「箱詰め一斉授業」のまま、看板だけを掛け替える学校教育 

 

1 「個別最適」という言葉への違和感 

ここ数年、「個別最適な学び」という言葉が教育界を席巻している。 
文部科学省の答申も、都道府県教委からの通知も、校長会で配られる文書も、この言葉であふれている。昨年度末から今年度初めに配布された通知や校内で作られた説明文書の中にも、当然のように「個別最適な学びの推進」が書かれていた。 この夏の中教審答申にも強烈に取り入れられる予定である。

 

個別最適化?これはどういう意味で使われているのだろうか。 

一人一人の性格や能力や理解の度合いは違っており、また興味関心の方向性も同じではないから、一人一人のニーズに合わせた学習環境を作り、指導に反映させていこう。 

という意味で語られているなら、それはもう大本営発表に匹敵する大嘘である。 
 

2 30数人を「箱」に詰めておきながら 

まず、前提条件から率直に確認したい。 
現在の小学校の多くは、一クラス30人~35人前後で編成されている。

子どもたちは「教室」という箱の中に詰め込まれる。

チャイムの音によって時間を区切られる。

決められた時刻になると一斉に机に向かい、椅子に座ることを求められる。鞄の入れ方、水筒の置き場所、机の中への道具の入れ方、筆箱の中身など多岐にわたって統一される。 

別に統一することが悪いと言っているのではない。30数人も一つの空間に詰め込んだら、いろんなことを統制しないと、あっという間に集団は好き勝手なことをやり始め、崩壊してしまう。

 

しかし、ここから先はどうだろうか。 

 

授業は基本的に、学年ごとに定められた学習指導要領の内容と進度に従って進む。 
九九をすでに覚えている子も、数の概念がまだ十分でない子も、同じペースで「5まで数える」「6を1と5に分ける」「引き算はサクランボ算で」といった活動を一緒に行う。数字を書くことをとっくに身についている子も、鉛筆を持って線を引くこと自体に苦労している子も、同じプリントに同じ文字を書かされる。 

理解が進んでいても、勝手に先に進んではいけない。教えられた通りのことをやらなければならない。引き算では、サクランボ算以外の計算をすると✖をつけられる。足し算や掛け算の順番を入れ替えると、「交換法則は習っていないから」という理由で✖になる。 

つまり、子どもが見つけたやり方や、すでにどこかで教わっている知識は「今はそれをしてはいけない」と排除されるのである。 
自分なりの工夫で別の問題に挑戦することも、よほど特別な配慮がない限り許されない。授業中に姿勢を崩すことは注意の対象であり、「早く終わったからと言って遊んではいけません」とたしなめられる。算数では、まだ問題が解けていない他の生徒に教えることは許される。しかしこれは「個別最適化」なのだろうか? 
 

この構造を一切いじらないまま、 
「一人一人の特性に応じた学びを」 
「学習履歴を見取って個別最適な指導を」 
と言い出すのは、おかしくはないだろうか。 

 

なぜなら、その言葉が、現場の条件や構造を一切変えないまま、教師側にまた一つ「実現不可能な理想」を背負わせるためのスローガンにしか見えなかったからである。 

 

「個別最適」という耳あたりのよい言葉の裏で、現場の教師はこう問われることになる。 
なぜできないのか。なぜ工夫しないのか。なぜ改革の趣旨を理解しないのか。 
 

そして、30数人の子どもを一つの教室に押し込んだまま、チャイムで時間を刻み、同じ教科書を同じペースで進めながら、「あなたたちの授業はまだ個別最適ではない」と指導されるのである。 

昨今は「チーム担任制」が美談として取り上げられているが、こうした問題の本質は変わらない。 

 

3 「個別最適」という看板だけが先に走る 

もちろん、制度側の文書を読めば、それなりに筋の通ったことが書いてある。 
 

・ICTを活用しながら、子どもが自ら学習を調整していくこと。 
・「指導の個別化」と「学習の個性化」を両輪として、一人一人のペースや興味に応じた学びを実現すること。 

 

紙の上の構想としては、否定しづらい。 
だが、その「個別最適」のビジョンが、いまの教室の物理的・時間的な枠組みと、どうやって両立するのかについては、驚くほど具体性がない。 
学級編成も、時間割も、学年制も、そのままにしておいて、「あとは現場の工夫で」と丸投げされているようにしか見えないのである。 

 

結果として起きるのは、「看板」と「中身」のズレだ。 

 

上からは、「個別最適な学びを実現している先進事例」が次々と紹介される。 
授業研究会では、タブレットを使った自学自習の様子や、子ども同士が話し合う写真が並ぶ。 
教員向けの記事には、「子どもは有能な学び手であり、教員はその伴走者である」といった美しい言葉が踊る。しかしこれは、文科省が予算と人員をふんだんにつぎ込み、「おかみの意向」に合うような結果を出しているいわば広告塔の学校の実践事例である。 

 

一方で、多くの普通の学校の教室では、「赤刷り教科書」を片手にした教師が、限られた時間の中で膨大な内容をこなすことに追われている。 
新たに求められる内容は増え続けるが、授業時数は大きくは変わらない。どころかこの20年間でパンパンに膨れ上がった。 
結果として、すべて教育内容が「さわり」だけの通過儀礼となり、教師自身が内容を深く理解する余裕も、子どもたちの反応にじっくり向き合う時間も奪われていった。 

「個別最適」は、そうした現場の疲弊と傷口に、さらにこれでもかと塩を塗り込むような言葉になりかねない。 
 

実現するための条件整備をほとんど行わないまま、だけれど理想だけは掲げる。 
できないのは、教師の工夫や努力が足りないせいだ――。生活科や総合的学習の時間以降、これまで何度も繰り返されてきたフレーズが、またしても使われることだろう。 
 

4 「基礎基本」と「個別最適」のねじれ 

ここで一度、「基礎基本」という言葉についても考えてみたい。 
 

学習指導要領は、基礎的・基本的な知識・技能を土台に、思考力・判断力・表現力などを育てると説明している。 

だが、現場で「基礎基本」と言われるとき、それはしばしば「学年ごとに決められた最低限の内容」と「それを終わらせるための進度管理」を意味している。 
 

九九をすでにマスターした子も、まだ一桁の足し算でつまずいている子も、「今はこの単元だから」という理由で、同じプリントに取り組むことになる。 

本来ならば、基礎基本を早くクリアした子には、別の課題やより発展的な探究を用意し、どんどん先へ進めるようにすればよいはずだ。 
まだ十分に理解していない子には、時間や方法を変えて、じっくり取り組めるようにすればよい。 

ところが、学年一律の進度と評価を前提にすると、そうした柔軟な運用は難しくなる。 
「基礎基本を全員に保障する」という名目の下で、「同じ内容を、同じ時間で、同じやり方で」行うことが正義になってしまっている。 

その結果、「個別最適」のはずが、実際には 
「進んでいる子は待ちなさい」 
「遅れている子は周りに追いつきなさい」 
というメッセージにすり替わる。 

 

基礎基本を守ることと、個別最適を実現することは、時間と場所の問題を無視すれば本来は両立しうることなのかもしれない。 
しかし、今のように何百人もの児童生徒を壁と時間で区切って、一斉一律の枠組みを前提にしたままの時間を作っている限り、個別最適化は構造的に矛盾している。 

 

5 6年生が「学校を息抜きの場」とみなすとき 

このねじれは、高学年になるほど露わになる。 
6年生くらいになると、都市部の子どもたちの中には、既に塾や通信教育で中学受験レベルの内容を学んでいる子が少なくない。というより多数派になりつつある。

 

彼らにとって、学校の授業はどう見えるか。 
多くの場合、「もう知っていることの確認」か、「進度調整のための待ち時間」に過ぎない。 
その中で、教師が一方的に解説を続ける姿は、ときに「時代遅れの授業」として冷ややかに見られてしまう。 

6年生の中には、教師があまりに強く「きちんとやりなさい」と迫ったり偉そうなそぶりを見せたりすると、逆に「先生、この問題、解ける?」と難関中学の入試問題を差し出してくる子がいる。 

それは単なる反抗ではない。 
彼らなりの、「学校の学び」と「自分が塾で取り組んでいる学び」とのギャップに対する、歪んだ抗議なのだろう。

学校が、彼らにとって「本気で学ぶ場」ではなく、「息抜きと出席のための場」と化してしまっていることの、表現でもある。 

そしてここでもやはり、「個別最適」という看板との落差が際立つのだ。 
 

学習内容のレベルも、子どもたちの準備状況も、これほど多様化しているにもかかわらず、学校は依然として「学年の内容」を一斉に教えることを基本としている。 
その枠を見直さないまま、「一人一人の可能性を引き出す」と言われても、現場からすると空々しく響くばかりである。 

 

6 多様性・協働・安全という「逆転」 

「学校でしかできないこと」として、次のような項目が挙げられている。 

 

①、異なる背景や価値観を持つ子どもたちが一緒に学ぶ「多様性」の場であること。 
②、子ども同士が協働し、対話しながら学ぶ経験。 
③、失敗してもやり直しが許される、安全なチャレンジの場であること。 
④、家庭の経済力に関わらず、最低限の学びと体験を保障すること。 

 

どれも理想としては否定しがたい。 
しかし、現実にはこれらは次のように逆転しているのだ。 

 

①「多様性」。 
確かに多様性はある。

いろんな国籍の子ども、いろんな家庭事情のある子も教室の中に混在している。

ところが、教室は画一化を求める場だ。筆箱の形状や中身まで対象となる。

画一化ははみ出す子への批判となり、同調圧力は強まる。

「学校は生きづらい」と子供が感じ、不登校が増える原因になっている。 

多様性が画一化を生むというこの皮肉な構造は、平成後期から令和にかけてますます強まってきている。 

 

②「協働」。 
学力や認知特性の差が非常に大きい集団で、形式的にグループ活動を行うと、「教える側/教えられる側」の一方通行になりやすい。 
「同レベルで共に考え、ぶつかり合う」協働とは程遠い場面も少なくない。それは同質集団で初めてできる活動である。 

小学校の子どもの能力は、確かに「多様性」があって、いろんな子供が混在しているのだが、能力が高い子供が常にリーダーシップを取り、話が分かる2,3人だけで話し合いが完結してしまい、あとの子はそれに従うだけで何の進歩も面白さもない。という授業や活動がほとんどである。 

 

③「失敗しても安全な場」。 
今日では、一つのトラブルやミスが、すぐに保護者からのクレームやSNSでの拡散に直結するリスクをはらんでいる。 
そのため、学校はむしろ「失敗しないこと」を最優先し、教師も子どもも、挑戦よりも安全策を選ぶようになりつつある。 

「失敗しても安全」と考えるのは、学校側教師側が処理できるごく小さな範囲内の話であって、心理的負担が大きくなりそうな失敗が予想される活動には踏み込まないし、身体的安全が脅かされる活動など絶対にNGである。 

そもそも学校は安全な場所ではなく、暴力的な子供もいるし、子どもは廊下を全力で走っているし、常に危険と隣り合わせな場所である。 

 

④「最低限の学びの保障」。 
これは本来、どの家庭に生まれても一定水準までは学べるようにする、という理念である。 
だったら、その「最低限をクリアしている子」がいたら、その子は学校に通わなくてもよいのか?

そんなことにはならない。

「学びの保証」は建前であって、学校に行くことが目的になっている。

「社会性」とか「協働」とかいろんな理由が上乗せされるが、それは「周りに合わせろ」「空気を読め」という同調圧力と「みんなと同じことをしろ」という画一化を強制する。それが義務教育正体なのである。 
だから、最低限どころか全国トップクラスの知識理解技能表現力がある子であっても、「学年の内容」をなぞるために毎日登校しなければならないのである。 

 

こうして見ると、学校が掲げる「学校でしかできないこと」と、現実の教室で起きていることとの間には、深い裂け目が横たわっている。 
その裂け目を埋めるどころか、「個別最適」という新しい言葉が、さらにその上に薄いペンキを塗り重ねているように見えてならない。 

 

7 「学校にしかできないこと」など本当にあるのか 

これは都市部に限った話ではあるが、見渡せば、ありとあらゆる分野の民間スクールが存在し、学習面だけで言えば、学校の外で完結させられる子どもも少なくない。 
保護者の多くは共働きで、現実には「昼間、安全に預かってもらう場所」として学校を利用している面が大きい。 

そうした状況を踏まえると、「学校にしかできないこと」とはいったい何なのだろうか。 

 

少なくとも、いまのように 

・30数人を一つの箱に詰め込み 

・チャイムで時間を区切り 

・学年一律の進度で 

・すべての子に「あれもこれも」と詰め込む 

という形を前提にする限り、「学校でなければ不可能な価値」が本当にあるのか疑わしい。 

 

むしろ、学校の役割を正直に言い直すなら、 

・午前中は、読み書き計算などの基礎基本と、最低限の社会性を身につける場 

・午後は、安全な託児の場として機能しつつ、希望する子には民間スクールやオンライン講座、地域の活動への接続を支える場 

といった、もっとシンプルで、現実に即したものにした方がよいのではないか。 

「学校は託児所ではない」とよく言われるが、現実にはすでに託児の役割を担っている。 
であれば、託児の機能を恥じるのではなく、堂々とその責任を認めたうえで、教育としての中身を「基礎基本」に絞り直し、 それ以上の高度で変化の速い学びは、民間や自学自習に任せるという役割分担も、選択肢として真剣に検討してよいのではないか。 

 

8 「個別最適」を語る前に変えるべきもの 

最後に、「個別最適の欺瞞」を少しでも和らげるために、最低限ここは議論すべきだと感じる点を挙げておきたい。 

 

1つは、「30人箱詰め・一律進度・チャイム区切り」という枠組みを前提にしたまま、「個別最適」を語らないことだ。 
学級編成や時間割そのものに手をつけずに、現場の工夫だけで何とかしろと言うのは、責任転嫁に近い。 

 

2つ目は、「基礎基本」の定義をもう一度狭くし直すことだ。 
すべての教科・領域で「これは基礎基本だから」と広げてきた結果、どの授業も薄くなった。 
読み書き計算や、簡単な論理、最低限の情報リテラシーなど、本当に時代が変わっても必要な部分に、時間とエネルギーを集中すべきだと思う。 

 

3つ目は、基礎基本を早くクリアした子に、「学校内外で別ルートを認める」発想を取り入れることだ。 
午前中の必修部分を終えたら、午後は別の学びに参加できる。 
学校の中で、教師の得意分野を生かした少人数講座やプロジェクトに参加してもよいし、地域やオンラインの学びに接続してもよい。 
そうした柔軟な選択肢があれば、「学校は息抜きの場」と感じている子どもたちにとっても、意味のある時間になりうる。 

 

4つ目は、「できないのは教師の努力不足」という言説をやめることだ。 
個別最適が実現しない原因の多くは、構造とリソースの問題であって、個々の教師の意識の問題ではない。 
そこを取り違えたまま、理念だけを重ねても、現場の疲弊と不信を深めるだけである。 

 

本当に子どもたち一人一人の学びを大切にしたいのであれば、 
新しいスローガンを増やすことよりも先に、 
「30人の箱詰め一斉授業」という前提そのものを、問い直すところから始める必要があるのではないだろうか。 

 

日本の学校は、研修ゼロのまま新規採用教員を「即日戦力」として現場に放り込む。

この異常な慣行をもう80年にもわたって行ってきた。 

新規教員の4月1日問題である。 

 

4月1日、いろいろな会社の入社式の映像が流れた。このあと新入社員には一定期間の「研修」が課せられる。1か月程度のところもあるし、3か月以上の時間をかけるところもある。これは当たり前であって、入社式が終わってすぐに配属先に回され、右も左も分からないまま仕事が出来るわけがない。これはコンビニであろうがどこかのショップのバイトだろうが同じことで、まずは何らかのレクチャー受けて現場に入らなければ、何もわからずに接客することになってしまい、現場は混乱してしまう。 

  

ところが教育界では驚くべきことにこの「研修」「レクチャー」がゼロなのである。

全く何もないままいきなり現場に投入されるわけだ。それが戦後ずっと、80年も続いている。 

  

大学の卒業式が終わる直前ぐらいに、各自治体教委から電話がかかってくる。 

「どこそこの学校に3月27日の10時に行ってください」という連絡だけだ。「自分で連絡を取れ」と言われる場合もある。 

3月27日にその学校に行くと校長室に案内され、4月1日着任予定の、他の学校からの異動してくる先生方を紹介される。そして「あなたは3年3組をお願いします」とだけ言われ、その後、学校の中を案内される。 

3月27日あたりの学校内は、教室移動で雑然としている。前担任が3月24日か25日まで使っていた教室を片付けて次の教室に移動する準備を、他校に異動する教員は引っ越しの準備をしていて、教室内はぐちゃぐちゃになっている。案内されたところで、何も分からない。 

4月からの資料も皆無に等しく「次年度年間行事予定表」というA3の紙切れを一枚渡されるだけだ。3年3組がどういうクラスなのかどういう子どもが居るのかという情報は一切ない。そもそも「チーム担任制だから」とわけの分からない言葉でごまかされる。4月1日以降どんな仕事をしたらいいのかという予備知識も全く与えられない。唯一、「4月1日8時に校長室に来てください」と言われるだけで3月27日は終わる。 

その後、4月1日まで研修があるわけでなく、何を準備したらいいのかという具体的な情報もなく、不安と期待が入り混じった気持ちで「学級経営の本」とか一般的に出ている参考本を頼りにあれやこれやと想像してみるのだが、4月1日以降の洪水のような仕事からすると、それは無駄な努力というものだ。 

  

4月1日、校長室に行く。校長自体も人事異動で3月27日と違っていることもある。 

ここで初めて正式に「3年3組をお願いします」「校務分掌は○○です」と言われる。前年度の校務分掌資料と学級編制資料を渡される。中身を見る暇もなく、すぐに職員室であいさつをする。あいさつで「お笑い」を求められる場合もある。これは学生時代のような宴会一発芸ではなく、ちょっと気が利いて職員がほほ笑むような挨拶をするという意味だが、歳の順の職員紹介では案外プレッシャーになったりする。 

あいさつが終わると職員室の自席に案内される。

全員が着席すると、すぐに職員会議①が始まる。担任発表、校務分掌の発表がある。担任発表は5分程度で終わるが校務分掌はかなり細かく多岐にわたっていて、30分はかかる。新規採用者には分からないナゾの校務分掌の割り当てが延々と続く。時々前年度のままになっている部分や矛盾点があり、それを指摘し修正しながら進んでいくため、職員会議①は1時間はかかることもしばしばある。この間、新採者はいったい何が行われているのか、全く理解できずに座ったままだ。 

  

休憩をはさみ、職員会議②が始まる。

学校経営方針、年間予定、4月の予定、日課表、専科割り当てなど、学校によっては始業式や入学式の計画など、もう少し付け足す場合もある。チーム担任制の場合には、その趣旨が延々と説明されたりする。特別支援の全体の計画や個別支援計画についてのこととかをこの日にやる学校もある。(特別支援の個々の子どもの話はたぶん別日) 

 

校長による経営方針演説は、新採はもちろん経験4,5年程度の若者が聞いていたところで何か分かるわけではない。校長によってはプレゼンまで用意して長々と説明し、新年度の貴重な準備時間は失われていく。 

 

年間行事予定も4月の予定も新採からすると耳慣れない言葉が飛び交い、わけが分からず学年主任に尋ねると「1年経てばわかるから」と言われてしまう。もっとも、「1年経てばわかる」という突き放した言い方は当然と言えば当然で、それをいちいち説明していたら一日では終わらない。そもそも研修無しでいきなり現場に投入されることの方が、どうかしているのだ。 

  

こうして4月1日午前中は会議であっという間に時間が過ぎ去り、気がつくともう昼になっている。昼飯を外に食べに行くか弁当を買ってくるのかは学校内の雰囲気によって違う。が、どちらにしても「どう?学校って忙しいでしょう」「はい。大変そうですね」的な会話と、新採が大学の時に何をやっていたかとか出身地はどことかの話となるが、これはどこでも同じだろう。 

  

午後になると、学年の教科担当や校務分掌担当の割り振りを決める。 

午前中の校務分掌担当は、リーダーを決めただけであり、各学年でメンバーを決めていく。この決め方は自治体によっても違うが、たとえば「生徒指導(生活指導)部会」「図工部会」のようなものだ。これがとんでもない数になる。各教科領域ごとにあるから小学校の場合でざっと挙げてみると、国語・社会・算数・理科・英語・道徳・図工・音楽・総合・体育・安全・特別活動・給食・研修・情報・生徒指導・・・などとなっている。ここに挙げた例だけで17あるが(多分もっとある)1学年3クラスの場合は17÷3≒5で一人5つか6つ程度の部会をかけ持つことになる。新採はもちろん、2年目とか3年目でもこうした部会で何をやったらいいのか分からず、右往左往する場合が多い。こうした個々の部会の在り方をきちんと教える研修など、教育界には無いからだ。 

新採はわけの分からないまま分掌を割り当てられ、そこに出ろと言われる。若い男性は体育をやれとか男女共同参画の趣旨に反することを言われるが、逆らえるはずがない。体育部会は結構悲惨だ。理科も新採に当てるとしたら相当無責任な学校だと思ったほうが良い。 

 

午後は部会から始まる。

はじめに生徒指導と研修と特別活動がある。この会議は長い。提案資料がごっそりとあり、それをもとに延々と説明が続くが、新採にはチンプンカンプンな話が続く。「各月の生活目標はこれで良いか」とか聞かれても、新採が答えられるはずがない。「今年度の研究テーマは何が良いですか」とか意見を求められても分かるわけがない。だいたい、テーマ文そのものが抽象的でどうとでも取れる文言で固まっている。主任とベテランが勝手に話を進め、新採や2年目3年目の若手や異動してきた者は黙って聞いているだけの、実に生産性の低い、非効率的で時間の無駄としか言いようのない「部会会議」という名の寄り合いが延々と続く。

生徒指導・研修・特活が終われば各教科の部会もあるのだが、それは4月1日だけではとても無理なので、翌日以降のどこかの時間に設定される。 

  

不毛な会議からようやく解放されると、書類の山が待っている。

これは書く書類ではなく、前年度までの各クラスの書類を新年度に置き換えるだけの単純作業だ。

2年3組が自動的に3年3組になるわけではなく、クラス替えを行うから、旧2年1組2組3組から新3年3組の子どもの書類を仕分けなければならない。これがまた実にたくさんあり、保健の書類だけで数種類ある他、家庭調査票や安全カード、要録などの公的書類など小山のようにある。職員室では広さが足りずに処理できないから、別室に書類を持って行って仕分けを行う。書類の中には始業式に配るものもあり、プライバシーに関することもあるからそれらの書類を封筒に入れるのだが、うっかり間違ったりすると大変な問題になるため、いちいち確認をしながら進めなければならない。こうした仕分けだけでも小一時間、場合によってはもっとかかる場合もある。サクサクと進んだ場合でも午後3時を回っていること間違いなし、である。 

  

職員室に戻るとホッとする間もなく、「書く」方の書類に取りかかなければならない。新年度は書類ラッシュで、しかも締め切りが間近だ。ひどいものだと4月2日締め切りというものもある。5日締め切り7日締め切りの書類が多数あり、管理職や主任によっては早く出せとうるさいものもあり、どう書いていいのかも良く分からないが、誰かが教えてくれるわけでもなく自分から「これ、どう書けばいいんですか」と聞かなければならない。これは周囲が意地悪をしているのではなく、皆自分のことに精いっぱいなだけなのだ。 

書類もそうだが、時間割の学年内割り振りは4月1日か2日に決めなければならない。図工や音楽室、体育館などの使用割り当ては決まっているから、そこは図工・音楽・体育となる。あとは担任のやりやすいように配置していくのだが、それを自分で考えろというのは新採には酷である。ベテランで親切な学年主任は「こうするといいよ」というアドバイスをしてくれるが、学年主任が若くて経験が浅いとかベテランでも能力的に問題がある人も多く、自分のことで手いっぱいで「自分で考えて」と突き放されることも多々あるのが実状だ。時間割を急ぐのは特別支援との兼ね合いがあるからだ。いち早く時間割のたたき台を出して特別支援との調整を図らなければ、特別支援の通級とか取り出しとかに支障が出てしまう。 

  

こうして教員の4月1日が過ぎていく。新採には1分たりとも研修の時間はなく、いきなり渦の中に放り込まれる。 

これが4月2日4月3日・・・と続いていき、4月6日には担任として子どもたちの前に立つ。 

 

研修を一度も受けないまま、担任を任される。こういうことをもう何十年もやっている。

そしてその何十年もの間に教師のやることは、高度プロフェッショナルしかできないような精密で完璧さを要求されるようになり、その仕事かずんずんと積み重なり、難しいお子様や対応困難な保護者様は増え続けている。

これで教育制度がおかしくならないはずがない。

そして致命的なことに、政治家たちは誰もこの問題には目を向けず、高校の授業の無償化だの給食の補助金だの、そんなことばかりに力を入れている。 

 

今年の新規採用者の初任者研修が始まるのは、4月10日からだそうである。 始業式は4月6日である。

 各地でチーム担任制(学年担任制)が進んでいる。26年度からこの方法を採るという地域も多いようである。すでにこの方法を採用している地域もあり、マスコミなどで好意的に取り上げられ、昨今の教育課題を一気に解決する切り札的に誤解されているフシもある。 

 

チーム担任制とは簡単に言うと、複数の教員が協力して一つの学年を運営する制度である。

従来方式は、一つの学級に一人の担任がいて、児童の掌握や教科指導の大部分や生徒指導上の問題解決を行っていた。それを3人なり4人なりの人数で行うことにしよう、というものである。 

 

これの導入のメリットとして、次のような点が保護者向けに宣伝されている。 

・複数の教員が児童を理解することにより、児童の小さな変化に気づきやすくなる。 

・情報共有を行うことで、トラブルやいじめの問題にもより早く丁寧な対応が可能となる。 

・複数の教師が指導に関わることにより、子どもたちにとって学びの幅が広がる。 

・教員の誰か出張や研修で不在の場合でも、学年チームで授業や指導を継続できる。 

 

デメリットについては保護者向けに説明されることはほぼない。これがこんにちの教育問題解決につながると思うとしたらそれは大きな誤解である。 

 

ここではどうしてこの「チーム担任制」「学年担任制」が問題なのかを考えていくことにする。 

そもそもの疑問として、なぜ担任ではなくチーム担任なのか。そこを考えてみる必要がある。 

 

例えば標準的な学校を考えてみよう。その学校は各学年3クラスだとしよう。

ある学年にABCの担任がいる。Aはまだ2年目の新人で、Bは30代後半で学年主任だ。Cは60代の再任用である。

担任としての力量は、Bはそこそこクラスをまとめ上げる力を持っているが、Aはまだ「若さ」という点以外に魅力はなく、子どもにため口で話しかけられ、あだ名で呼ばれている。Cのクラスは毎年学級が崩壊している。どこの学年も似たり寄ったりの編成だ。崩壊したらすさまじいことになってしまう高学年に比較的指導力のある教師を集め、低中学年には新人や若手、再任用や退職間際の教員を配置する。そうするしかないほど、学校は人員不足に陥っている。 

 

こういう編成だと、必ずどこかの学年が荒れる。C先生のクラスはいつも荒れるということが分かっているが、新採や若手のクラスが爆発することもあるし、途中で心が折れてしまって病休に入ってしまうことも往々にしてある。今やクラスが荒れていない学校を見つける方が困難なぐらい、公立小学校の中はカオスになっている。 

 

必ず荒れると分かっている教員にクラスを持たせることはできない。また、過去に精神的な理由で病休を取った教員も何かあれば簡単に心が折れてしまう。だからといってその人たちを担任から外せるほど学校は人材豊富ではなく、ギリギリの人数でやっているわけだから、どこかしらに入れるしかないのだ。 

 

こうして「チーム担任制」は考案された。要するに「必ず荒れるC先生のクラス」「もしかすると舐めた態度の子どもたちでクラスが危なくなるかもしれないA先生のクラス」にB先生がずかずかと入って行って手厳しく指導できるような制度として考案されたわけである。 

 

この仕組みは、教員が余っている状態だったらうまく機能するかもしれない。3クラスの学年にあと+2人でも教員がいれば、うまく運営できる可能性はある。しかしそれだったら必ず崩壊に導くC先生や学級経営がうまくできそうもない人も、心の病で配慮が必要な人も担任から外してサブとして回せばいいだけの話になる。人が余っていないから「チームで」と言う誤魔化しをすることになるのだ。 

 

「チーム担任」と言ってみたところで、それぞれのクラスには30数名の子どもが居る。クラスは壁とドアで物理的に区切られている。B先生に指導力があるからと言って、B組に70人ぐらいの子どもを送り込むということは物理的にできない。それぞれのクラスで授業をするしかない。子どもの顔や名前を覚えるのはもちろんのこと、性格とか特性とかを理解するには一定時間が必要だから、初めの一定期間はそれぞれの先生がそれぞれのクラスで授業を進めたり生活指導を行なわなければならないだろう。するといろんな困ったことが起きてくる。例えば当番活動は、掃除のやり方とか給食のやり方とか、そういう当番のやり方を統一しなければならないのだが、必ず学級差というものが出てくるのだ。 

 

給食などは子どもの本性が現れる場だから、盛り付けの仕方とかおかわりルールとかを徹底しなければならない。

子どもの不公平感や不満は、まず給食から現れるものなのである。そしてこれを全クラスで統一するのは容易ではない。4月1日にチーム担任制がスタートし、給食のスタートが4月8日だとすると、話し合って準備する時間はほとんどない。あとになってからルールを変更する羽目になる。これは必ずと言っていいほど子供の不満の原因となる。 

 

給食ひとつとっても難しいが、授業の進め方となるともっと難しい。せいぜい進度を合わせるぐらいだろう。 

同じレシピを用意して指導を進めるにしても、子どもの反応の取り上げ方や説明の上手い下手の差はどうしてもある。1か月もすると、B>A>Cという力量の差は歴然としてくるだろう。2か月後にはC先生の教室はざわざわとしていつも立ち歩きがあり、子どもが教師の言うことを聞かないばかりか「うるせえんだよ」「知らねえよ」など、とても教育現場にふさわしくない言葉で会話をするようになる。 

 

この「チーム制」をどのように回すのか、教科ごとに交代していくのか、それとも教室をそれぞれが1か月交替で回っていくのだろうか。取り組みを行っている小学校では、「主たる教員=従来の担任」を教室に置き、必要に応じて他のクラスの授業や行事などに他の教員が入っていくという形のようである。 

 

どんなやり方をやるにしろ、これは崩壊学級の救済策であることには間違いないのだ。 

 

1か月ぐらいでローテーションを組む場合は、せっかく覚えた30数名の児童の顔と名前とそれぞれの特徴がリセットとなり、また次のクラスの30数名をはじめから覚えなければならない。全部覚えたころにまた次・・・・となってしまって、初めのクラスの子どもの特徴どころか顔と名前が一致しなくなってしまう。人間の記憶力などその程度のもので、特別記憶力の良い教員なら別だろうが、普通の先生の記憶はその程度である。

すると、児童理解は深まるどころか浅いものになってしまって、小さな変化に気づくどころか「誰誰と誰誰がケンカしてます」という通報に対しても「誰だっけ?」と顔も良く分からないまま対処しなければならなくなってしまう。水面下で行われるいじめに対する対応など、なおさら後手後手に回ってしまう。クラス数が4つも5つもあるとさらに一人一人の児童の特徴は分かりにくくなる。ローテーション方式はあまり有効には働かない。 

 

教科ごとに担任を変えていくのは難しい。教科数は、国語・社会・算数・理科・英語・図工・音楽・体育・家庭科・総合・道徳と12もある。図工と音楽は専科だとして10教科を3人で分けて教えるのは、ある単元ならできるかもしれないが、全部は無理である。人数が足りない。

例えばA先生が理科を受け持つとする。理科は週3時間だから3×3で9時間分の授業を受け持つことになる。これだけだと余裕があるように見えるから、国語とか算数を受け持つことになるかもしれない。するとA先生の負担分は24コマとなって、かなり忙しい状態となる。ところが理科という教科は厄介で、準備と片付けが大変である。例えば生物系の、アサガオの蕾の観察や受粉の実験を行う時は、相応の数を確保しなければならない。化学系の実験では、塩酸やアンモニアや炭酸などをあらかじめ3クラス分用意しておかなければならず、それの片付けまでを考えなければならない。この時間はバカにならず、1,2時間目に国語をやって3,4時間目に理科をやるなんて芸当はまずできない。朝早く学校にきて準備をしておき、3,4時間目に理科の授業を行って、教職を食べ終わったらすかさず片付けに行くか放課後に片付けをするしかない。理科担当の先生は地獄の忙しさになってしまう。

本来であれば理科専科が必要なのだが、全国的に配置されていない。裕福な自治体が自前で雇っているか、理科実験補助をつけているか、ぐらいである。そして理科のように器具の扱いや実験方法などについてそれなりの知識を持つ必要がある教科では、理科的に「ど素人」である先生が受け持つのは危険である。 

 

似たようなことは高学年の算数にも言える。難関私立受験組などは小難しい算数の問題を解いているから、学校の基本的な問題など退屈で仕方がない。意地が悪い児童は先生に難問を出したりして反応を見る、なんてこともやる。休み時間ぐらいに解けるように実力の持ち主が算数担当だったら良いが、残念ながら今の小学校教師の実力では、10人中9人までは解けないだろう。もっとも子どもの方もそれを分かっていて、学校の教師なんかどうせ大したことはないと小馬鹿にしているから、双方とも干渉しない、みたいな暗黙の棲み分けができている。下手にB先生が正義感を振りかざして、とっくに理解している算数の問題を教えられたとおりにやれ、と強制すれば、児童による反撃が始まるだろう。 

 

教科担任制もどきのようなことをやってみたとしても、A先生の授業は子どもが友達的な口のきき方をし、C先生の授業はやっぱり魅力に乏しくてだんだんと崩れていく。途中でクラスをシャッフルしようが教科担当をかえようが、2か月も経てば子供たちはもうどの先生がどうだということが分かってしまっているので、B先生の前ではおとなしくするだろうが、A>C先生の前では自由状態となる。 

 

仕方がないから基本は従来の一学級一担任の形にはしているが、A先生もB先生もCクラスに入ることができ、時には授業を交代する。みたいな形をとらざるを得ない。 

 

これでうまくいくかというと上手くいくはずがない。その程度のことは固定担任制の中でやっている。 

 

荒れているC先生のクラスには他の学年から応援や管理職も交替で入って指導に当たるが、誰が何を言っても「うるせえんだよ」「関係ねえだろ」「担任じゃねえくせによ」と毒づき、従おうとしない子供たちがそこかしこにいる。

C先生は授業を進めるが、紙飛行機が飛び、消しゴムバトルを行い、教室の後ろでトランプを始めている。制止すると「うるせえんだばばあ!」と怒鳴り声をあげ机を蹴倒し、暴れて教室内を走り回る。校長が「いうことを聞きなさい!」と言おうがケタケタ笑って無視し、さすがの校長もキレかけて児童の前に立ちふさがると児童は校長に顔を近づけ「くせぇぇぇんだよお、オメエは。あっちいけよ」と言い放つ始末である。

この実態を見てもなお「子供は善なる存在であり子どもは純粋である」と思える人は幸せだ。そう思っていられる人々を教育現場に積極的に採用し、荒れた学級を受け持ってもらえばいい。そうすれば学年担任制だのチーム担任制だのをしなくて済み、こんにちの教育問題は1/3ぐらいが解決する。 

 

つまり固定担任+αをしてみたところで、人がいないわけだから学年の人数で何とかするしかないわけだし、C教室に問題があるからとB先生とC先生が交替したところで今度はB組がCクラス化するだけの話である。あるいは、A組とB組はA先生が見て、C組にB先生とC先生が入って何とかするのだろうか。 

 

そしてあちこちでトラブルが起き、初めは「主たる担任」であるA先生やC先生が対応しているのだが、次第に何を言っても言うことを聞かなくなってくるのでB先生がクラスAもクラスCも対応しなければならなくなる。これは相当に辛い。トラブル対処だけでも相当疲弊するが、中には悪質なクレーマーもいて学校側に落ち度がないのに文句をつけてくるタイプの保護者もいる。保護者だけならまだしも、学校は地域とのつながりを大切にしろと文科省から言われているから、地域のいろいろなことも持ち込まれているのだ。そういうのを一手に引き受けて対処できる能力があるとすれば、それはもう教員なんかやらないでその能力に見合う待遇を用意してくれる別の職業を選んだほうが良い。 

 

この状態がその年だけならまだしも、次の年も、その次も、異動して別の学校に行っても同じシステムだと知ったとき、果たしてB先生は心が折れずにやっていけるのだろうか。体力も気力もある30代は乗り切れるかもしれない。しかし、40代を超えたあたりからどうにも精神がボロボロになっていき、ついには心がぽっきり折れて病休に入るか早く辞めてしまうか、とにかく教育現場から去ってしまうのである。若手は若手で、その大変さを目の当たりにし、自身の学級経営も困難化しあるいはCクラスのように大爆発を経験するともう教師などやっていられなくなる。他の道を探すとしたら、若いうちが良い。 

 

話は多少脱線してしまったが、つまり、まとめるとこうである。 

・チーム担任制(学年担任制)は、固定担任制が機能せずあちこちで崩壊し爆発したから導入された苦肉の策である。これまでの学校や学年体制は「チーム」ではなかったのだろうか。 

・チーム制にするには人手が必要だが、担任の人数はクラスの数しかいない。あるいはその担任の数すら不足している。正規教員の数が足りていない。チームを組むのに人数が足りないという矛盾はどうにもならない。 

・したがって、「この方法を採れば学校は良くなる」と思ったら大間違いで、期待は幻想に終わる。遅かれ早かれ、固定担任制と同じようなことが起きる。 

これは改革というより崩壊の始まり・・・いよいよ学校制度そのものが全体的に崩壊フェーズに入ったと見ることもできるのだが、その判断は読み手に委ねたい。 

辺野古で痛ましい事故が起きてしまった。

報道によると、これは「平和学習」の一環で、約270名の生徒をいくつかのグループに分け、辺野古には30数名の生徒たちがいて前半見学と後半見学のグループに分かれていたという。

記者会見などを通した報道を見ていくと、計画のずさんさと致命的な欠陥が見えてきている。

 

・「平和学習」と銘打っているが、政治的にかなり偏りがある見学である。

・教師の個人的つながりで見学コースが決まっている。

・生徒を乗せる船は小型(かなり貧弱に見える)で保険に入っていない。

・海の状態の危険性を確認していない。

・辺野古の引率教師は2名?誰も船に同乗していなかった。

 

この点だけ見ても、ありえないほど穴だらけの計画である。

まず、どういう意図で辺野古まで行っているのかという点だが、校長の説明は相当苦しい言い訳であった。平和について考えるときに基地反対の意見もあって、そこでは抗議活動も行われていることを知るにしても、わざわざ抗議に使われている船に乗せて海に出て行く必要があったのだろうか。しかもそれは教員と船長との個人的なつながりがあったからだという。ということは、計画を立てた教員には「基地反対」という思想的ベースがあって、だからこのコースを選定していたと考えられる。教員が基地の大佐あたりとも知り合いであり、基地の必要性について大佐から生徒たちにレクチャーがあり、その後ででは反対の人たちの視点から見てみましょう。というならまだ平和学習は機能しているが、一方的過ぎる視点からの見学は、生徒たちに基地反対の意見を書かせる誘導としての辺野古海上見学。そう言われても仕方がない事案である。

 

次に学校としての問題だが、これは恐らくだが、校長もあのような小さいボートでの見学と言うことを把握していなかったのだろう。転覆したボートを見た第一感は「これに8人も9人もの生徒を乗せて大丈夫なのだろうか」という危惧である。管理職がそう言う点を見過ごしていたとしたら大問題であるし、把握していなかったとしても重大な欠点である。高校の修学旅行という性質からも見学場所の見学コースの具体的な云々については個々の教師に委ねられていた可能性が高く、教師間も他の見学コースの状況まで把握できなかっただろう。下手をすると同僚であっても抗議船を使うことを知らなかったのかもしれない。管理職は全体像を把握して危険性をチェックする立場にあるが、惰性に流されたか例年通りで問題ないと思ったのか、何しろ船に保険がかかっていなかったことすら知らなかったわけだから、ずさんすぎる全体把握だったとしか言いようがない。学校側は責任を追及されて当然だろう。

 

さらにあり得ないのは、教員が誰も船に同乗していなかったことである。

同乗していたら転覆事故を防げたとかそういう問題ではなく、より危険度の高い場所に行くときには責任者である教員がその場所についていくのは常識と言うよりは職務上の義務であるはずだが、その義務を果たしていなかった、と言うことである。報道では辺野古にいた教員は2人と言うことになっているが、どういうわけか2人とも陸上にいたらしい。2船に分けて乗るのであれば、そこには少なくとも3人の教師を配置すべきであった。それそれの船に一人ずつ、陸上に一人、である。転覆事故は防げなかったかもしれないが、生徒が犠牲になることを防げた可能性はあった。教員が誰も同乗していないというのは、通常では考えにくく、非難されて当然だといえよう。

 

 

「教師の背中が最大の教材」「教師は新しい単元・教材を開発してほしい」

と昨年10月ごろに講演した中教審の委員がいた。

理念はそういう考え方もあるのかもしれない。しかし現実をもっと見るべきである。

この「平和学習」は、おそらくは総合学習で行われたのだろう。個々の教師のそれぞれの力量に任せた結果何が起きるのか、その典型例が今回の痛ましい事故なのだ。政治的思想に偏りがあったり、安全管理がずさんであったり、今回の事故以外にも「危ない」修学旅行とか総合学習とかは他にもあるだろう。

 

しかし中教審の委員にとっては今回の事故は自分たちの主張とは何の関係もなく、単なる一学校の問題にすぎないと切り離して考えるだろうから、次の学習指導要領では今以上に探究学習や学校の独自性を求めてくるに違いない。

 

理想だけ語ってあとは現場の力量任せ、それがいかに危険であるか、今回の事故は示している。

 

 

 

福島県のある市で、卒業祝いに出すはずの赤飯2100人分が廃棄されたというニュースがあった。

廃棄の原因は1件のクレーム電話で、「震災の日に赤飯を出すのはいかがなものか」という内容だったようだ。ただ、常軌を逸したクレームではなく、常識の範囲内での応答で「来年からは気を付けてください」程度で済んだという報道もある。そこからいったいどうして全廃棄に至ったのか、全くの謎である。

市長が会見を開いていたが、説明の責任穂果たすべきなのは教育長であろう。

驚くことに、この教育長は文科省の食育推進課の課長補佐だったという。いわゆる「天下り」かと思いきや、別の報道によるとどうやら「出向」らしく、今月末で文科省に戻るのだという。

立場が立場だけに、この廃棄の問題は重い。2100人分の赤飯のためにどれほどの人たちが働いているのか、この米高騰の折、どれだけの予算がかけられているのかを教える立場だったはずだ。そして市内の赤飯全廃棄ということは、課長や部長のレベルで出来る話ではなく、教育長にまで話が回っていたことに疑いの余地はない。どうしてそこで廃棄の決断に至ったのか。いったい、文科省の食育推進課ではどんな仕事をやってきたのだろうか。こんな人物が文科省に戻り、次はどんなことを「やらかす」のか、はなはだ不安である。

 

そういえば先週だったか、文科大臣が不倫の件で報道され「家庭内で話はついた」「仕事で返す」と弁明してシレっとしていたというニュースもあった。

これが下っ端の教員の不倫だと「信用失墜行為」としてたちまち懲戒免職処分となる。懲戒処分は基本的に公開されるから、全国ニュースとなって教員の人生は終わる。

どうしてトップである大臣の不倫は許されるのだろう。

 

偉くなればなるほど責任を負わないという、不思議の国ニッポンの教育の迷走は今後も続く。

ここに通達文書がある。

我慢して少しだけ読んでみてほしい。

 

新しい学習指導要領を見据えた評価とCBTの活用 

新しい学習指導要領では、子どもたちに求められる資質・能力を育成するために「何をどれだけ学んだか」ではなく、「どのように学び、なにができるようになったか」をとらえる評価への転換が求められている。 

また、ICT環境の整備が進む中でCBT(Comouter Based Testing)は、学習状況を多面的・継続的に把握し、指導改善につなげるための有効な手段として位置づけられている。 (中略・・・同じことを繰り返している)

 

小学校では、学習評価を次の3点で行う。 

①知識・技能 

基礎的・基本的な知識や技能を理解し、身につけているかどうかを評価する。単なる暗記にとどまらず、学習した内容を適切に使えるかどうかという視点が重要である。 

②思考・判断・表現 

身につけた知識や技能を活用して、どのように考え、判断し、表現しているかを評価する。正解・不正解だけではなく、考え方の過程や表現の工夫に着目する。 

③主体的に学習に取り組む態度 

学習に向かう姿勢や意欲を、行動量や発言回数だけでとらえるのではなく、学習を調整しながら取り組んでいるかという観点から評価する。目標を意識して学習しているか、振り返りを次の学習に生かそうとしているかなどが重要な視点となる。 (中略・・・・またしても繰り返しがある)

 

CBTは評価のためだけに特別に行うのではなく、授業の流れの中に位置づけることが大切である。 

導入場面での理解状況の確認、学習途中での確認、授業後の振り返りなど、目的に応じて活用することで評価が指導改善に直結する。また、数値や正答率だけで終わらせず、結果をもとに「次の授業で何を工夫するのか」を考えることがCBT活用の要となる。 

 

こんな通達をもらったところで「だから何ですか」としか言いようがない。

内容のない、言葉の羅列しかないので、意味が分からないばかりか「またしても現場丸投げの新しいことをやるのか」と、だんだんと腹が立ってくる。

まずは「CBT」という言い方だが、そんなものを活用している余裕などどの教師にもない。多面的・継続的に活用?そんな時間がどこにあるというのだろうか。まずは圧倒的に時間が足りないという事実を無視している。そしてコンピュータを取り入れれば仕事の時間は圧縮するだろうという迷信がある。それはAIを活用させてくれれば、処理は少しは早くなるはずだ。だが、この通達をよこした役所が「AIは使っちゃダメ」と言っている。この激しい矛盾はどうしたことなのだろうか。CBTとAIは別物で、評価だけに特化したシステムのことを指しているのだろうか。今あるシステムはせいぜいエクセルの自動計算ぐらいで、AIによる所見作成は禁止されているから、教員たちはこっそりとスマホでAIを使って所見に活用している状態なのだ。それを「CBTを評価に活用しろ」とは上級国民だけに流行っている何かの冗談なのだろうか。

 

さて、そもそもの問題として「評価」とはいったい何なのだろうか。

一般的には「どのくらいの価値があるのか」「他と比べた位置づけ」「ある基準に基づいた判断」と理解されている。つまり、ある金属があるとして、それに価値があるのかないのか、金とか鉄とかと比べて希少性とかいろいろな価値判断をして、「この物体は高価である」という評価を下している。

あるいは、ある営業目標があって、それを超えた人たちは評価をされ、目標を下回った営業マンは評価されない。なんてことも社会では当然のように起きている。人ではなく会社の場合だと評価されない会社は倒産してしまう。

 

学校においても評価は歴然としていて、第1に全国学力テストの存在は圧倒的に大きい。ランク付けが大好きなマスコミに学力テストの結果というエサを与えることにより、「わが県は常に上位」と悠然と左うちわの自治体もあれば鬼の形相で首長が「何とかしろ」と教委の尻を叩く自治体もある。「G7」と呼ばれる学力低辺校に学力向上スタッフを送り込み、学校経営から授業からすべてに干渉していく実態がある。それを回避するためにドリルの時間や7時間目を設け、過去問を何回もやり、SP表を分析してプリントにプリントを重ね。なんとかG7を回避しようとする現場の悲惨な努力も以前の記事で触れた。

そんな過度な競争を生んでいるのが学力テストによる「評価」なわけだが、近年ではこれに体力テストの都道府県別順位も公表されて各地のニュースで報道されるようになってきている。学力テストも体力テストも「結果」しか見ていないわけだが、文科省の偉い人たちがそんなマスコミ報道に猛抗議をしたという話は全く聞かない。

 

学校における「評価」は、建前の上では「学習のプロセス」とか「努力も加味して」とか「学習改善のための情報」とか言われているが、だったら文科省はもっと報道の在り方に苦言を呈するべきであるし、都道府県別の点数とか順位付けとか、そんな発表は一切やめるべきである。

 

「学習を多面的にとらえ」「次の指導に生かす」「単なる暗記ではない」「正解・不正解だけではない」と言いながら、結局はテストをやってその結果を成績に反映させるわけだし、社会のように暗記の塊のような教科もある。だいたい、テストの結果を次の学習に生かす時間などなく、次から次へと洪水のように押し寄せる「教えなけれぎならない内容」に押し流されて、立ち止まっている時間的余裕などこれっぽっちも無い。

だから通達の前文だけ読んで「何言ってんの?」「意味不明」「またこんな絵空事ごとを」と思って、その下はもう読まないか、目に写っていてもそれは意味のある言語として心の中には入って行かず、単なる奇妙な記号の羅列にしか見えない虚ろな教員は多いのである。

 

この通達は、従来の「関心意欲態度」の評価が失敗であったことを「失敗していない」と強弁するための補強材にすぎないのである。

 

関心意欲態度を評価の筆頭に挙げたのは、明らかな大失敗だった。

子どもの内面まで踏み込み、学習態度とか挙手の回数とか提出物の体裁とかありとあらゆることを評価の対象にしたために、学校はひどく住みづらい場所になった。中学生の不登校が増えたのは、関心意欲態度が内申点に直結し進学にも強い影響力を持つようになったからだと言われている。それがすべての原因ではないにしろ、強い同調圧力が働くようになって学校が生きづらい場所になっていることは確かだ。

 

不登校の多大な原因になっているかどうかの証明は難しいが、どっちにしろ関心意欲態度の評価は教師の主観に左右されるような、危ない評価であることは明白だ。だから文科省もそれを前面に押し出すことはやめたわけだが、それでも「失敗していない」というポーズを続けるために「暗記だけじゃダメだ、適切に使えるのか」とか「考え方の過程や表現の工夫」とか「学習を調整しながら取り組んでいるか」などという、たわごとを連発している。

 

これが戯言でなくていったい何なのだろうか。

 

知識を「適切に使う」とは何なのだろうか。「適切」かどうかを判断するのは誰なのだろう。どういう基準で判断するのだろうか。

「考えの過程」はどうやって知るのだろうか。それこそ子ども一人一人に電極が付いたヘルメットでもかぶせて、AIに分析させるのだろうか。

「学習を調整しながら」のくだりに至っては、よくぞこんな言葉を使うものだ、とあきれ果て、ある意味感心してしまう。典型的な役人言葉で、この言葉に意味はほとんどない。「学習を調整する」って何?なにをどうすることが「調整」なの?基準はどこにあって誰が判断するの?

 

余りにもバカバカしいので、大概の教師はこの手の通達を真剣には読まない。

だが、「上」はそうではない。「指導課発第〇号の通達で、かくかくしかじかの内容を伝達しましたよね」と一方的に圧力をかけ、「知らない」「読んでいない」とは言わせないのである。不勉強教師はブラックリストに乗り、へまをすればすぐに処分が待っている。

 

若者の皆さん、教員世界というのはこのようなものです。

それでも教師になりたいですか?

AI時代の教育を語る前に、まず現状を見ておく必要がある。

小学校では生成AIはほぼ利用できず、端末には強いフィルタリングがかかり、「プロンプト」という概念すら知らないまま卒業する児童が大半である。

各学年ごとの達成目標もない。指導の系統性もない。教員のスキルはバラバラで、学校現場はICTに異様なまでに制限をかけているから、そのスキルは民間会社に比べてかなり低い。

研修は操作説明レベルにとどまり、民間企業とのスキル格差は年々拡大している。 児童生徒のAIに触れる機会は家庭かAI関連塾に限られ、公教育はAIリテラシーの入口すら提供できていない。 

 

一方、中教審は「2030年にAIとの共生を再設計」と掲げているが、AI技術はすでにその予測を凌駕している。

「AIとの共生を云々」は、2020年の学習指導要領で打ち出すべき内容だったが、答申の取りまとめが2016年ではAIの急な進化は予測できず、22年末の生成Ai登場の対応は後手後手に回った。

政策の時間軸がAIの進化速度に追いつかず、制度・教員・環境のすべてがAI前提社会のスピードから取り残されているという現実がある。

同じことが次の学習指導要領でも確実に起こる。 

 

現場の現状は、AI教育のイロハさえ存在せず、ただタブレットを与えて限られた範囲でネットで調べ物をするか、算数や国語のタブレットの中の既成のドリルをやるか、ゲームをやるか、閲覧できる面白そうなサイトを見て遊ぶか、そんな使い方しかしていない。ICTでなくても紙で出来ることばかりやっている。 

 

そんな現状の中で急進化を遂げているAI技術について「2030年にAIとの学びの再設計」といったところですでにその概念は陳腐化し、さらに時代は進んでいる可能性の方が高い。そのうちAGIが登場するだろうから、時代遅れの有識者が意見を述べて現場を混乱させるのではなく、AGIに委ねてしまったほうが良い。AGIは恐らく、現状に即した適切で合理的な解決方法をただちに提案してくれるだろう。 

 

★生成AIについて(この部分は生成AIが作っています)

 

現在社会で使われているAIは「ANI(特化型AI)」と呼ばれ、特定の分野に強いタイプである。すでに日常会話だけでなく、医療・法律・教育など専門的な内容にも対応でき、画像や動画の生成も可能である。そのためフェイク画像・フェイク動画の問題が社会課題になっている。 

次の段階が「AGI(汎用AI)」で、人間のように複数分野を横断して学習・判断・問題解決ができるタイプである。

現在のスピーカー型AIとは全く異なり、個人の性格や好みに合わせて生活・仕事・学習を最適化し、自律的に判断して行動する。独居高齢者の対話相手として期待されるだけでなく、教育では一人ひとりに合わせた「個別最適化学習」を実現し、不登校問題の解決にもつながると考えられている。2030年代には一家に一台の必需品になる可能性が高い。 

 

さらにその上に「ASI(超知能)」があり、人間の理解を超える知能を持つとされる。シンギュラリティ(技術的特異点)はこの段階に対応すると考えられているが、到来時期は2045年より早くなるという説もあればもっとずっと遅くなるという研究者もおり、諸説ある。

AIを危険視し、恐れる向きもあるが、映画「ターミネーター」のようにAIそのものが人類を滅ぼすというより、国家間のAI軍拡競争や悪意ある利用によって危険が生じる可能性が指摘されている。 

ANI(特化型AI)は2022年末の生成AI公開をきっかけに一気に普及し、現在ではスマホやPCに標準搭載されている。次の段階であるAGI(汎用AI)は、早ければ2027〜2028年に登場すると予測されており、2030年代前半には生活や仕事の基盤となると考えられている。  

 

AGIが汎用化し、OSに標準搭載され、家庭に一台どころか一人一台が当たり前になると、社会は大きく変わる。仕事の自動化や専門職との協働が進むのはもちろんだが、個人レベルでも大きな変化が起きる。 

 

最も身近な変化は「家族がもう一人増える」ことである。AGIは家族の考え方や嗜好、癖や性格を学習し、その時々に最適な会話や沈黙を選ぶ。まるでそこにもう一人の人間がいるような錯覚さえ覚えるだろう。この存在は特に独居老人には福音となり、見守りや孤独の軽減はもちろん、認知症の兆候を察知する役割も期待されている。どれだけ同じ話を繰り返しても嫌がられることはなく、AIはストレスを感じることもなく、とことん付き合ってくれる。 

 

独居老人だけではない。子育て世代にとってもAGIは有望である。スマホで子どもをあやす親はすでに多いが、AGIは子どもの発達段階に合わせた刺激を考え出し、教育的効果のある関わりを提供するだろう。 

これはほんの一例にすぎず、あらゆる世代がAGIの恩恵を受けるようになる。人は「自分の外側にもう一つの頭脳と人格を持つ」時代に入るのである。 

 

★(ここからは人間が書いています)

さて、そこで学校教育ではどういうことが起きてくるのかを考えてみよう。 

まず、学校に入る前に既にAGIが家庭にあるとしたら、その時点で子供に沿った教育カリキュラムを作ることができるはずだ。つまり「個別最適化」=自分専用の教育カリキュラムである。 

 

保育園ですでに小学2年の算数の教科書を終えてしまった子が、どうして数のブロックから学びなおさなければならないのだろうか。しかも学校では45分間椅子に座って。AGIなら「タロウさんは数の順番も足し算の繰上りも引き算の繰り下がりも全部仕組みまで理解しているから、掛け算の意味から勉強していきましょう」とかその子の進み具合に合った次の学習を提案でき、適切な学習問題を設定し、タロウさんの思考が深まるような適切な支援を行い、練習問題も提示して確実にタロウさんに掛け算の意味を教えられるだろう。 

 

不登校の子どもにも、AGIの登場は福音をもたらすだろう。学級内の具体的な暴力からの逃避による不登校から、学校に行けない、何となくもやっとした気持ちに至るまで、子どもの心情を理解し、寄り添い、心を癒してくれることだろう。さらに学習を支援し、やる気を引き出し、適合するフリースクールまで探すようなことまでできるだろう。今現在よりずっと教育コンテンツはネット上で充実し、その道の一流の先生によるネット配信とかバーチャル先生による授業とかが選べるようになり、家庭に居ながらでも学習できるような環境になってもおかしくはない。今現在高校や予備校や大学で行われていることが、これからは不登校の児童生徒への救済策として小中学校に降りてくる。現実としてかなりあり得る話である。 

 

しかしそうすると、学校としては困ったことが起きてしまう。 

 

例えば、1年生で考えてみよう。

最初に登場したタロウさんは、九九の学習に入っても問題はないぐらい学習が進んでいる。しかしジロウさんは足し算でまだ指を使っている。カヨさんは繰り下がりの引き算のところでつまずいている。ハナヨさんはタロウさんどころか簡単な1次方程式までできるようになっていて、教科書が退屈でたまらないが我慢して座っている。 

 

こうした様々な理解の子どもが教室には集まっているが、教科書は全員が1年生の教科書を使い、1時間で教える内容は決まっている。繰り下がりの引き算では理解度に関わらず全員がブロックを取り出して引き算の操作をする。教科書を逸脱してはいけない。1年生に方程式など論外である。他ならぬ文科省がそういうルールを作った。 

 

これが現在の姿である。 

 

AGIの時代になるとタロウさんは掛け算の意味を学習し、ジロウさんは足し算の練習を頑張り、カヨさんは繰り下がりのやり方をAGIとやり取りしながら覚えていき、ハナヨさんは1次方程式の練習を思う存分学習できる。 

 

さて、このような「個別最適化」が行われたら、教室に集まる意味があるのだろうか? 

 

一人ずつブースを与えてそこで学習するか、似たり寄ったりの進度の子を集めるのか、それにしても一人に一つのAGIが付くのなら、学校に集めることにあまり意味はないのではないだろうか。もっと極端に考えると、学校に行く必要があるのだろうか?という話になってくる。 

 

何しろAGIは恐らく人間の教師よりもより一人一人の児童生徒の特性と学習進度と理解度を分かっていて、しかもどういう精神状態かまでを分析して、適切な対応を提示するだろう。大人がそのAGIの指示に従って子どもにあれこれとアドバイスを行うとしたら、その大人は「教師」である必要があるのだろうか。 

 

わざわざ学校に集めて教室の中に30数人も入れて、課題はAGIに従って別々のことをやる必要があるのだろうか?小規模塾程度の学習スペースに、同じ進度の子どもが集まって学習を進めるほうがより「個別最適化」だろうし「深い探求学習」もできるようになるのではないだろうか。 

 

つまり、AGIの時代になると、学校で授業を受ける意味はほとんどなくなってしまうのだ。 

 

音楽や図工は音楽教室や絵画教室・陶芸教室に行けば良いし、体育はスポーツ系の各種教室やクラブが充実している。

英語に至っては、学校で訳の分からないダンスをやるより、きちんとした英語教室に通ったほうがよほど効果がある。それ以前に、AGIの本格利用により、わざわざ学ばなくても意思疎通ができる可能性もあって、今現在のスマホを通じた会話よりもっとスムーズで普通の会話レベルで英語に限らず異言語の意思疎通ができるようになる確率は高い。

道徳系の学習はAGiがSST(ソーシャルスキルトレーニング)を提案してくれるだろうし、倫理的・哲学的にも深い学習ができることだろう。

多様な体験を望むならAGIに各地で行っている参加型体験活動やワークショップを探してもらって、そこに行って体験をすれば「その道のプロに、リアルに」教わることができる。行事についても同じことが言える。季節の行事に興味があるのであれば、あるいは興味を持ってほしいのであれば、全国各地の季節行事選んで参加させればいい。 

 

予算の方は、何しろ子ども家庭庁に毎年7.2兆円もつぎ込んでいるわけだから、その中から相当額を割り振ればいいだろう。また、学校の教育活動を縮小し、施設設備費人件費を大幅に減らせば、そこから捻出出来るだろう。 

 

そうはいっても、学校の大きな役割として、授業を受けるほかに社会性を学んだり、よりよい人間関係を築いたり、人格が健全に育っていくことが挙げられる、と主張する人々は一定割合で居る。 

 

しかし、それはどうだろうか。 

 

不登校の人数は小中だけで約35万人もいる。学校内の暴力は、報告されているだけで12万件もある。いじめに至っては、72万件も報告され、いじめ防止法が出来ようがマスコミがどんなに騒ごうが、一向に減らないどころか増加する一方だ。子どもの数は減っているというのに。そして教える教師側の精神疾患は、分かっているだけで1.3万人もいて、実際にはもっと多くの心を病んでいる先生がいる。 

 

つまり、学級が崩壊し、教師がいくら制止しても収まらない暴力やいじめが全国的に蔓延しているのである。

授業中平気で歩き回って自由にふるまい、まじめに学習している子の頭を叩いて回り、紙飛行機が舞い消しゴムが飛び交う、そんな教室内で「より良い人間関係を築く」「健全な精神と社会性を育む」と言っていられるのは、外部の責任のない立場の人たちだけだ。そんな荒れた学校に、誰が大切なわが子を預けようと思うのだろう。

学校は、子どもを安心して預けられる場所になっているのだろうか。そういう教育制度だから、仕方がないから、共働きで子供がそこしか行くところが無いから、多少の不安があっても学校に行かせる。そういう親が多いのではないだろうか。もしかすると次にいじめられるのは我が子ではないか、乱暴な子のとばっちりを受けないだろうか、そんな不安は恐らくどの親も抱えている。 

 

AGIの時代になり、家庭で安全に、しかも高度に個別最適化された学びが可能になったとき、そして学校が今よりさらに無秩序で暴力やいじめの制御ができない場所になってしまうとき(その可能性は高い)、それでもなお子供を学校に通わせる理由がどこかにあるのだろうか。 

近年、日本の学校教育は GIGA スクール構想を契機として、ICT 活用を「補助的手段」から「前提条件」へと位置づける段階に入った。今年の中教審答申にその文言が入るだろう。

「手段」から「前提」?それはいったい何なのだろうか。かつて「指導」と「支援」で大混乱を起こしたのと同じ混乱が起きないだろうか。いったい何をどうすれば「前提」となるのだろうか。

 

しかし今回はそこを深堀していくのではなく、ICTが教員を壊していく実態について焦点を当てていきたい。 

 

1.教員の精神疾患による病休・長期休職は増加傾向にある。 

文部科学省の調査によれば、教員が精神疾患で病休に至る主な理由は、 

「難しい児童生徒への対応」

「教員間の人間関係」

「保護者のクレーム対応」

「業務の膨大化」 

の四つが中心である。これらは ICT 導入以前から存在する構造的ストレス要因であり、すでに現場は限界に近い負荷を抱えている。 

 

2.IT業界の精神疾患率の高さ

厚生労働省および複数の学術研究によれば、精神疾患による病休率は産業別に見ると、 

1位:情報通信業(IT)  2位:教育・学習支援業 

という構造が近年ずっと安定して観測されている。 

IT 業界は技術変化の速さ・納期プレッシャー・責任の重さがストレス要因として知られている。

教育はそれに次ぐ高さであり、人間相手で逃げ場がないという特性を持つ点で、むしろ IT より重い側面すらある。 

 

3.文科省発表の数字は、氷山の一角 

文科省統計が扱う病休率は、「3か月以上の長期病休」「1か月以上の病休」に限定されており、さらに分母は全教員に拡大されているから、これは「公的に記録される最低ライン」にすぎない。 

実際には、「1か月未満の短期メンタル病休」「早期退職(精神的理由)」「病休に至らない隠れメンタル不調」「小中学校に集中する高負荷層」が統計に含まれていない。小中学校に限定すると、担任制・部活動・保護者対応が重なり、病休率は全体平均の1.5〜2倍に跳ね上がると推定される。 

 

具体的な数字を挙げると1か月以上の病休者は1.3万人強で、これは全教員の1.44%だとされている。しかしこの数字の分母は「全教員」となっているから、特に小中学校の担任に限ってみていけば、おそらくは限りなくIT産業の病休者に近いか、すでにそれを超えているかもしれない。数字だけで考えてみても、公立学校はハイリスクな産業なのである。 

 

また、現在の教員不足は、団塊世代の大量退職期(2000年代後半〜2010年代前半)を上回る規模で早期退職が発生しており、自治体によっては 団塊期の1.5倍以上の早期退職 が確認されている。 

 

これは、教育産業が構造的に「人を壊す産業」へと変質していることを示している。

人を育てる産業でありながら、教える人が壊れていくこの構造は、何とも皮肉である。 

  

4.ICTでは精神疾患が緩和しない学校文化 

直近の研究では、教員の ICT 活用不安が抑うつ傾向と有意に関連し、ICT 不安が強い教員は抑うつハイリスク群に入る確率が約2倍に上昇することが示されている。 

 

ICT 不安を緩和する要因として、「同僚への信頼感」「職能成長感」が挙げられている。 

しかし、日本の学校現場では、これらの緩和要因は 構造的に成立しにくい。 

なぜなら、教員の病休理由の上位に、「難しい児童生徒への対応」「教員間の人間関係」「保護者のクレーム対応」「業務の膨大化」が並んでおり、特に「教員間の人間関係」は常に上位に位置するからである。

つまり、ICT 不安を緩和するはずの「同僚信頼」や「職能成長感」は、仕事の押し付けやできないことへの非難などで否定され、現実の学校文化では緩和要因はむしろ欠如しているか、逆にストレス源となっている。 

そのため、ICT 導入は不安を緩和し業務を簡略化するどころか、「人間関係の摩擦を生む」「ICT 格差による対立が起きる」「若手(ICTが得意な人)への過剰依存が起きる」「ベテラン層はICT前提授業に対して懐疑的になる」「管理職や指導主事からの「ICT前提」圧力が高まり、それが余計ストレスになる」といった構造的問題を増幅し、ICT 不安 × 人間関係ストレス という複合的な抑うつリスクを生むだろう。  

 

つまり、ICT 導入は本来「効率化」を目的とするが、現場では逆の現象が起きるのだ。 

 

5.業務負荷の増殖する学校文化 

ICTが前提となったところで、学校の紙文化は消えるのだろうか。それは決してない。

海外ではデジタルから紙に回帰しているほど、紙媒体での学習は重要なのだ。しかし、上からは「デジタルを前提にせよ」という圧力がかかる。

この結果、

「紙+デジタルの二重運用」

「システム更新のたびに研修・設定・トラブル対応」

「児童生徒の端末トラブルの処理」

「家庭の ICT 格差への補填」

「保護者からの問い合わせ増加」

これらは従来業務に「上乗せ」される形で発生し、何も削減されないまま負荷だけが増える。

今現在でさえそうなのだ。

キーボードに糊を垂らして喜んでいるとか、タブレットをテニスラケットの代わりにして遊んでいるとか、偉い人たちが思いつかない斬新な方法で子供たちは新しいタブレットの利用法を考え出し、学校はその対応に追われている。 

 

これが現場のリアルである。 

 

日本独自の学校文化である。

学校の外で子供がキーボードに糊をつけようがテニスラケットにして遊ぼうが、学校は関知しなければいい。一切を家庭の責任にすればいい。だか、そうはならない。なんでも抱え込んでしまう自己犠牲的精神文化が学校にはある。これが変わらない限り、教師が疲れて壊れていく構造は変わらない。 

 

日本の学校文化には、「子どものために」「頑張ればなんとかなる」「弱音を吐かない」という規範が強い。この規範意識は、これまでは日本の学校教育の強みであったが、もう限界を超えているのだ。 

 

6.ICT化が招くのは地獄か幸福か 

ICT 前提化というか教育のDX化は必然的にデータ化を伴うから、学習ログ・各種書類提出状況・授業実施状況・端末利用履歴などのデータと学力テストの点数がリンクされる。目標申告にも反映されるだろう。自治体によってはすでにやっているところもある。 

その結果、授業の裁量は縮小する。

実際、「自治体スタンダード」で授業することを強制され、外たことをすれば処分が待っているという地域もある。

数値目標のプレッシャー、失敗の可視化による不安は増大するだろう。

ここ数年で精神疾患者の数が尋常ではない増え方をしているのも、担任に数値目標を求め続けた結果だろう。 

 

次の学習指導要領では、IT 業界の KPI 管理型ストレス

(業績指標の運用によって過度のプレッシャーを感じ、モチベーションの低下や離職につながること)

が学校に出現する。それは今の時点でも起きているが、ICT化が進むにつれて加速していくはずである。 

 

こうしたことを考えていくと、ICT前提化が続けば、教員世界はどうなってしまうのだろうか。 

 

研究者によれば、病休率は現在の1.5〜2倍に達する可能性が高い。若手教員の早期離職はさらに増加し、教職希望者はさらに減る。小中学校の担任層が最も壊れやすいICT前提化は、IT業界的ストレス構造 × 教育特有の人間関係ストレスの掛け算を生む。これらが複合的に重なって、教育現場の人手不足は今よりもっと深刻化する。 

これは悲観ではなく、構造的に必然である。 

 

しかし、悲観的に考えるにはまだ早いかもしれない。 

現在開発中のAGI (定義は未確定だが自律的で自己進化ができるAI) が汎用化されれば、子ども一人一人に合った教育カリキュラムができるようになる。中教審や文科省が言う「個別最適化」が進化したAIによって達成される。もしかすると不登校問題の全面的な解決策になるかもしれない。そしてこれは遠い未来の話ではなく、ここ10年ぐらいに実現するのではないかと言われている。

もしAGIの時代になれば学校や教師の役割は劇的に変わるのだが、その点についてはまた別に考えることにしたい。 

 

選挙を来週に控え、あちこちで選挙カーが走り回っている。 

 

近年の選挙では、教育政策の中心に「無償化」が据えられるようになった。 保育園から高校までの教育費負担を軽減し、給食費や教材費まで支援の対象に含めるという政策を進めようとしている。これは少子化対策なのだろうか?子育て世帯にとって魅力的に映るだろうが、子育てとは無縁の人間には意味不明の政策だ。 

 

物価高が続く中で、教育費の負担軽減は即効性があり、政治的にも訴求力が高い。選挙戦で各党がこぞって無償化を前面に掲げるのは、ある意味で仕方がないことだと言える。

 

 しかし、その陰で静かに進行しているのが、学校制度の内側の崩壊である。 

 

 教育無償化は、言ってみれば「ばらまき」政策だ。

保育無償化、給食無償化、高校の授業料無償化。実現すればまことに結構だが恩恵を受けるのは子育て世帯だけであり、不公平である。 

 

一方で、教員不足はどうなっているのだろう。

「インクルーシブ教育の推進」という言葉は美しく聞こえるが、そのための人的資源をどうするかは語られない。

25年度の教員採用試験の倍率は過去最低で、ある県などは1.1倍しかなかったという。これでどうやって教員を確保するというのだろうか。 

 

特別支援教育の人員不足、ICT環境のアンバランスといった問題は、制度を支える基盤に関わる。政治の優先順位はその逆を向いている。 理由は単純だ。 無償化は票になるが、教員増強は票にならないからだ。 

 

 保育園の無償化が進み、待機児童の解消を叫んでみたところで、肝心の保育士がいなければ受け入れは増えない。かろうじて確保した保育士が粗暴でがさつで各地で不祥事が多発したら、大切なわが子を預けられるだろうか? 

 

公立小学校に進学する。

校舎はひび割れていて雨漏りがする。教室に行けば35人もの子供が一つの教室に押し込められている。

教室の中には外国から来たばかりで日本語が読めない書けない話せない子供が2割もいるが、予算が無いから通訳がいない。翻訳機は学校に1台しかない。担任は個人のスマホで対応したいと思っているが、不祥事防止の観点からスマホ持ち込みは厳禁で、教室でスマホを使っていることがばれると処分されてしまう。 

 

「インクルーシブ教育」とやらの美名のもと、授業中の立ち歩いて雄たけびを上げる子も、突然暴れだす子も、自閉気味でほかの子と一緒に行動できない子も、全部同じ教室にいて、指導する担任は一人しかいない。

その担任も特別支援については素人で、仕方がないから外国籍の子や発達障害の子は放置し、教師の言葉を理解できる子どもだけを相手に授業を進めている。 

そしてその担任でさえギリギリの人数で回しているので、担任が風邪とかインフルエンザで休むことになると授業はストップし、プリント学習しかできなくなる。長期の病欠となるとこれはもう悲劇で、授業が1か月進まないことすらある。 

 

しかしその「授業」と言っても紙媒体がタブレットに代わっただけで、子供によってはタブレットでずっと遊んでいたりするから、状況はICT機器導入前より悪くなっている。 

 

ICTに金をかけすぎて他の施設はボロのままだ。図書室は学校の隅に追いやられ、本はボロボロで司書は週2回の午前中しか来れない。1000人の子どもに対して新しい本は毎年50冊も買えない。 

 

文科省は25年度にはすべての小学校に理科専科を配置すると豪語していたが、その話は財務省の反対にあってどこかに消し飛んでしまった。

理科室にはいまだに昭和の遺物が転がっていて、廃棄するにも手間と人手が必要なので、ずっと放置されたままである。一人一実験など首都圏で人数過多の学校ではできるはずもなく、老朽化した理科室に集まって演示実験を見て、6人とか8人のグループごとに一つの実験をやってそれでやった気になって終わり、という情けなさである。

こんな状況では「科学立国ニッポン」の未来はとても暗いが、子育て支援のバラマキばかりやっているから、十分な予算配当が無いから、どうすることもできないのだ。 

 

近年では「探求型の学習を深めろ」という無理難題が文科省から学校現場に押し付けられているが、それを教える教員の質はずいぶんと低下している。 

 

小学校教員を養成する大学では、ついに偏差値が43を切るところまで出てきている。

偏差値で何もかもが分かるわけではないが、教員として明らかにコミュニケーション能力が欠けていたり、知識が不足であったり、致命的なことに倫理的・道徳的に問題がある学生生活を送っていたり、そういう若者が教育現場に採用される事態になってきている。

 

いろいろな背景がある個性的な子どもを抱え、多様なニーズに応えながら、膨れ上がる教育的要求に追われる教員は疲弊し、目の輝きを失い虚ろになっていく。 これは未来の話ではない。 すでに全国の学校で起きている「現在進行形の現実」である。 

 

2024年と25年の教員の精神疾患による病休者は7000人を超えた。

これは90日以上の長期病休者の数に限った数字である。90日に達しない病休者の数を入れたら、その数は7000人の倍ではすまないだろう。そして精神疾患寸前のメンタルに明らかに不調をきたしている教員の数まで含めると、それはとんでもない数字になるはずなのだ。 

 

つまり、どれだけ子育てに手厚くしようが、無償化にしようが、預け先の学校がこんな状態では意味が無いだろう、という話なのである。

「教育は国家百年の計」とか口先で言いながら、実は5年先も見ていないというのが過去の、いま現在の政治の在り方なのである。 

 

政治は子育て世代にばかり手厚い政策を掲げ、行政(文科省)はあれもこれもと学校現場に実現不能な教育を押し付け、司法は「授業の準備時間は5分」という到底考えられない判決を出して教員の人権を守ろうとせず、マスコミは学校の不祥事は嬉々として報道してきた。つまり4つの権力が寄ってたかってこの国の教育を散々叩きつづけ、ついに公教育は死に至ったのである。 

 

いま、公教育は、建物はあって制度としては続いているが、「ヒト」が、「人材」が、逃げ出してしまっている。

団塊の大量退職時代を終えたというのに、その大量退職時代の1.5倍もの教員が毎年教育現場から去っている。 

 

もう学校という建築物しか残っていない。

その現実が見えずに、右も左もいまだに選挙公約に荒唐無稽な教育政策を選挙公約として掲げ続けている。 

暴力動画の学校が保護者会を開き、その保護者会の録音データが流出して物議をかもしている。 

と言っても、その反応のほとんどが学校側の対応に批判的である。 

「遅い」「手ぬるい」「弱い」「頼りない」「どこか他人事」「信用できない」「不満」。 

こう感じるのは当然である。 

 

しかし、これは当該学校の問題ではなく、全国ほとんどの学校について言えることである。 

 

他ならぬ、文科省が長年にわたって規則規則でがんじがらめにしてそういう制度を作り、手ぬるい対応しかできない学校にしたからである。また、マスコミも一致団結して学校を叩き続け、「何もできない学校」を目指してネガティブキャンペーンを行ってきた。その結果がこんにちの状況である。 

 

体罰禁止は当然ではあるが、「相手が嫌がることは全部体罰」とする風潮があり、言葉の暴力や精神的苦痛まで全てが体罰とみなされ、処分の対象になった。暴力をふるう児童生徒を制止しようとして腕をつかむだけで「体罰だ」と子供が騒ぐ始末である。場合によっては保護者もそれに便乗し、学校側や教員を責め立てる。そんな風潮が蔓延している。体罰が良いというのではない。せめて暴力的な行為に対する有形力の行使を認めるとか、暴力行為を教師側が録画するとか、そんな権限が必要だった。だが、有形力の行使は、児童生徒が「暴力を振るわれた」と言い立てれば学校側の反証は難しいし、録画は個人情報の壁に遮られ、保護者の同意が無ければできない仕組みになっている。

 

暴力行為やいじめによる「出席停止」は、昨年度は日本全国でわずか5件なのだそうだ。

小学校で1件、中学校で4件だという。

暴力件数は、確か12万件を超えていた・・・高校も数に含まれているが、それにしても小中で5万件以上あることは確かだ・・・・にもかかわらず、出席停止は5件しかないというのだ。 

 

これは、「出席停止」という制度がほとんど機能していないことを如実に示している。

実際、性行不良による出席停止は、有名無実で、実質としては無意味である。

保護者の同意を得なければならないという点で、もう終わっている話である。

いったいこの制度は、どんな「保護者」を思い浮かべているのだろうか。両親とも良識があり、「うちの子がご迷惑をかけています。しばらく家庭で良く教え諭しますので」と言って頭を下げるような殊勝な両親だったら、そもそも暴力問題は起きない。

世の中には話が全く通じない、別世界の人間がいる(外国人という意味ではない)ことが前提になっていない。両親がともにそろっていて、家庭で子供をしっかり見てくれるものだという前提の上に「性行不良による出席停止」という制度がある。

そしてオラオラ系のヤンキー族にとっては出席停止など屁みたいなものだ。出席停止期間はせいぜい10日か長くて2週間程度、保護者はその間ずっと家にいなければならない。共働きが普通の現代に合っているとはとても思えない制度だ。

加害者を強制的に転校させるとかそういうことなど論外だし、そもそも受け入れ先が無い。被害者側が泣き寝入りし、やむなく転校を余儀なくされ、それで一件落着。学校制度はそのように作られている。 

 

今回の保護者会では、加害生徒についての質問も出たようだが、多くの人たちが歯がゆく思っているのは、加害生徒に対する対応が遅く、手ぬるいことだろう。そして加害者に関する情報はほとんどないという点。

これも、制度上どうにもならないのである。個人情報保護の観点から学校側が加害生徒たちの名前を口にすることはできないし、普段の行動はどうなのか、どんな指導をしたのか、どの程度踏み込んで指導できたのか、家庭では親がきちんと見ているのか、今後どうなるのか、具体的なことは何一つ言えない。言ってはいけない。と上から釘を刺されるわけだから、どうしようもない。

文句を言うならそんな仕組みを作った文科省に言ってくれ。と、当該校の校長は思ったことだろう。そして警察もそれはまた同じで、捜査状況や加害生徒に関する情報は、学校以上に外には漏らさない仕組みになっている。 

 

そういった加害者側を分厚く何重にも保護するシステムに業を煮やしている一般の人たちが「特定ゲーム」をし、加害者側の個人情報をネットに流し「私的刑罰」を行っているのではないだろうか。マスコミや行政上層部は「二次被害だ」とか騒ぐが、それは加害者に「自分たちも被害者だ」と思わせるだけで、ちっとも問題の解決策にはなっていない。 

本来は加害者がしでかしたことに見合う分の罰則措置や被害者救済の執行機関があってしかるべきだが、それを全部学校に押し付けた結果、学校は何もできずに機能不全に陥っている。

そんな状態を「代行」しているのがネット上の「私刑」なのだ。

決して健全なことではない。が、暴力加害者を罰する仕組みがない以上、いくら声高に「個人情報を載せるな」「二次被害を起こすな」と叫んだところで無駄である。今後も何か重大事案が起きるたびに、加害者は特定され、その情報はネットに晒されるだろう。 

 

学校はもはや安全安心な場所ではない。期待してもがっかりするだけだ。子どもを守ろうとするふりはするが、それは演技である。クビをかけてまでして体を張って児童生徒を守る教師はどこにもいない。それが今の学校の現実だ。

 

学校は、子どもに馬鹿にされ、保護者からは批判され、文科省からの締め付けは厳しく、マスコミからは袋叩きの憂き目にあい、にっちもさっちも行かなくなっている。

教員という仕事は、もはや社会の最下層の立ち位置になってきている。