ぽんたの呑んだくれ珍道中~この時感じた感情を残すために~ | ぽんたの呑んだくれ日記

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はじめまして。ぽんたと申します。
お酒と食べる事が大好きな呑兵衛SEです。

日々の晩酌やごはんなど
個人的な日記として、気ままに更新しております。

ブログに載せるべきか
実は凄く迷いました…

でも…

今この時感じた
感情、記憶を少しでも
残したいと思うので
綴らせて頂きます。

これは個人的な
記録のためだけですので

コメント欄を閉じさせて頂きますこと
ご容赦ください。





小学生の時からいつか見に行こう…
一度は見て、知らなければならないと
思っていた場所…

・知覧特攻平和会館
・ひめゆり平和祈念資料館
・長崎原爆資料館

そして
・広島平和記念資料館


きっかけは『はだしのゲン』
小さな頃に見てトラウマともなった
あのシーン…

まるでお化けのような人の行列…。
怖い。怖すぎる。

こんな事が本当に起こったなんて
信じられなかった…


それでも、それを見たことにより
戦争について、原爆について
考えるきっかけとなった…


今は規制とかもあるんですかね?
地上波で『蛍の墓』なんかは見るけど
『はだしのゲン』は放映されない。

でもこの作品は
見るべきではないかなと
個人的には思っています。

たとえトラウマが残ろうともね…






第二次世界大戦 末期
1945年8月6日午前8時15分

アメリカ軍が広島市に対して
原子爆弾を投下した。

実戦で使われた
世界最初の核兵器である原爆。

この一発の兵器により
当時の広島市の人口
35万人(推定)のうち
9万~16万6千人もの
命を奪ったとされています。



2015年2月22日(日)

この日の広島は雨でした。

広島駅からタクシーに乗り込み
目的の場所を告げます。

少し方言がキツめだけど
気のよいタクシーの運転手さんと
広島の地酒の話で盛上りながら
和やかなムードでその場所へと
向かいました。


15分程で到着。



やって来たのは原爆ドームです。



【原爆ドーム】

教科書で見たやつと一緒だー!!

補修工事で
足場などが組まれているものの

ある種念願であった
その場所に来れた喜びと感動は、
その建物に近づくにつれ
消えていきました…





煤けた壁…

散らばる瓦礫…

剥き出しの鉄骨…

重くなる足取り…

3人に無言の時間が流れました…




なんだかわからないけど恐怖を感じる…

恐怖だけでなく

不安、困惑、緊張、無念、嫌悪、
罪悪感、苦しみ悲しみ、
切なさ 、絶望…

ありったけの負の感情が
自分の中で渦を巻き

ズシンと体が
重くなった感覚に襲われました…




【動員学徒慰霊搭】

1944年8月戦時中の労働力不足を補うため発令された『学徒勤労令』

中学生以上の生徒は軍需工場や空襲による延焼を防ぐための防火地帯をつくる作業などの勤労奉仕が強制されました。

被爆当日、広島市内で動員学徒として活動していた国民学校高等科以上の約6,300人が犠牲となりました。



若くしてこの世を
去ることになってしまった命…

お線香持ってくればよかった…

そんなことを考えながら
手を合わせました。




【平和の灯火】

1964年8月1日に点火
以来ずっと燃え続けている灯火
「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっているそうです。

火種には以下が用いられています。
全国12宗派からの「宗教の火」
全国の工場地帯からの「産業の火」
宮島弥山の「消えずの霊火」



前日見た弥山の弘法大師の火
こんな所で繋がるとは驚きでした。




【原爆の子像】

2歳で被爆した佐々木禎子さん。
10年後に白血病と診断され、8ヶ月の闘病生活の後亡くなりました。
その際に回復を願って包み紙などで折っていた折鶴を平和のシンボルとし、

原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め平和を築くための像が全国からの募金で立てられました。


これも中学生の時に
英語の授業で聞いていた話でした…

戦争が終わって10年もたったのに
戦争の影響で命を落とすなんて…





【国立広島原爆死没者追悼平和記念館】

入り口にある噴水は
原爆が投下された8:15を型どった
デザインになっていました。

館内には原爆で命を落とした方々の
遺影や書籍『原爆の子』の中の
話を再現した映像が流れていました。





【原爆死没者慰霊碑】

中央の石碑に刻まれた文字

「安らかに眠って下さい 
    過ちは繰返しませぬから」

この言葉を反復しながら
手を合わせました。
奥に見えるのは原爆ドーム…

少し寒気がしたような気がしました…




【広島平和祈念資料館】

爆心地付近は鉄やガラスも
蒸発するほどの高熱に晒されたそうです。
溶けたまま固まったガラスや
鉄の扉などが展示されていました。


また、強烈な熱線により
屋外にいた人は全身の皮膚が
炭化するほどだったそうです。

展示されていた「人影の石」

石段に腰掛けて銀行が開店するのを
待っていた何気ない日常…

一瞬の後「影」となって
しまったその人を想う…

苦しむ間もなく亡くなったその人は
沢山苦しんで亡くなったかたよりも
良かったのだろうかなんて思えてしまう。


自宅の前で三輪車をこいでいる時に
被爆し亡くなった3歳の男の子…
全身を火傷し水を求めて亡くなった…



沢山の死。



外国人の観光客のかたも沢山いました。
彼等は何を想ってこの場所に来て
これらの話を聞くのだろうと
ふと気になりました…




黙祷…




これは ぼくらの叫びです

これは 私たちの祈りです

世界に平和を きずくための




全てを見終わった後は

猛烈な脱力感を感じ


なんと言ってよいのやら表現できない
感情がモヤモヤと残りました。


知覧に行った時とは
また違う感情…


今でも上手く説明できません。


それでもやっぱり
ここにこれて良かった。

偶然にも今年は2015年
終戦から丁度70年だそうです。

これも何かの縁かと思い
再び原爆死没者慰霊碑に向き直り
黙祷をしました。



【続く】