「箱詰め一斉授業」のまま、看板だけを掛け替える学校教育
1 「個別最適」という言葉への違和感
ここ数年、「個別最適な学び」という言葉が教育界を席巻している。
文部科学省の答申も、都道府県教委からの通知も、校長会で配られる文書も、この言葉であふれている。昨年度末から今年度初めに配布された通知や校内で作られた説明文書の中にも、当然のように「個別最適な学びの推進」が書かれていた。 この夏の中教審答申にも強烈に取り入れられる予定である。
個別最適化?これはどういう意味で使われているのだろうか。
一人一人の性格や能力や理解の度合いは違っており、また興味関心の方向性も同じではないから、一人一人のニーズに合わせた学習環境を作り、指導に反映させていこう。
という意味で語られているなら、それはもう大本営発表に匹敵する大嘘である。
2 30数人を「箱」に詰めておきながら
まず、前提条件から率直に確認したい。
現在の小学校の多くは、一クラス30人~35人前後で編成されている。
子どもたちは「教室」という箱の中に詰め込まれる。
チャイムの音によって時間を区切られる。
決められた時刻になると一斉に机に向かい、椅子に座ることを求められる。鞄の入れ方、水筒の置き場所、机の中への道具の入れ方、筆箱の中身など多岐にわたって統一される。
別に統一することが悪いと言っているのではない。30数人も一つの空間に詰め込んだら、いろんなことを統制しないと、あっという間に集団は好き勝手なことをやり始め、崩壊してしまう。
しかし、ここから先はどうだろうか。
授業は基本的に、学年ごとに定められた学習指導要領の内容と進度に従って進む。
九九をすでに覚えている子も、数の概念がまだ十分でない子も、同じペースで「5まで数える」「6を1と5に分ける」「引き算はサクランボ算で」といった活動を一緒に行う。数字を書くことをとっくに身についている子も、鉛筆を持って線を引くこと自体に苦労している子も、同じプリントに同じ文字を書かされる。
理解が進んでいても、勝手に先に進んではいけない。教えられた通りのことをやらなければならない。引き算では、サクランボ算以外の計算をすると✖をつけられる。足し算や掛け算の順番を入れ替えると、「交換法則は習っていないから」という理由で✖になる。
つまり、子どもが見つけたやり方や、すでにどこかで教わっている知識は「今はそれをしてはいけない」と排除されるのである。
自分なりの工夫で別の問題に挑戦することも、よほど特別な配慮がない限り許されない。授業中に姿勢を崩すことは注意の対象であり、「早く終わったからと言って遊んではいけません」とたしなめられる。算数では、まだ問題が解けていない他の生徒に教えることは許される。しかしこれは「個別最適化」なのだろうか?
この構造を一切いじらないまま、
「一人一人の特性に応じた学びを」
「学習履歴を見取って個別最適な指導を」
と言い出すのは、おかしくはないだろうか。
なぜなら、その言葉が、現場の条件や構造を一切変えないまま、教師側にまた一つ「実現不可能な理想」を背負わせるためのスローガンにしか見えなかったからである。
「個別最適」という耳あたりのよい言葉の裏で、現場の教師はこう問われることになる。
なぜできないのか。なぜ工夫しないのか。なぜ改革の趣旨を理解しないのか。
そして、30数人の子どもを一つの教室に押し込んだまま、チャイムで時間を刻み、同じ教科書を同じペースで進めながら、「あなたたちの授業はまだ個別最適ではない」と指導されるのである。
昨今は「チーム担任制」が美談として取り上げられているが、こうした問題の本質は変わらない。
3 「個別最適」という看板だけが先に走る
もちろん、制度側の文書を読めば、それなりに筋の通ったことが書いてある。
・ICTを活用しながら、子どもが自ら学習を調整していくこと。
・「指導の個別化」と「学習の個性化」を両輪として、一人一人のペースや興味に応じた学びを実現すること。
紙の上の構想としては、否定しづらい。
だが、その「個別最適」のビジョンが、いまの教室の物理的・時間的な枠組みと、どうやって両立するのかについては、驚くほど具体性がない。
学級編成も、時間割も、学年制も、そのままにしておいて、「あとは現場の工夫で」と丸投げされているようにしか見えないのである。
結果として起きるのは、「看板」と「中身」のズレだ。
上からは、「個別最適な学びを実現している先進事例」が次々と紹介される。
授業研究会では、タブレットを使った自学自習の様子や、子ども同士が話し合う写真が並ぶ。
教員向けの記事には、「子どもは有能な学び手であり、教員はその伴走者である」といった美しい言葉が踊る。しかしこれは、文科省が予算と人員をふんだんにつぎ込み、「おかみの意向」に合うような結果を出しているいわば広告塔の学校の実践事例である。
一方で、多くの普通の学校の教室では、「赤刷り教科書」を片手にした教師が、限られた時間の中で膨大な内容をこなすことに追われている。
新たに求められる内容は増え続けるが、授業時数は大きくは変わらない。どころかこの20年間でパンパンに膨れ上がった。
結果として、すべて教育内容が「さわり」だけの通過儀礼となり、教師自身が内容を深く理解する余裕も、子どもたちの反応にじっくり向き合う時間も奪われていった。
「個別最適」は、そうした現場の疲弊と傷口に、さらにこれでもかと塩を塗り込むような言葉になりかねない。
実現するための条件整備をほとんど行わないまま、だけれど理想だけは掲げる。
できないのは、教師の工夫や努力が足りないせいだ――。生活科や総合的学習の時間以降、これまで何度も繰り返されてきたフレーズが、またしても使われることだろう。
4 「基礎基本」と「個別最適」のねじれ
ここで一度、「基礎基本」という言葉についても考えてみたい。
学習指導要領は、基礎的・基本的な知識・技能を土台に、思考力・判断力・表現力などを育てると説明している。
だが、現場で「基礎基本」と言われるとき、それはしばしば「学年ごとに決められた最低限の内容」と「それを終わらせるための進度管理」を意味している。
九九をすでにマスターした子も、まだ一桁の足し算でつまずいている子も、「今はこの単元だから」という理由で、同じプリントに取り組むことになる。
本来ならば、基礎基本を早くクリアした子には、別の課題やより発展的な探究を用意し、どんどん先へ進めるようにすればよいはずだ。
まだ十分に理解していない子には、時間や方法を変えて、じっくり取り組めるようにすればよい。
ところが、学年一律の進度と評価を前提にすると、そうした柔軟な運用は難しくなる。
「基礎基本を全員に保障する」という名目の下で、「同じ内容を、同じ時間で、同じやり方で」行うことが正義になってしまっている。
その結果、「個別最適」のはずが、実際には
「進んでいる子は待ちなさい」
「遅れている子は周りに追いつきなさい」
というメッセージにすり替わる。
基礎基本を守ることと、個別最適を実現することは、時間と場所の問題を無視すれば本来は両立しうることなのかもしれない。
しかし、今のように何百人もの児童生徒を壁と時間で区切って、一斉一律の枠組みを前提にしたままの時間を作っている限り、個別最適化は構造的に矛盾している。
5 6年生が「学校を息抜きの場」とみなすとき
このねじれは、高学年になるほど露わになる。
6年生くらいになると、都市部の子どもたちの中には、既に塾や通信教育で中学受験レベルの内容を学んでいる子が少なくない。というより多数派になりつつある。
彼らにとって、学校の授業はどう見えるか。
多くの場合、「もう知っていることの確認」か、「進度調整のための待ち時間」に過ぎない。
その中で、教師が一方的に解説を続ける姿は、ときに「時代遅れの授業」として冷ややかに見られてしまう。
6年生の中には、教師があまりに強く「きちんとやりなさい」と迫ったり偉そうなそぶりを見せたりすると、逆に「先生、この問題、解ける?」と難関中学の入試問題を差し出してくる子がいる。
それは単なる反抗ではない。
彼らなりの、「学校の学び」と「自分が塾で取り組んでいる学び」とのギャップに対する、歪んだ抗議なのだろう。
学校が、彼らにとって「本気で学ぶ場」ではなく、「息抜きと出席のための場」と化してしまっていることの、表現でもある。
そしてここでもやはり、「個別最適」という看板との落差が際立つのだ。
学習内容のレベルも、子どもたちの準備状況も、これほど多様化しているにもかかわらず、学校は依然として「学年の内容」を一斉に教えることを基本としている。
その枠を見直さないまま、「一人一人の可能性を引き出す」と言われても、現場からすると空々しく響くばかりである。
6 多様性・協働・安全という「逆転」
「学校でしかできないこと」として、次のような項目が挙げられている。
①、異なる背景や価値観を持つ子どもたちが一緒に学ぶ「多様性」の場であること。
②、子ども同士が協働し、対話しながら学ぶ経験。
③、失敗してもやり直しが許される、安全なチャレンジの場であること。
④、家庭の経済力に関わらず、最低限の学びと体験を保障すること。
どれも理想としては否定しがたい。
しかし、現実にはこれらは次のように逆転しているのだ。
①「多様性」。
確かに多様性はある。
いろんな国籍の子ども、いろんな家庭事情のある子も教室の中に混在している。
ところが、教室は画一化を求める場だ。筆箱の形状や中身まで対象となる。
画一化ははみ出す子への批判となり、同調圧力は強まる。
「学校は生きづらい」と子供が感じ、不登校が増える原因になっている。
多様性が画一化を生むというこの皮肉な構造は、平成後期から令和にかけてますます強まってきている。
②「協働」。
学力や認知特性の差が非常に大きい集団で、形式的にグループ活動を行うと、「教える側/教えられる側」の一方通行になりやすい。
「同レベルで共に考え、ぶつかり合う」協働とは程遠い場面も少なくない。それは同質集団で初めてできる活動である。
小学校の子どもの能力は、確かに「多様性」があって、いろんな子供が混在しているのだが、能力が高い子供が常にリーダーシップを取り、話が分かる2,3人だけで話し合いが完結してしまい、あとの子はそれに従うだけで何の進歩も面白さもない。という授業や活動がほとんどである。
③「失敗しても安全な場」。
今日では、一つのトラブルやミスが、すぐに保護者からのクレームやSNSでの拡散に直結するリスクをはらんでいる。
そのため、学校はむしろ「失敗しないこと」を最優先し、教師も子どもも、挑戦よりも安全策を選ぶようになりつつある。
「失敗しても安全」と考えるのは、学校側教師側が処理できるごく小さな範囲内の話であって、心理的負担が大きくなりそうな失敗が予想される活動には踏み込まないし、身体的安全が脅かされる活動など絶対にNGである。
そもそも学校は安全な場所ではなく、暴力的な子供もいるし、子どもは廊下を全力で走っているし、常に危険と隣り合わせな場所である。
④「最低限の学びの保障」。
これは本来、どの家庭に生まれても一定水準までは学べるようにする、という理念である。
だったら、その「最低限をクリアしている子」がいたら、その子は学校に通わなくてもよいのか?
そんなことにはならない。
「学びの保証」は建前であって、学校に行くことが目的になっている。
「社会性」とか「協働」とかいろんな理由が上乗せされるが、それは「周りに合わせろ」「空気を読め」という同調圧力と「みんなと同じことをしろ」という画一化を強制する。それが義務教育正体なのである。
だから、最低限どころか全国トップクラスの知識理解技能表現力がある子であっても、「学年の内容」をなぞるために毎日登校しなければならないのである。
こうして見ると、学校が掲げる「学校でしかできないこと」と、現実の教室で起きていることとの間には、深い裂け目が横たわっている。
その裂け目を埋めるどころか、「個別最適」という新しい言葉が、さらにその上に薄いペンキを塗り重ねているように見えてならない。
7 「学校にしかできないこと」など本当にあるのか
これは都市部に限った話ではあるが、見渡せば、ありとあらゆる分野の民間スクールが存在し、学習面だけで言えば、学校の外で完結させられる子どもも少なくない。
保護者の多くは共働きで、現実には「昼間、安全に預かってもらう場所」として学校を利用している面が大きい。
そうした状況を踏まえると、「学校にしかできないこと」とはいったい何なのだろうか。
少なくとも、いまのように
・30数人を一つの箱に詰め込み
・チャイムで時間を区切り
・学年一律の進度で
・すべての子に「あれもこれも」と詰め込む
という形を前提にする限り、「学校でなければ不可能な価値」が本当にあるのか疑わしい。
むしろ、学校の役割を正直に言い直すなら、
・午前中は、読み書き計算などの基礎基本と、最低限の社会性を身につける場
・午後は、安全な託児の場として機能しつつ、希望する子には民間スクールやオンライン講座、地域の活動への接続を支える場
といった、もっとシンプルで、現実に即したものにした方がよいのではないか。
「学校は託児所ではない」とよく言われるが、現実にはすでに託児の役割を担っている。
であれば、託児の機能を恥じるのではなく、堂々とその責任を認めたうえで、教育としての中身を「基礎基本」に絞り直し、 それ以上の高度で変化の速い学びは、民間や自学自習に任せるという役割分担も、選択肢として真剣に検討してよいのではないか。
8 「個別最適」を語る前に変えるべきもの
最後に、「個別最適の欺瞞」を少しでも和らげるために、最低限ここは議論すべきだと感じる点を挙げておきたい。
1つは、「30人箱詰め・一律進度・チャイム区切り」という枠組みを前提にしたまま、「個別最適」を語らないことだ。
学級編成や時間割そのものに手をつけずに、現場の工夫だけで何とかしろと言うのは、責任転嫁に近い。
2つ目は、「基礎基本」の定義をもう一度狭くし直すことだ。
すべての教科・領域で「これは基礎基本だから」と広げてきた結果、どの授業も薄くなった。
読み書き計算や、簡単な論理、最低限の情報リテラシーなど、本当に時代が変わっても必要な部分に、時間とエネルギーを集中すべきだと思う。
3つ目は、基礎基本を早くクリアした子に、「学校内外で別ルートを認める」発想を取り入れることだ。
午前中の必修部分を終えたら、午後は別の学びに参加できる。
学校の中で、教師の得意分野を生かした少人数講座やプロジェクトに参加してもよいし、地域やオンラインの学びに接続してもよい。
そうした柔軟な選択肢があれば、「学校は息抜きの場」と感じている子どもたちにとっても、意味のある時間になりうる。
4つ目は、「できないのは教師の努力不足」という言説をやめることだ。
個別最適が実現しない原因の多くは、構造とリソースの問題であって、個々の教師の意識の問題ではない。
そこを取り違えたまま、理念だけを重ねても、現場の疲弊と不信を深めるだけである。
本当に子どもたち一人一人の学びを大切にしたいのであれば、
新しいスローガンを増やすことよりも先に、
「30人の箱詰め一斉授業」という前提そのものを、問い直すところから始める必要があるのではないだろうか。