今日は珍しく出かける用事がなく 家の片付けものや20日からの旅行の準備や雑用をしながら 室生犀星 現代語訳蜻蛉日記をYouTubeで聞いていた 

堀辰雄かげろうの日記が だいぶ堀辰雄の解釈が加わっていることがわかった

解釈だけでなく設定を変えていることもわかった


どちらも最終章が なんともいえない余韻を残すものとなっていて 原典のそのスタイルを堀辰雄も室生犀星もしっかり表現している

私はそのあたりが 蜻蛉日記が日本の「私小説」と言われるものの原点なのでは!?と感じた次第である(三島由紀夫の金閣寺の末文や井上靖のあすなろ物語の最終章に向かう緊張感と収束感に通じるものを感じるので)


それにしても現代語訳蜻蛉日記の終わり方はかなり恐ろしかった、、女の怨念とでも言おうか、、そう感じるのはわたしだけかもしれないけど やはり息子道綱の存在が母の中に取り込まれてしまっている感じは背筋が凍った


かげろうの日記堀辰雄の蜻蛉日記解釈が優先されたものだし 室生犀星の現代語訳の方が道綱母の実像に近いのかと思った 、、、だとするの道綱母は感性豊かな才女だし執念深くもあるけどかなりクールな女性だったであったろうと推測する


現代とは婚姻態勢が全然ちがうし 男女の仲も今より縛りがなく豊かだったのだと思う

一説には兼家の了解を得てこの日記を書いたともされる、、、だとすれば まさに「読み物」として さまざまな和歌のやりとりをおしゃれに描いた小説だったのだと理解できる


紫式部が刺激されたとしても納得のいく話である




道綱母 結構好きかも 笑