1.詩とイメージ

 

  リンクに2か月間も立てなくなるほどの怪我を背負いながら、負傷後わずか4か月後の平昌オリンピックで見事金メダルを獲得した羽生結弦選手。世界中が固唾を飲んで見守る中での演技はまさに驚異的な鉄人としての彼を感じさせましたが、フリープログラムでの演技は妖艶さを前面に押し出しながら雄々しい力強さも兼ね備え、見るものすべてを彼の世界へと引き込んでいきました。

  世界中のメディアが彼への賞賛の言葉を浴びせる中、中国中央電視台の陈滢さん(女優のジーニー・チャンさんとは別人)が演技の放送の最中に諳んじた“容颜如玉,身姿如松,翩若惊鸿,宛若游龙。” (顔は玉石のごとく、姿は松のごとく、飛び立つ様子は白鳥のようで、しなやかさは遊ぶ竜の様だ)という詩的表現が日本でひときわ話題になりました。

 http://sports.qq.com/a/20180217/006951.htm

 (こちらは当日の中国中央電視台の記事です。参考まで)

 

 これは彼女のオリジナルというよりも、中国で美しいとされるものを並べて詩的に仕立てたものですが、そのような表現がスポーツの実況中に出てくる素晴らしさに驚きとともにうれしくなって、つい私もこの話題をツイッターでリツイートしていました。少しだけご紹介させていただきますと、オリジナルと言われている表現は主に曹植の洛神賦から引き継がれたもので、曹植というのは三国志で有名な曹操の息子であり、幼い時より才に恵まれ曹操にもとてもかわいがられていたので将来も嘱望されていたのですが、天才にありがちな他人に無頓着な部分が現実的で抜け目のない兄の曹丕に劣っていたため、政治では兄に王の座を奪われるとともに中央に帰ることなく人生を送ったひとです。

 

 詩に関して言えば曹操も曹植も曹丕もとても優れたものを残していて三人合わせて三曹と呼ばれ並び称されていますが、曹植は特に「八斗の才」(天下の全才能の八割を独占する)と謝霊運に言わせるほど唐以前の詩人では最高位の席におかれている人です。

 

 陈滢さんの詩のオリジナルとされている洛神賦は、曹操の最大のライバルとなった袁紹の子袁煕の妻であった甄(けん)氏のことを読んだ賦だと言われています。甄氏は袁煕亡き後その美貌を見止められ袁煕を攻め落とした相手である曹丕の妻となります。甄氏は美しさばかりでなく教養も深く兼ね備えており、曹植は兄の妻であるにもかかわらず彼女を愛し妻にと望みますが、甄氏はのちに曹丕の正妻となる郭貴嬪の陰謀により夫である曹丕から死を賜り毒を飲んで死んでしまいます。彼女の死後曹丕の元を訪れた曹植は曹丕から甄氏が使っていたという枕を賜ると、帰りがけに通った洛水のほとりでそこにいるという女神の伝説を聞きそれに照らして彼女の詩を作ったということです。ただ有名な詩にありがちなのですが、実は曹植の恋の話は出所が明らかではなくあとから創作されたものではないかともいわれています。

 

 さて、洛神賦の本文で引用されていると思われる部分を書きだしてみます。

 翩若驚鴻,婉若游龍。

 榮曜秋菊,華茂春松。

 髣彿兮若輕雲之蔽月,飄颻兮若流風之迴雪。

 

舞い上がる様は驚いて飛び立つ白鳥のようであり、しなやかさは自由に遊ぶ龍のよう

華やかさは秋に咲く菊のようであり、若々しさは春に繁る松のよう

 薄い雲のかかった月のようにぼんやりとして、

 強い風に舞う雪のように揺らめく

 (訳に間違いがあったら申し訳ありません!)

 

 後半部分を読むとよりわかりやすくなりますが、これらは美しい女神を形容する褒め言葉です。こうして比較してみると、強さと美しさと柔らかさを畳みかけるように読んだ曹植らしい表現のうち、力強さの感じられる部分を引用することで羽生選手の演技の素晴らしさを表したのはとても説得力がある方法だと改めて感心させられました。

  しかし、このような表現をより身近に感じるのは、有名な漢詩の中には現代でも生きてその表現を見聞きすればどのような状況であるのか思い浮かぶようものがたくさんあって、それは日本にいる私たちでもイメージできるくらいだということに私は改めて感心させられるのです。玉(宝石)は容姿の美しさを強調しているということも分かりやすいですし、実はオリジナルのことなど知らなくても、なんとなくこの表現はこういうことを表しているのだろうなということが思い浮かびます。それは当たり前なのではなくて、おそらく長い時間私たちの生活に沁み込んでいろいろな場に現れては私たちを楽しませてくれていた。そういうもののうちのオリジナルといわれるような表現があると知るだけでわくわくしてしまいます。

 

2.スケート選手と陰陽師

 

 羽生選手が表現しようと選んだ陰陽師がこの女神と通ずるところが多いことはわかりやすいことです。安倍晴明というひとはその時代には陰陽師として名声を馳せた人ですが、物語となった彼はすでに現実離れした魔法使いのような主人公で、実はとても実学的でもあったその技でさえ私たちの頭の中では魔法のように思えます。

  帰国後の記者会見で羽生選手は「SEIMEI」という曲を使用した理由について、体形や技術面においてもアジア人がスケートの選手として活躍できること自体がつい最近まで皆にとって信じられなかったことであり、アジアらしい曲を使用することでそれが可能であるということがもっと印象付けられればいいと思ったというようなことをおっしゃっていました。

 しかし「SEIMEI」での彼の演技を見れば、能や狂言などの芸術におけるトリックスター的な存在にかなり魅力を感じていたのだろうということは一目瞭然です。物語である『陰陽師』の主人公の安倍晴明は言わずと知れたトリックスターであり、陰陽道を駆使して闇の世界と光の世界を縦横に駆け回り、危険を冒しながらも彼なりの秩序を目指します。物語に出てくる音楽の役割はまるで予定調和を促すもののような扱いになっていて、清明の親友である源弘雅は音楽(の神)に愛されて生まれた存在として描かれています。

  このような物語を知れば、この音楽を使って演じることのよって清明のように自らを中心とした世界を作り上げられるかもしれないという野望が叶いそうに思われるのも当然です。そして今回のオリンピックの演技で彼のその野望はほぼ叶ったように思われます。つまりそれは、あらゆる人が彼に引き付けられ魅了される世界を彼が創造できたということです。

  今日の多様化された世界では以前にもまして「一つの世界」に到達することは困難で、ましてやオリンピックのような国の威信を賭けた戦いの最中、世界のだれもが一緒に魅了されるような場を作ることはかなり難しいように思います。それをやってのけた羽生結弦という人はまさにトリックスターのようでした。私にはその時、本当に魔法を見ているように感じられたのです。

  「世界の王」は人間がまだ偽の主権者に支配される以前の、地上に国家が出現する以前の記憶をはっきりと保持している。新石器文化をつくりあげていた人間たちの「野生の思考」が生み出した、粗末だけれども豊かな心の産物を、この精霊たちはなによりも美しいものとして大切に守っている。ミシャグチやもろもろのシャグジたちや宿神たちがそうしてきたように。

  またこの王は、未来の人間の世界に出現しなければならない「主権」の形についての、明瞭なヴィジョンを抱いており、それをなにかの機会には、心ある人間たちに伝えようとしているように、私には見えるのである。古代の王たちから現代のグローバル資本主義にいたるまで、偽の「主権者」たちによってつくりあげられてきた歴史を終わらせ、国家と帝国の前方に出現するはずの、人間たちの新しい世界について、もっと正しいヴィジョンを抱きうるものは、諸宗教の神ではなく、長いこと歴史の大地に埋葬され、隠されてきた、この「世界の王」をおいて、ほかにはない。しかし、すべては私たちの心しだいである。この王の語りかけるひそやかな声に耳を傾けて、未知の思考と知覚に向かって自分を開いていこうとするのか、それとも耳を閉ざして、このまま淀んだ欲望の世界にくりかえされる日常に閉塞していくのか。すべては私たちの心にかかっている、と宿神は告げている。

 

中沢新一著 『精霊の王』 講談社 p320

  中国のメディアが女神への形容で伝えた羽生結弦という人が作った魔法のような演技が、時空を超えて世界中を駆け巡り、そして見る人を別世界に送り込んでいった。このことが今後どのような影響を及ぼすかは知り得ませんが、少なくとも私には魔法の時はあるのだと思えました。そしてそのことが国や宗教や人種を越えて人々を同じ世界に引き込んでいく力を皆に感じさせて、魔法は未来に繋がっていく何かになり得るという期待に成長させてくれたらいいなと思いました。

  今はお気の毒なくらい忙しすぎる羽生さんも、未来を担う若者として彼によって成し遂げられたことがいったいどういうことだったのか見つめられる時間をもう少し与えてもらえたらいいのにと感じます。そして国家や誇りや名誉だとかそういうものを越えて、そこにたしかにあって人々を一つの世界に連れていくことのできた彼の起こした魔術について、彼自身が思う所を彼の口から聞いてみたい気がします。

 

【メモ】

 詩と賦について

  漢詩を勉強したことのある人ならだれでも律詩だとか絶句だとかを始めにやらされるので、陈滢さんの詩や洛神賦を見て違和感があるのではないかと思います。

  多様な文体を収めながらも、『文選』のなかで最も多いのは「賦」と「詩」である。「賦」は巻一から巻一九の途中まで、「詩」は巻一九の途中から巻三一まで、つまり全六十巻の半分以上を「賦」と「詩」が占める。これは「賦」と「詩」こそが文学のなかでも最も中心となるジャンルとみなされていたからだろう。漢代の書物の全体を分類整理した『漢書』芸文志は、書物を「六芸略」「諸子略」など六つの分類に分け、狭義の文学に相当する分野として「詩賦略」を立てているが、「詩賦略」の名にあらわされるように、「詩」と「賦」が文学を代表するものであった。ちなみに「文学」という言葉は明治の初めにliteratureの訳語として採用されるまでは、孔門の四科に「徳行・言語・政事・文学」として挙げられるように、古典の素養、学問を意味するものであった。今言う所の「文学」を意味する語はなかったにしても、『漢書』が「詩賦略」を立てたことから、文学に当たる概念はすでにあったと考えられる。また「詩賦略」に「詩」を挙げていても、それは広い意味における詩であり、実際には「歌」であった。

  「詩」とならんで文学の中心とされる「賦」は、押韻はするものの「詩」と違って一句の字数、一篇の句数に定めがない。漢代の文学を代表するものが「賦」であった。賦は魏晋以降も叙事性から抒情性へと性格を変えながら作られていくが、文学の中心は「賦」から「詩」に移った。とはいえ、賦は早い時期の文学ジャンルの代表であったために、格式の高い文体として、のちのちまで別集、総集は賦から始められることが多い。

 川合康三他注釈 『文選 詩篇(一)」岩波文庫 pp385~386

 

 

 参考にさせていただいたブログです。とても助かりました。ありがとうございます。

 

「私家版 曹氏建集」ブログ

 http://humiarisaka.blog40.fc2.com/tb.php/66-cb3a958a

 

中国歴史世界 資治通鑑

 
http://www.geocities.jp/wtbdh192/index.html

 

1.  手向けられた花

 

 ホライゾン・ゼロドーンにはいくつかの収集アイテムがあるのですが、その中の一つに〈鉄の花〉というのがあります。鉄の花は機械が異常行動をし始めた頃から各所に見られるようになった文字通り鉄でできた一輪の大きな美しい花です。なぜか三角形の形に植えられた(本物の花の)花壇のぽっかりと開けられた中心部分にあって近づくとぱっと咲きます。そして採集するとその一輪一輪にそれぞれ別の詩のデータが入っているのです。

 

 最後までプレイすることでこのお話の要であるAIガイアの生みの親であるエリザベト・ソベックの墓らしきものがやはり三角形の花囲いの中にあることがわかるので、これはおそらくガイアがソベック博士の死を悼んで手向けのために作ったのではないかと推測できます。アーロイの世界では鉄の花はその美しさゆえにお金持ちに人気のコレクションアイテムになっているようで、アーロイはその辺境に点在する花の収集を商人に依頼されるのです。

 

 さて、花を手向けることで印象的なシーンはブレードランナー2049の中にもありました。Kがサッパー・モートンの農場の死んだ木の根元に一輪の小さな花を見つけたときのことです。おそらくその花はモートンがレイチェルの墓に手向けたもので、花を不審に思ったKはその土の下にレイチェルの死体の入った謎のコンテナを発見します。くしくも花が見つかったことがレイチェルの死の尊厳を奪うことにはなるのですが、「希望を持ったことがあるか」というKへの問いかけや写真、ピアノに隠された子供用の靴下などから、花を手向けていたモートンの心情について、死者への愛情や尊敬、あるいは崇拝等々いろいろと想像できます。

 

 生きているうちに近しい関係にあれば亡き者への愛着があるのは当たり前ですし、家庭にある仏壇に花が生けられている風景が原風景になっているようなこの国以外でも、墓に花を手向ける様子は万国共通に見られるように思います。しかし、当たり前となったこの行動がいったいどこから来るのかについては無意識の中に入り込んで、本当のところなぜ花を供えているのかということについては案外考えなしに行われているのではないでしょうか。

 

 ではなぜ死者に花を手向けることがどうしてこんなにも特別に扱われるのでしょう。

 

 ご存知の方も多いと思いますが、発掘されたネアンデルタール人の死体のそばにあった大量の花粉から、その花こそ人が死者に手向けた最初の花ではないかといわれています。これには否定的な見方もあるようですが、太古の人類が死者に花を手向ける光景を思い浮かべるとき、手向けた古代人の死者への愛情に思いを馳せないではいられません。

死者への情愛が花を手向けさせる唯一の理由ならば、花は手向ける側の人間の愛の形であると言えます。愛の形として花をプレゼントすることは日常的に、もちろん生きている人相手にでもよく見られる行為です。ただし、墓前に花を手向ける行為はプレゼントするのとは意味を異にします。それは「手向ける」という語を使用している点においても指摘できるように思います。

 「手向け」とは供物を供えるという事です。生活の場から宗教への場に移行していくのはどの状態からかというのはとても難しい問題ですが、相手が死者になると明らかに宗教的な意味合いを感じられるようになります。それはたぶん、実在しないものの存在を見つめて行われる行為だからです。それでは、宗教的に花を手向けるということはいったいどんなことなのでしょう。

 

 1、供犠の材料。 供犠を動物的な獻物と植物的な獻物とに分つことは獻物―衣服武器宝物などのような奉納供進とは別個の―の主要物が食べられるものから、そして実際人間の食物の中心を形づくっている種類のものからとられることを意味している。これはレビ記の法律に於て正確にそうなっている。

 

W.R.スミス著 永橋卓介訳『セム族の宗教 後編』p13 岩波文庫

 

 いろいろと調べてみたのですが、古代の宗教において供犠に使用された花に対する記述を見つけることが出来ませんでした。調べられた限りでは神への貢物として相応しいものは自らの血肉あるいは血肉になり得るものということになっており、そこには神に対する絶対的な忠誠を感じさせられます。そして、上記の記述を見ると献花は奉納献進の一部であって神聖さにおいては一段下がるように思わされます。

 

 一方で、日本大百科全書の供花の頁に「仏あるいは死者に供える花のこと。供華とも書き、「くうげ」ともいう。仏教は発生当初から花と深くかかわっていて、教典にもその功徳が説かれ、花は仏の供養の第一とされた。」とあります。

 

 なぜセム族が神々にとって花は血肉に劣るとし、なぜ仏教がそうしなかったのかは詳しく調べればもっとおもしろくなりそうなのですが、少なくとも仏教においては、血肉にならない花に血肉になるものと同等の価値を明確に与えていたという事になります。

 ではそこにある花の価値とはいったいなんでしょうか。

 

2.  花の価値

 二.自然

 人間が、感覚の把えるさまざまの対象をまとめてある共通の名称で呼び、それを自分と対置してみようと考え及ぶまでには長い年月がかかったことであろう。訓練すれば発達はめざましい。そして、およそ発達をとげていく場合には、ちょうど光線の屈折に比較できるような、分割と分岐とが生じる。そのようにわれわれの内面も徐徐に分岐を重ね、かくてこのように多様な力が生じてきたわけで、さらに不断の訓練を怠らなければ、この分岐もますます進んでいくだろう。もし後世の人々が、精神のこのように錯乱した色彩を再び混ぜ合わせて、随意にもとの単一な自然状態を復元したり、あるいは、これらの色彩の間に新しい種々の結合を作り出したりする能力を失っているとすれば、それはひとえに、彼らの資質が病的になってしまったためかもしれない。そうした結合が鞏固であればあるほど、あらゆる自然物やあらゆる現象はいよいよ渾然と、いよいよ完璧に、いよいよ個性的に、その結合の中へ滔々と流れ込む―けだし、印象のありようとは五感のありように呼応するものだからだ。これ故に、かの昔日の人々には、万物が人間的で馴染み深く、親しいものに思えたはずだし、彼らの目には最も鮮やかな特性がそのままに映じたに違いなく、彼らの表現はことごとく真の自然の息吹であり、彼らの表象は周囲の世界と一致し、その世界そのものの忠実な表現になっていたに違いない。従って、外界の事物についてのわれわれの父祖の思考とはすなわち、当時の地上の自然状態の必然的な産物、あるいは、その自画像だとみなすこともできるし、またとりわけ、万有を観察するために最もふさわしい道具としてのこのような思考を見ると、その万有の主たる関係、すなわち当時の人々に対する関係、また、人々の万有に対する当時の関係がはっきりと判るのである。

われわれの知るところによれば、まさしくこの最も崇高な問いに当時の人々の注意が真っ先に向けられ、彼らはこの驚異に満ちた建物の鍵を、あるときはあれこれの現実の事物の中に求め、あるときは未知なる感覚がつくり出した対象の中に探した。ここで注目すべきは、そろいもそろって、その鍵は流体とか気体とか無形のものの中にあると彼らが予感したという事実である。おそらくは、固体の不活潑さと無器用さが、それが従属的で一段低いものだという考えをひき起こす誘因になったのだろうとしても、あながち意味のないことではなかろう。だが、たちまち、一人の考究型の人間が、こうした形なき力や海から、形あるものを如何に説明するかという難問にぶつかった。彼はこの難点を一種の集合という考えによって説こうとした。つまり、最初の始まりを形ある個体の微粒子だとし、しかも想像を絶するほどの小さいものと想定して、こうした微粒子の海からこの壮大な建物が築き上げられうると考えたのである―とはいえ勿論、これらと共に作用するさまざまの思考的存在、すなわち、惹き寄せまた突き放す諸々の力の助けが無かったわけではない。

 さらに時代を遡ると、科学的な説明のかわりに、共同の職匠としての人間や、神々、動物などといった不思議な比喩的な姿に満ちたメルヘンや詩が存在して、そこではきわめて自然に世界の生成の歴史が述べられているのがうかがえた。少なくとも、世界が偶然に道具によって発生したのは確かだと聞いているが、想像力の産み出す放恣な産物を軽蔑する人にとっても、この観念は十分意味のあるものである。世界の歴史を人間の歴史とみなし、何処を向いてもただ人間にかかわる事象や状態しか見ないという態度は、さまざまな時代に繰り返し新しい装いで現われる不滅の観念となって、驚くほどの影響力をもち、容易に人を納得させ、常に優秀であったようである。それに、自然の偶然性ということも、言わばおのずから、人間の個性という観念に結びつき、また、その個性たるものは人間の本質なりと、ごく単純に理解されてもいるらしい。このことからしても、詩が真に自然を愛する人の最も好個の道具になりもし、詩の中にこそ自然の霊は最もあからさまに顕現するのでもあろう。真の詩を読んだり聞いたりすると、そこに自然の内的知識が蠢き、あたかもそれが天使のように自然の只中にも自然の上にも漂っているのが感じられる。自然研究者と詩人は「一つの言語」を用いることによっていつも「一つの族」であるかのようにふるまってきた。前者が全体的に蒐集し、大まかな整然たるまとまりのうちに示したものを、後者は人間の心を養うための日々の糧や必需品に変成し、あの広大無辺の自然を細分して、さまざまの小さな好ましい自然へと造形した。詩人たちが果敢なく流れゆくものを心軽やかに追い求めていったのに対し、自然研究者たちは鋭利なメスで自然を部分に切り分け、その内部構造や関係性を探ろうと試みた。彼らの手にかかるとあの親しげな自然は死んでしまい、そこにはただぴくぴくと痙攣する屍しか残らなかった。これに対し詩人の手になると、まるで芳醇な葡萄酒を飲んだときのように、自然は一段と生気を帯び、いとも神々しく晴朗な思いつきを聞かせてくれ、日常的な生活圏を越えて、天まで翔っては舞い踊り、予言を語って、いかなる客人をも愛想よく迎え、喜ばし気にその財宝をばらまくのだった。こうして自然は詩人と一緒に天国のようなひとときを楽しむが、自然研究者を招じ入れるのは、病気になり従順になったときだけである。こういう場合には、自然は彼らのどんな質問にも答えてやり、この生まじめで厳格な人を尊重するのにやぶさかではなかった。だから、自然の心情を本当に知ろうと欲する者は、詩人たちの中にそれを尋ねなければならない。そこでは自然は身を開き、玄妙なるその心を吐露してくれるのである。だが、自然を心底愛することなく、もっぱら自然にあれこれの点を見つけては驚き、これをただ見聞しょうとのみ努める人は、自然の病室や納骨堂を小まめに訪れなければならない。

 

ノヴァーリス著 今泉文子訳 「ザイスの弟子たち」

『ドイツロマン派全集第二巻 ノヴァーリス』pp256~258 国書刊行会

 

 ここでノヴァーリスを長く引用させていただいたのは、花を手向けることは自らにある複雑な胸の内を花という自然の作り出した集約された美に重ねて献上するということであり、そこには自然が集約することができる美に対する人の敬虔さも現れていて、それはちょうどノヴァーリスが自然と語り合うことで自然の声を聞き、その声を分断することなくある種の統合性を選んで表現することは可能であるし、それができるのは詩の言葉であろうというのに似ていると感じたからです。

 鉄の花に俳句や詩が入力されていたことは単なる偶然ではなくて、ガイアが手向ける花に思いを込めるのにそれらがふさわしいと考えたからでしょう。ノヴァーリスが示した自然へのあるべき態度と人間の複雑さを簡単に包み込んでしまう自然とそれを表現できる詩という芸術への理解をガイアというAIにさせようとした意味の奥深さについて考えずにはいられませんでした。鉄の花が美しい風景が見える高台に花を設置されていたのも偶然ではありません。それが花のある場所にふさわしいと考えられたからです。

 

 鉄の花を作っていた時のガイアのことを考えると、おそらく孤独な中で困難にも見舞われ、ソベック博士の死にも順応しきれなかったのかもしれません。逃避の直前、自らの存在の危機を感じながら、「もう一度あなたの声が聞きたかった」と言って消えたホロスコープもとても印象深かったです。

 そういった状況に晒された時に何が心の支えになるのかというスタッフの思いで鉄の花は作られたのだろうかと思うと更に考えさせられました。

 

 先日、今はAIの作成にあたってフレーム理論からオントロジーに移行している話を聞いてなるほどなぁと思いました。統合する精神というものはどうあるべきかという課題について、きちんと向き合わなければならない時代なのだと思います。

 

 美と自然についてはもう一つヘーゲルを読まなくてはと思っているので、また何か書けるといいなと思っています。

 あと、自然と芸術については実はシェリングも参考にしたかったのですが完全に勉強不足なのでもう少し勉強して書き足せたらと思っています。

 

 またとりあえずで申し訳ありません!

 とりあえずおしまい

 

 ホライゾン ゼロ・ドーンは狩場クエストクリアを諦めたので、その他のクエストは二月の頭には終了することができました。後半のストーリー展開はいよいよアーロイの出生の秘密に迫るものでしたし、様々な冒険を続け心ならずも英雄となってしまったアーロイの心中を思うと、仲間を得て心強くなったものの常になにか痛みを抱えているようで、前半程のびのびとプレイできない感じを持ちました。物語の終盤が見えてくるころによく訪れるこのカタルシスが作品の価値を引き上げるということを知っていても、なかなかそれを楽しめるほどに成長しない自分は困りものだとも思います。

 映画である「ブレードランナー2049」とゲームの「ホライゾン ゼロ・ドーン」を比較して、SFに出てくる近未来と人間のことを考えてみようと思ってこのブログを書き始めてのですが、思いのほかホライゾンが多くの情報量をゲームに盛り込んでいたので、何を書いたらよいかとても悩みました。最近のゲームのストーリーというのは、フィールドが広がって自由度が増した分、様々な地域でサブキャラクターとの関係性を築くとそちらのお話も広がっていってまた別の物語が様々な地域で展開されるような多様さがより増しています。そのお話がメインストーリにも反映されていく展開は「分岐」には違いないのですが、一つ一つのストーリーが緻密になっているので、まるでメインキャラクターの人格形成がその経緯によって変化しているように体感してしまうようなところがありました。

 映画はもう完成された一つのストーリーを追いながら主人公の体験を遠くから眺めて考えてみたり、自らに重ねてみたりするものですから、そのあたりのギャップが更に広がっているように思います。「動かす」ことによる感情の移入度が、ゲームのフィールドの緻密さに関係してこうした感覚が深まっているのかもしれません。そのために、別段なにか表現されている場でなくとも「アーロイがこうなってきている」と身近に感じてしまうのだと思います。私はよく観劇している時にそういう感覚を持つことが多いのですが、このところそういった感覚をゲームをプレイすることによって得られることが増えているように感じます。身体がある〈場に触れる〉ことにより生じる仮想世界へ入り込みの問題はVRの発達によりより深く考察されるようになっています。空間と身体の関係性を変化させる状態がどの時点から起こっているのか、そしてそれは何によってどう変化するのかは本当に興味深い問題です。

さて前置きはこの辺りにして…

 

コード化と精神の苛立ち

 コード化が行う客観化は、一貫性というものの論理的統制の可能性、つまり形式化の可能性を導入します。それによって、明示的規範性の確立、つまり文法なり法なりの確立が可能になるわけです。言語とはコードであるとよく言われますが、それがいかなる意味においてであるかが、明確に述べられることは滅多にありません。実は厳密に言えば、言語自体がコードであるわけではないのです。言語は、情報図式体系のほとんど法的なコード化に他ならない文法によって、コードとなるにすぎないのです。言語がコードであるなどと述べるのは、この上ない〈詭弁〉fallacyつまり、研究対象たる人びとがしていることを理解するためにこちらが意識しておかなければならないものを、当のその人びとの意識の中に据えつけてしまうという詭弁を犯すことになります。外国語を理解するには文法を習得せねばならないという口実で、まるで当のその言語を母国語として話している人びとが文法に従っているかのように、とらえてしまうわけです。コード化とは、性質の転換、存在的分身の転換であり、それは、実践的状態で使いこなされている言語的図式から、法的な作業に他ならないコード化の作業によって、コードに、文法に移行する際に行われている転換なのです。このコード化の作業というもの、これは、法学者たちがコードを作成する際に、現実の中で何が起こるかを知るために分析する必要があるものですが、それと同時に、実践についての科学を行なう際に、人が知らず知らず、自動的に何をしてしまうかを知るためにも、分析する必要があるものです。

 

ピエール・ブルデュー 石崎晴巳訳 『ブルデュー自身によるブルデュー 構造と実践』 藤原書店 PP129~130

 ブルデューが語った言語のコード化とは何かというこの文章は、分類のためにコード化された言語は言語そのものではないということを私たちに教えてくれます。

 Kはコード化された情報を組み込まれたAIに過ぎないのに、そのKが記憶と自身の生い立ちについて苦慮する様を見せられる時、私はどこか引っ掛かって違和感に捕らえられてしまいます。それは知り得た情報を適切に処理するだけの器官にとって、エラーはエラーとだけ判断されるべきで、それ以上でもそれ以下でもあり得ないのではないかという素朴な疑問によるものです。それなのにAIのKが危険を冒してまで任務から逸脱して自己の調査に乗り出していくのはなぜでしょうか。

 はじめに推測できるのは、すでにある情報に様々な外的情報が組み込まれるうちに、そこに不足しているものへの探究心が深まるからではないかということです。上書きされた外的情報はコードではなくて身体に触れる世界と言葉自体です。そこにはブルデューのいう通りコード化できない部分の情報も含まれています。一方、自己の内にある情報と外から来た情報のギャップを埋めることへの欲求は、誰もが持ち経験する生存のためのプロセスと言えるでしょう。生きるために経験によって得られた情報を上書きするという生存のためのプロセスに生物がその行動のほとんどを費やすことを考えればそれは自然な行動なのかもしれません。

しかし人であるがゆえに、そこで「生存とは何か」という問題に行きついてしまいます。生存するとは無論生命を維持することです。ただ、生命を維持するために必要だと思われる物事に対する考えは人間の場合は個人によって異なります。食事や睡眠などの生理的な欲求に応えることは生命を維持するために最低源必要なことですが、それを押してまで他の欲求に応答し行動するような経験を多くの人が持っています。

 

 「何かを成し遂げよう」とするこの欲求に対応し、成功することと失敗することを繰り返して書き換え可能なコードに変換していく作業は、ブルデューのいう社会の形式化のためのコード化とは別のものです。自分のために自分向きの自然を探し出してコード化するこの作業を通じて私たちは幸福感を得ることができます。(※1)この幸福感を求める行為を生存の価値と考える場合も多いように思います。

 

レプリカントを生み出した人間は、フォークト=カンプフ法という質問を多用する方法を用いて感情移入できなないことが認識できれば、それはレプリカントであると識別できるとしていました。また、レプリカントが感情移入できるようになった時こそ人類に危機が訪れるであろうという危機感もありました。それでも彼らはAIがそこを乗り越えるには相当の壁があって多くの個体は乗り越え不可能であろうと信じていたように思います。

 しかし、実際にはレプリカントたちは感情移入の壁を乗り越え、自らの生存の意味を各々考えるようになっていました。受胎できる個体の発生とレプリカント同士での繁殖の可能性、そして初めての子孫の誕生を知った時にそれを神聖視すること。あるいは、優越性が主人の愛情の対象となり主人の特別でいられると認識すること。これらは生存そのものというより生存の意味を問うものです。そしてこれらの生存の意味は他者の行動から呼び起こされ感情移入によって拡大するものです。

 

 

自然であること/科学であること

 

 17世紀の哲学者たちがガリレオの成功から引き出すべきであった教訓は、ヒューウェールやクーン的なものでなければならなかった。すなわち、科学の進歩を、いろいろある仮設のうちのどれが真であるかを決めるということに関わる問題としてではなく、そもそもそうした仮説を作るのに用いられる正しいジャーゴンを見つけるという問題として考えるということだった。だが、すでに述べたように、彼らが実際にそこから引き出したのは、その新しいボキャブラリーは自然が常々それで記述されることを望んでいたものである、という教訓であった。わたしの考えでは、これには二つの理由があった。第一に、彼らは、ガリレオのボキャブラリーが形而上学的な慰めに欠け、道徳的な含意や人間的な興味に乏しいという事実を、それがうまくいった理由のひとつだと考えたのである。彼らは、ガリレオ派の科学者があれほど成功を収めたのは、彼が果てしない宇宙の恐ろしい深淵に面と向かうことができたからだと漠然と考え、彼が常識や宗教的感情から距離を置いていること―つまり、人がいかに生きるべきかに関する決断から距離を置いていること―を彼の成功の秘密の一部だとみなした。こうして、われわれのボキャブラリーが形而上学的慰めに欠け、道徳的に無意味であればあるだけ、われわれが「実在に触れ」、「科学的」であり、実在をそれが記述されることを望んでいる通りに記述し、それによって実在を支配する見込みも大きくなる、と彼らは言うのである。第二に、彼らは、「主観的」な概念―われわれのボキャブラリーでは表現できるが、自然のボキャブラリーでは表現できない観念―を取り除く唯一の仕方は、ガリレオやニュートンのボキャブラリーにある用語、つまり「第一性質」を述べた用語に定義よって結びつけられない用語は使わないことだと考えた。

 この相互に密接した関連の誤り―つまり、ある用語は、道徳的に無意味であり、かつ予測に役立つ真なる一般化のなかで使われるものである場合に、「実在的なものを指示する」見込みが大きいという考え―が(バーナード・ウィリアムスの言う)「絶対的実在像」を求めるものとしての「科学的方法」という観念に内実を与えている。この「絶対的実在像」とは、われわれの表象であるのみならず実在自身の表象でもあるような表象によって表された実在、実在が実在自身にとってそう見えるはずの実在、もし実在が自分自身を記述できるとすればそう記述するはずの実在だと考えられている。ウィリアムズやデカルト主義に立つその他の論者は、この考えを筋の通ったものと考えているだけでなく、それを知識の本性に関するわれわれの直感のひとつとみなしている。だが、わたしに言わせれば、それはたかだか哲学的であるとはどういうことかに関する直感のひとつにすぎないのである。それは―はじめプラトンによって紡ぎ出された―古い哲学的空想のデカルト的な形態である。その空想とは、あらゆる記述や表象をくぐり抜けて、ありえないことなのだが、いまだ分節されていない直接的出会いと言語的定式化双方の最良の特徴を兼ね備えた意識状態へと到達することであった。〈自然自身のボキャブラリー〉を発見する、そして発見したということがどうにかしてわかるという空想は、ガリレオとニュートンが「冷たい」「人間味のない」数学用語で書かれた、予測に役立つひとまとまりの普遍的一般化を定式化したとき、一歩具体化したように思われた。そして当時から今日にいたるまで、「合理性」、「方法」、「科学」といった観念はそうした一般化の追求に結びつかられてきたのである。

 

リチャード・ローティ著 室井尚ほか訳 『プラグマティズムの帰結』 ちくま学芸文庫 pp515∼518

 少し長い引用になりましたが、ローティが(認識論的に)今まで考えられてきた実在と科学の関係について述べた部分になります。ここで私が認識しておくべきと思ったのは、われわれが本物の実在に触れるためには理想や根本的原理といった証明不可能と思われる事柄から隔離されなければならないということが、「科学的である」という名の正しさと結びつけられて考えられてきたということです。その理論で言えば、私たちが科学的に理解可能な実存する存在であるためには幸福や希望からは遠く離れる必要があるのです。ばかばかしく聞こえるかもしれませんが、そういった考え方は今でも私たちの心理に根強く遍在しています。たとえば数値や統計に基づかない理想や理念を科学的でない絵空事として軽視するような状況は現代社会の中では多く見られます。そしてこの考え方がディストピアの根本になっているように思います。

 科学の粋を尽くして創生された新型レプリカントが不幸な存在であるのは、幸福と結びつく一切の物から隔離されているからであり、同じように制作した人間自身も幸福にはなれないのです。ただし、幸福を得るためにレプリカントは彼らにとってあり得ないかもしれない世界を夢見て行動を起こそうとしています。

 それはまさに、科学と精神という人間の創造を二分して真理に近づこうとした弊害に病んでいる世界への呼掛けであるように思います。

 

 ホライゾン ゼロ・ドーンは、自律型完全自動兵器スワームの暴走であるファロの災禍によって地球が破壊し尽くされ生物が絶滅する危機に対して、スワームの破壊から地球の再生までを人類亡き後AIであるガイアに託すゼロ・ドーン計画が実行された後の世界での出来事になります。ガイア構築に当たり、責任者のエリザベト・ソベックはなるべくガイアに人の感情を移入することを試みます。それがこの計画にとって不可欠なことを知っていたからです。

 実際に世界の構築に失敗し危機的な状況が発生した場合に発動するはずだったハデスの逆行プログラムが発動しようとしたときガイアが取った行動は、未来をソベック博士のクローンに託し身を隠すことでした。

 これがゲームの背景になります。

 

 プレーヤーはアーロイの正体は知らずに、養父ロストに育成を託された子どものころのアーロイからプレイし始めるのですが、父母のいないアーロイは異端の者として周囲に忌み嫌われています。その子どもがあるとき機械とアクセスできるフォーカスを手に入れた時から世界が変わっていくという設定です。

 

 この内容からも少しお分かりいただけると思いますが、ホライゾンの世界観は科学と宗教や思想、芸術との関係を並列させて成り立たせようとするものです。そして、前回も書かせていただきましたが、分岐の選択肢は常に3種類あって、それぞれ力、知恵、心というふうになっています。経験の内に習得するものを選択する際、アーロイは常に力と知恵と心のいずれの選択かを問われます。

 私にはこの工夫がとてもすごいことのように思えました。

 

 アーロイは次々と過去最先端であった科学について学び、そして周囲では人間や社会について学びとっていきます。育ての親であるロストを失ってからはほぼ一人きりでそれをこなしていかなくてはなりません。そんなときに彼女の脳裏に浮かぶ選択肢は常に三種類あり、そのことに悩まされます。そんなアーロイの姿は、今ある私たちの姿として自然で健全なことであろうとゲームをプレイしていくうちに気づかされていきます。

 

 他方、孤独なレプリカントは選択に対して常に無力で従うしかない存在として描かれていたように思います。たとえ選択したように思えたとしても、夢や希望には到底届かないものです。そのことは、科学と精神を分離した私たちの功罪ではないかと思えて仕方がありません。やっとの思いでKが託した希望が実りあるものになるかどうかわからないまま物語は終焉を迎えます。

 ブレイドランナー2049という物語がレプリカントに預けたのは科学と精神の両立という課題でした。そしてそこにいる人間は、生まれさせておきながらそのことを妨げる存在でしかないのです。

 

 このことは二つの作品を通じて一番大きく感じられたことになります。その他にも書きたいことはたくさんあるのですが、とりあえずこのトピックスはいったんここで終了させていただきまして、次回はまた別の話題にて書かせていただきます。

 

(※1)の個人による自然のコード化と存在についてもただいま試行錯誤中

 

 いつもご拝読いただきましてありがとうございます。ブログがなかなか更新できずに失礼をいたしました。実はここに至るまでの道のりが大変遠かったので、それらも含めまた少しずつ書かせて頂けたらいいなと思っています。

 

 今後ともよろしくお願いいたします。