3・11
あの日、携帯はつながらず、繰り返しくる余震の恐怖の中で、大事な人たちに連絡がとれたのは、真夜中。あの時の安堵感は、今も忘れられない。
やっと会えた、相方と、頬の汚れを拭いあった。
繋がった友人の家で、テレビを見て津波の映像をみたのは、あれから2日後。
避難所を探し歩き、やっと探せた友人との再会。ハグ。
二時間並んだコンビニで話したおばあは、南相馬からきたという。目の前で友達を流され、津波を逃れ、夜通し逃げてきた。息子を頼って。
『歯ブラシもないの』
と、笑う、ばあちゃんの手を泣きながら握りしめることしかできず、順番を譲った。
友人らと、かき集めた食料。みなで作った、不格好なおむすび。
それでも帰り道、電気がない仙台の夜空の星は、涙がでるほど美しかった。
去年、相方が出た復興の釜神ライブで行った十三浜で、あれから初めて海へ行った。ほんとは行きたくなかった。見たくなかった。
そして、崩れた校舎、押し流されたままの瓦礫。なにもない。なにも。あまりの重さに、泣いた。
もんちゃんにメールで確かめながら、あげた帰れぬ魂は百か、二百だったろうか。
あの時、あげてもあげてもくる魂に、自分の無力を感じた。
それでも、今の自分にできること、そう思い、いつまでもいつまでも泣きながら柏手を打って、上げ続けたっけな。
鎮魂の灯籠によせられ、海から何体もよってきた光。人の周りをただよい、最後は、太鼓の音と松明の炎に照らされ上昇した。
そう、あの時、最後は太鼓だったの。思いだした。
去年は泣かなかったのに、今日はあの時間、涙がでたのは何故だろう。
でもね、
当たり前の幸せというありがたさが、今はよくわかる。
思い出すのは、辛さよりも助け合った感謝。
あの日から、日本国土のみんなが被災者になった。全員が被害者になった。生かされた我々は、助けあわねばならない。
これからもね。
自分ができることを
、たとえ微力でも、
これからもしていかなければならないと思った。











