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昨日、新城観光ホテルにて奥三河ビジョンフォーラムに参加して来た。そこでの内容は、奥三河の観光資源をどの様に活用するか?と言う事であった。そして指摘される眠っている観光資源、うまく活用できていない観光資源。あるわあるわ、なんとなく判っているけど人にPR出来ない名所、名物を実に的確に指導頂いた。僕らは何も金銀財宝を目当てにそこに行く訳ではない。そこに物語を思い浮かべるから行くのである。その物語の舞台や名脇役にそれら私達が提供できる観光資源にストーリーを付ける事が、地方行政の努力だと言われていた。
そんな中で、僕が感じた物語はどんなものだったろうか?やっぱり自然界に生きる動物との遭遇かな?自転車でツーリングしていても鹿や猪に(このフォーラムではイノブタだと言う事を強調されていた。)出会えるこの場所。なんか非日常って感じがするな。
僕の妻は東京からやって来たのだが、こんな場所をナショナルパーク見たいと比喩してくれている。差し詰めそこで遊んでいる僕たち家族はレンジャーだと飛躍するのだがあながち間違いではないかも?
車で5分で鹿たちの生存圏に入れるのはやはりこの場所の個性だと思う。暗い森の中で車のライトを消して息を潜める。風が森の木々を揺らし波となって駆け抜けて行くのを感じながらこの山のどこかにいる鹿を思いながら町の明かりを見下ろす。そんなスポットがしっかりあるのだ。
その時に思う事は月の光の明るさや、灯る街の明かりの数だけあるそれぞれのストーリーや自然界との協調?鹿はおなか減ってないかなぁとかかな?(1回山に入ると3匹ぐらいは遭遇するよ!)
自然をしっかり楽しむのなら、それを可能にする肉体の維持は必至。
自転車乗ろうっと。
そんな中で、僕が感じた物語はどんなものだったろうか?やっぱり自然界に生きる動物との遭遇かな?自転車でツーリングしていても鹿や猪に(このフォーラムではイノブタだと言う事を強調されていた。)出会えるこの場所。なんか非日常って感じがするな。
僕の妻は東京からやって来たのだが、こんな場所をナショナルパーク見たいと比喩してくれている。差し詰めそこで遊んでいる僕たち家族はレンジャーだと飛躍するのだがあながち間違いではないかも?
車で5分で鹿たちの生存圏に入れるのはやはりこの場所の個性だと思う。暗い森の中で車のライトを消して息を潜める。風が森の木々を揺らし波となって駆け抜けて行くのを感じながらこの山のどこかにいる鹿を思いながら町の明かりを見下ろす。そんなスポットがしっかりあるのだ。
その時に思う事は月の光の明るさや、灯る街の明かりの数だけあるそれぞれのストーリーや自然界との協調?鹿はおなか減ってないかなぁとかかな?(1回山に入ると3匹ぐらいは遭遇するよ!)
自然をしっかり楽しむのなら、それを可能にする肉体の維持は必至。
自転車乗ろうっと。
なんか、書こう書こうと思っていてもいつまでたっても書けないので、画像をみて思い返した事を書こうと思う。
この間バリ島に行って来た。
そこはインドネシアはイスラム教の国である中唯一ヒンドゥーの島である。
その事はどの様な事か?
一神教であるイスラムの教えの中で太古からあるアニミズムを守り続けて来た島なのである。
国が成り立つには宗教観は非常に重要なファクターであると思うが、同時に日本で言う所の政教分離も政治をつかさどる中では非常に重要。それをインドネシアは認めて来た事に私は懐の深さを感じる。また日本も一緒だ、日本で言う所の神道もアニミズム的要素が十分にある。
八百万の神に象徴されるように、私達はいろいろな物や出来事に感謝して来た。その国民性を私自身は好きである。ヒンドゥーにしてもそうだが、実に彼らが有難いなと思ったものを神と言う象徴にして感謝している様は人間的だと思う素直な感覚だ。一神教の人達は多くの神を認める事の弊害を言われるが、私達は自分にとってありがたい物を認め、他人がそれを敬う事も認めるべきではないかと思う。
宗教が政治に介入しきれない事は正にこの事に起因していると思える。政治は他文化や他民族を認める必要がある。(今変換時に多文化と出てきたが此方でも良いのかも)

この間バリ島に行って来た。
そこはインドネシアはイスラム教の国である中唯一ヒンドゥーの島である。
その事はどの様な事か?
一神教であるイスラムの教えの中で太古からあるアニミズムを守り続けて来た島なのである。
国が成り立つには宗教観は非常に重要なファクターであると思うが、同時に日本で言う所の政教分離も政治をつかさどる中では非常に重要。それをインドネシアは認めて来た事に私は懐の深さを感じる。また日本も一緒だ、日本で言う所の神道もアニミズム的要素が十分にある。
八百万の神に象徴されるように、私達はいろいろな物や出来事に感謝して来た。その国民性を私自身は好きである。ヒンドゥーにしてもそうだが、実に彼らが有難いなと思ったものを神と言う象徴にして感謝している様は人間的だと思う素直な感覚だ。一神教の人達は多くの神を認める事の弊害を言われるが、私達は自分にとってありがたい物を認め、他人がそれを敬う事も認めるべきではないかと思う。
宗教が政治に介入しきれない事は正にこの事に起因していると思える。政治は他文化や他民族を認める必要がある。(今変換時に多文化と出てきたが此方でも良いのかも)



