私は小さい時 結構厳格に育てられた

母に甘えたことはない

甘えさせてもらえなかった

なおかつある時母は「あなたの上には3人の亡くなった兄姉がいる、みんな赤ちゃんの時に亡くなった。Aちゃんとても美人だった。Bは私が産んだ唯一の男の子だった。だからあなたはその代わりに男の子として生まれて欲しかった」と言った。

母はあまり深いことを考えずに愚痴として言ったのだろうと 今になればわかるが 小さいあの頃の私は 男の子として生まれてこなかったことを自分で責めたし 女の子で生きていることを申し訳なく思った。

とにかくそんなことがあって 私は小さい頃から自己肯定感が少なく自責の思いが強い。何か物事が起こると自分が何か悪い原因をつくった?と思って 変に弁明めいたことを考えたり 言い訳みたいなものを探したりした。

またいつも母や父からの評価を気にする子供だった、、父母は「良い子」が好きだったから。

でも不思議なことに同じ環境に育った姉は天真爛漫に育ったみたいだから 親云々でなくやはり私の持って生まれた性格が自己形成の根底にあるのだろうと思ったりもする。






古い固定観念の強い両親だったので 私は早く結婚をしないと世間体が悪いと親が思っているだろうと思い、とにかくお見合いで結婚をした。かたや結婚するということは親からの解放でもあると感じてもいたが やはり小さい時から植え付けられた古い価値観固定観念や自己肯定感の低さが その後の暮らしでも私の前に立ちはだかった。


嫁ぎ先の風習や考え方は私にとってはあり得ないほどそれまでの価値観と正反対のことが多かったし 子供達が私の価値観を全く受け入れなかった。私は本当にダブルで自己否定されたようで辛かったけれど 自分が生きるためには考えを変えないと苦しくて生きていけないと思い、年月をかけて悩みながら苦しみながら 私は新しい価値観を受け入れていった、、それは今では私にとっては心地の良いものとなった。


良い意味で自分本位に生きること

自分を大切にすると 自然と周りの人も大切にできる


こんなことが私が新しく得た価値観だった







最近また新たに思うことがある

私は過去の私が持っていたような考えや価値観を持っている人と話すとなんだか窮屈になってしまって つい無意識的(意識的の時もあるかも)にでも批判めいたことを言ってきてしまったのではないか、、、

そんなことに気がつき出したら もう本当に自分が情けなくて 恥ずかしく思ってしまう。

結局は今の私は 新しい価値観しか受け入れられない器の小さい人間なのだと思う。

自己弁護するとしたら そんな窮屈な生き方よりもっと自由な考えがあるよって伝えたいということかもしれない。


でもやはりまたはたと考える

価値観なんて人それぞれで その人がそれをよしとして満足であられるなら それを誰かが批判したり捨てた方がいいなどと言えるものではない


誰かと話してその後ろにある価値観や考えみたいなものが(あれ?っと私と考えが違う、昔の私みたい)と思っても その違いを確認するのは自分の中にとどめて その人自体を責めたり ましてや考えを正した方が良いよなどということはおこがましすぎることなのだ。


偉そうに電話相談員だと言ったって こんな自分自身ではダメだと思うと どっと疲れてどっと自己批判したくなってしまうのだった

すぐ短絡的にひげしてしまう自分は人としての器が小さいんだなーとも思う。