台湾 旅行記①  ―最後の日本兵― | オススメ♪コスメ&たび日記

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海外逃亡、国内潜伏…もとい暇さえあれば旅してる旅人です。
各種発表会への潜入、エステの体験取材などにも参加中。

去年12月、友達がファミーリーマートの懸賞で当選した

台湾旅行にご一緒させてもらいました。


はじめて台湾に行った私ですが、すっかり台湾好きになりました。

いつかまた行きたいと思っています。



ところで、台湾旅行中に気になったのが街中に

ぽつんぽつんと残るふるびた日本家屋。



近代的な建物の間に何故だか点在する日本家屋。

しかもドロンとしてはっきり言ってお化け屋敷みたい。


ガイドさん曰く台湾の法律で住む人がいなくなっても

100年だっけか?は,とり壊しが出来ないのだとか。



他にも日本人がいなくなった家屋に住みはじめた人たちは、

土地の権利書がないから、建て替えが出来なくて

なんだか増築して不思議な建物になっていたり…。


もう数十年したら、そんな景色もなくなるのかな?



なぜ台湾に日本家屋があるのかというと、ご存知の通り

台湾は1894年~95年の日清戦争の結果、

日本に割譲されその植民地となり太平洋戦争終結の

1945年までおよそ50年間にわたり日本の統治が続いた

という歴史があるのです。



だから街中の看板に何が書いてあるのか何となくわかる。

台湾の文字は日本の漢字が略字になってしまったのとは

違い、今も昔のまま。

略されることなく難しい漢字が使われていました。



でね、話が突然飛ぶんだけど、そんな日本家屋を見ていて

旅行中に「最後の日本兵」の話を思い出したの。



という訳で、いつもはコスメだグルメだとうつつをぬかしている

私ですが、今回は真面目に旅行中に思い出した

「最後の日本兵」の話などをしてみようと思います。


文章ばかりのつまらない自己満記事なので、

ご興味のない方はスル―しちゃって下さい。



さてさて最後の日本兵と聞くと横井庄一さん、

小野田寛夫さんを思い浮かべる方が

多いのではないでしょうか?



数年まで私もその1人でした。

しかも詳しくは知らない始末。



唯一覚えていた事といえば、

「恥ずかしながら生きて帰ってきました」

という帰国第一声。


そもそもその時代を生きてないから、のちのち学んだ知識程度。

実際に戦争にいったという今は亡き祖父の話もうる覚え。



ちなみに、小野田寛雄さんはフイリピン・ルバング島に

残置諜報員として戦後29年間の潜伏、

横井庄一さんは、今やリゾート地であるグアム島の

深い山中から戦後27年目に救出されたのだそう。



でも、本当の最後の日本兵は

台湾の高砂族出身で日本軍特別挺身隊員として

出征した中村輝夫(本名李光輝)さんなのです。



中村輝夫さんがインドネシアのモロタイ島で発見されたのは

1974年12月26日なので、二人よりも遅く、

中村さんを最後に日本兵は公には発見されていません。



何年か前に日本兵がいた!なんてニュースが

流れましたが、結局見つからずでしたしね。



中村さんは1920年台東に生まれ、

1943年に志願兵として出征したとのこと。

そして中村さんが発見されたのは彼が54歳の時。


翌1975年1月、台湾台東に帰りました。

でもそこは中村さんの知っている台湾ではありませんでした。

1975年は台湾は戒厳令下でしたが、経済が発展し

文明的な生活ができる社会になっていました。



中村さんは日本人として生まれてそのまま出征したので

台湾語も北京語も出来ず、日本語と民族語しか

はなせませんでした。


出征時に奥さんが身ごもった息子さんは

北京語教育を受けたので言葉が通じません。

しかも奥さんも再婚して家庭を築いていました。



その後再婚していた妻と復縁し農業に従事したとのことですが、

帰国後数年でこの世を去ったのだそう。


ジャングルの中で何十年も生活した屈強な中村さんに

1970年代の台湾はどううつったのでしょう…。


日本人として出征し台湾人として帰国した彼に対して

日本政府や日本人はそれほど関心を寄せる事はなかったため

この事実を知る人は少ないのだそう。



人生の大半をジャングルの中で孤独の戦いをせざるを

得なかった上に、帰国後の激変を体験した中村さんの

人生を考えると、いたたまれなくなり忘れられない実話として

胸に深くきざまれた私。



台湾旅行中にふとその話を思い出し、日本家屋を

写真を撮るのも忘れてみいってしまいました。



台湾旅行記つづく・・・