけではなく、それぞれのテクストに合わせてふさわしいコンテクストを示唆してくださいます。今回私はゼミで"Lord of the Rings"を読んでいるので、それについてふさわしいコンテクストを教えてくださいました。"Lord of the Rings"は皆さんもご存知の通りファンタジー文学。しかしそれだけのとらえ方ではまだ甘い甘い(>_<)


先生はこの作品を「人類学」というコンテクストで説いたらどうかという視点を下さいました。なぜなら、作者のトールキンは言語学者であり、少し前の時代の人類学者ジェームズ・フレイザー の『金枝篇』の影響を受けている可能性があるから。さらにこのことを前提にすれば、このようなファンタジー作品をこの20世紀に持ってくることは、キリスト教文化がイギリスにくる以前のケルト文化などの古代文化を復活させることであるともいえるかもしれないのです。その点についてはまだ検証してみなければわかりませんが、やってみる価値は大です。


このように、いくら自分で本を読んだとしてもつかめなかった視点(窓)を与えてもらったり、刺激的な話を聴くことで私の一日は心と共に「満ちた」日になります。


その一方で、学びたいという大きな欲望が膨らむのにもかかわらず、あまりにも自分の英語力や知識力が周りの学生よりも劣っていることをこれでもかというほど思い知らされるときが多々あります。それが私の「引き潮」のときです。私なんかが一生懸命勉強しても、たかが知れているのではないか。それならばなぜそんなに一生懸命勉強する必要があるのか――という苦悩に苛まれるのです。


しかしありがたいことに、満ち潮はまた必ず来てくれます。そして私は今できる精一杯のことをやるしかない(>_<) と思い直し、またもとの満ち潮になっていく…というのが私の日常です。そうしていくうちに、いつしかその潮と砂浜の境界線が少しずつでも、前に進んでいればいいなというのが私のささやかな願いです。


最後に、先生から紹介していただいた素敵な詩を紹介して今日の文をしめたいと思います。


Though the great song return no more

There's keen delight in what we have;

The rattle of pebbles on the shore

Under the receding wave.



by William Butler Yeats






ふぅ…。今日TOEFL(Test of English as a Foreign Languageという留学向けの英語のテスト)を受けてきました。大学入ってからずっと欠かさず受け続けて、今回で9回目くらいかな。点数は上がったり、下がったり、下がったり、下がったり…(^-^;) 見たいな感じで努力がなかなか報われません。


一年間留学をしたいと決意したのは、中学2年生の夏。アメリカに一ヶ月ホームステイをして、そこでホストファミリーに多くの体験をさせてもらいました。楽しかった一方で、帰国後、「一体私は何をしてあげられたんだろう…」と、何も伝えてこれなかった自分が悔やまれてきたんです。それが、「よおし!いつか絶対にもう一度外国に行って、今度はgive and takeで本当の国際交流をして、私も相手になにか伝えてくるぞ!」と留学を決意したときでした。


それからはや8年?が経とうとしています――。今では、行き先もイギリスに決まり、目的も英文学と、英語教授法を学ぶことに決めています。それだけ行く条件がそろっているにもかかわらず、一番肝心なスコアが足りない。。。こんなに悔しいことはありません。しかもチャンスは9月のあと一回。


今日も、気持ちだけは全身全霊をかけて取り組みましたが、結果はどうなのかわかりません。以前よりも、少しは英文が読みやすくなった気がしなくもないけど。いずれにしても、長い長い戦いになりそうです。苦しいよ~。でもやりがいはかなり感じてます。自分との戦い。


そんななんとももどかしい気持ちの中、弟から『スラムダンク』の中の印象に残っているセリフをふたつ、教えてもらったので紹介します。


・監督安西先生のことば 「諦めたらそこで試合終了ですよ」


・フラフラになりながら3連続スリーを決めた三井のひと言。 

「俺にはもうリングしか見えねえ」


私も絶対に諦めません。なぜなら、もうイギリスにいる自分しか見えないから。


がんばるぞ!!!