2月19日18時からで日程が決まりました。
会社関係は私を含めた4名、PTA(学校)関係は3名、地域活動の団体関係は4名で計11名もの受付になりました。

正直最初はちょっと多くないか?と思ったけど、社長の交友関係・人脈を甘く見ていたと後に反省する事になります。

約2時間前に式場に入り打ち合わせをしてから、用意されたコーヒーを飲んで(今までの経験上、早くても30分前ぐらいにならないと参列者がお見えにならないので)ゆっくり4人で思い出話をしていたのですが、まさかの16時50分に一人目の参列者が…
慌てて立ち上がり一礼をして記帳して頂きます。
社長と家族ぐるみでお付き合いされてたご友人で真っ赤に泣き腫らした目が深い哀しみを物語ってました。
「…ちょっと早く来すぎてしまって…ゆっくり◯◯君とお別れが…したくて…すみません」と。

それから、きっと同じ想いの人たちが続々とやって来て30分前には会場はもちろん玄関ホール、通路、玄関前にまで人が溢れかえっていました。

結果、お通夜には約900名の方々が来て下さいました。
そして数え切れないほどの方々が声を上げて男泣きしているのを見て、本当に社長は偉大で愛されていたんだな…と実感しました。

そして通夜の最後に会長(父親)がご挨拶をされたのですが、そこで社長のご遺体が病院からすぐに戻って来なかった理由が明らかになりました。

「臓器提供」

社長の健康保険証の臓器提供の欄に全ての臓器を提供する意思表示がされていたそうです。
脳死ではないので提供出来る臓器は限られたそうですが心臓弁膜・大動脈・眼球が摘出されたとの事でした。

会長のご挨拶の言葉の中に「現時点で眼球(角膜)だけは8人の方へ移植する事が決まっているそうです。息子の一部が誰かの役に立ち、そしてその8人の方の眼を通して亡き息子の代わりに綺麗な景色を見続けて頂ける事が何よりも嬉しい事です」と仰ってました。

そうなんです…
私も今まで臓器提供というと、いくら亡くなった後とは言え、ご遺体を傷付けられる(メスを入れる)事にとても抵抗があり怖いイメージしかありませんでした。

でも会長が仰ったように、本来なら火葬で灰と骨だけになってしまうはずの故人の一部がどんな形であれ生き続けるのは喜ばしい事ではないか?と思うようになりました。

もちろん、私もすぐに健康保険証と免許証に記入させて頂きました。
(ちゃんとお役に立てる健康な臓器であればいいのですが…)

ホームセンターの駐車場の車の中で声をあげて泣いてしまいました。
もう暗くなってたし雨も降ってたので周りには気づかれてない…よかった。

泣くだけ泣いてから家に帰った。
訃報を聞いて詳しい話を知りたい得意先の方からの電話や、知人からのLINEの対応で少しは気が紛れたのかも知れない。

でも…

やっぱり寂しい…

やっぱり辛い…

やっぱり悲しい…


彼のご遺体と対面するまでは信じたくない…いや、信じれるわけないやん!

そんな想いとは裏腹に彼のご遺体は病院から帰って来なかったのです。
紛れもない「病死」なのに何で??

その真相はお通夜で知る事になるのです。
こんな時に出かけたくもないのに猫の餌を切らしてた事を思い出して近所のホームセンターへ。

鳴りっぱなしの電話に出れなかったので、それも気になってホームセンターの駐車場で不在着信を1件ずつ辿ってゆく。

この時点でS君からある程度の話は聞いてたので情報の入ってない人達にはわかる範囲でS君に代わって正直に話そうと思ってた。
(S君は病院で電話に出れなかったから皆こっちに電話して来たんやろと思ったから)

先ず同僚のH君に電話をかけた。
私が電話に出なかった間に工場長から連絡があったらしく、だいたいの事は知っていた。H君もネットでいっぱい調べたって…。

他愛もない話で気を紛らわせながらも、社長が不在の間どうやって仕事を回すかH君とあれこれ意見を出し合った。
いつか戻って来る社長の為に、出来る限りの事はやって会社を守らないと…本気でそう思ってた。

次は同僚のUさんに電話をかけた。
Uさんは何も知らずに別件でたまたま電話をして来てたみたいでした。
朝からの経緯を説明すると少しパニックになっていました。

その時に工場長から着信が。
勝手に病院に押し掛けた事をまだわだかまっていた私は露骨に嫌そうに電話に出た。
案の定、上から「すごい厳しい状況やけど社長も生きようと一生懸命頑張ってるから、俺らは出来る事をやるしかないから明日からもお願いしますね」と言って来た。
(あんたに言われんでもわかってるわ)と心の中で呟いた。

一旦、店内に入って買い物を済ませて車に乗ったら、再びH君から着信が…。
「特に何もないんですけど」って、黙って待ってるのがしんどかったんやと思う。
私も誰かと話してる方が気が紛れるからと少し話し込んでいたら雨がポツポツ降って来た。

「ああ…雨降って来たわ…止むかな?」 

「止まない雨はないですよ」と言ったH君の言葉が色んな意味で心に響いて、また涙がこぼれてしまいました。

そこへ病院にいるはずのS君からキャッチで着信が…H君にその事を告げて一旦電話を切る。
(この時、私だけじゃなくH君も嫌な予感しかしなかったはずです)

「はい…」

「…今…社長…亡くなりました…」


異変を感じてから僅か7時間後に還らぬ人となってしまいました。

2020年2月16日 午後5時48分永眠(享年43歳)

現時点で社長の事を知っているのは、直前まで一緒にいてた従業員T君と社長のいとこでもある従業員S君、そして私の三人だけ。

いずれにしても翌日から会社は通常通り回さないといけないので、先ずはS君が社長の側近でもある工場長に連絡を入れました。
そして私が事務員さんに連絡を入れました。

いとこでもあるS君には搬送先に駆け付けた父親(会長)から「とにかく詳しい結果が出るまで待っててくれ」と連絡があったので、私とS君は気になりながらも待つしかなかったのです。

その時、事務員さんから「今からKさん(工場長)と病院行って来ます。また何かわかったら連絡しますね」とLINEが入りました。
もちろん会長からの待つように指示が出ている事も伝えてあります。

正直イラつきました。
S君も私も駆け付けたい気持ちを抑えて会長からの指示を守って連絡を待っているのに?
そもそも翌日からの業務の事を考えてS君と私が話し合って、あなた達に情報提供したのに?
まるで自分達が一番最初に知ったかのようにしゃしゃり出て病院へ押しかけて何かわかったら教えてあげますね…と言われてるようで返信する気にもなりませんでした。
(心の狭い人間やと思われてもええんです)

それから数時間後、S君から電話があって「会長から連絡あって僕ちょっと病院行って来ます。ほんまにちょっとヤバイかも知れないみたいで…」と。

この時点で、まだ詳しい状況はわからず脳梗塞なのか脳出血なのか…
脳梗塞なら手術して完全復帰している知り合いもいてるし…うん、大丈夫、絶対大丈夫。
脳出血でも場所によっては手術で出血を止めれれば大丈夫。しかも寸前まで自分で救急車呼んで奥さんに電話して置きっぱなしになる車の心配して…そんな重篤なワケないやん。

でも、そんな私に厳しい現実が突き付けられました。

『脳幹出血』

正直この病名を聞いた時(あ…厳しいな)って涙がこぼれ落ちました。
それでもすぐにネットでありとあらゆる脳幹出血の情報を検索しました。
数日間の意識不明から生還されて麻痺は残ったものの元気に過ごされてる方もいらっしゃって、例え0.1%でも可能性があるなら諦めたらあかんって自分を奮い立たせてました。

後に知った話ですが…
救急搬送されてすぐに処置が施された時、医師からは「非常に…非常に厳しい状況です。(出血が酷かったようで)万が一、一命を取り留めても社会復帰は確実に無理でしょう」と宣告されていたそうです。

そこからは徐々に連絡が回っていたのか、とにかく情報を知りたい人たちからの電話が鳴り止みませんでした。


2月16日(日)特に予定もなかったので、今日はゆっくり身体をリセットしようと撮りだめしていたドラマを見ながらゴロゴロしてました。

10時半頃だったか…
電話が鳴ったので画面を見ると、社長のいとこでもあり従業員のS君からでした。
(何故か昨日以上に胸がザワつきました)
S君とは従業員の中で一番長い付き合いで仲もいいけど、LINEとかメールではなく、わざわざ電話…しかも休みの日に?それはすごい珍しい特別な事やったから。

ザワザワしながら電話に出たら、案の定いつものS君からは想像出来ないほどの暗い声で「休みの日にすみません…社長の事聞きました?」と。

S君は淡々と話し始めました。
先ず、一緒に教習所(卒検)に行ってた従業員のT君から電話があって卒検合格後、合格証明書が交付されるのを社長と二人で待っている時に、社長が「頭が痛い」と言って自ら救急車を呼んだそうです。
(恐らくあれだけ病院嫌いの人が救急車を呼ぶぐらいやから相当な痛みだったのでしょう)

そこから自分で奥さんに電話をして事情を説明してたそうです。
(搬送先はわからないけど、とりあえず救急車で病院へ向かう事を伝えたようです)

そしてT君に教習所に事情を説明して自分の合格証明書を受け取っておいて欲しい事と、教習所まで乗って行ってた自分の車をS君に連絡して取りに来てもらって自宅の駐車場に停めておいて欲しいと鍵を預けたそうです。
(ここまでは普通にやり取りをしていたのでT君もそこまで重大な事になるとは思ってなかったようです)

T君が言われた通りS君に連絡を取り、合格証明書を受け取りに行ってる間に救急車が到着していて、戻った時には救急隊員の呼びかけにも反応が悪く名前を聞かれても全身が麻痺して喋れる状態ではなかったそうです。

社長の情報はT君が全て救急隊員に伝え、家族とも連絡が取れたのでT君はそのまま教習所でS君を待つ事になり、社長の運命は搬送先の病院へと委ねられたのでした。

全てを話し終わったS君と全てを聞き終わった私は「でも社長の事やから大丈夫!あ〜マジで死ぬかと思ったわって2〜3日したら帰って来るわ」と不安を払拭するかのように、お互いを言い聞かせてました。
亡くなる前日の2月15日(土)は仕事が終わってから事務所で雑用してたら、彼がおもむろにスマホを近付けて来て「見て見て!やっとバイク来てん!明日卒検受かったらその足で門真(試験場)行って免許書き換えしてバイク取りに行くねん」意気揚々とバイクの画像を何枚も見せて話してくれました。

そうでなくても社長・PTA会長・地域の活動など超多忙を極める中で、何を思ったのか元々取得している普通二輪免許から大型二輪免許を取得すると言って従業員の一人を誘って1月から教習所へ通っていました。

嬉しそうにバイクの画像を眺めてる彼に思わず言ってしまいました。

「ほんま無茶したらアカンよ。こっちが気付けててもバイクなんて身体剥き出しやから当てられたら大怪我、下手したら命取りやで!そもそもバイクだけちゃうで、自分が思ってるほど若くないねんから健康にも気つけなアカンよ!わかってる?背負ってるもんが大きいねんからちゃんと自覚してよ」と。

今思えば従業員が社長に対して言う言葉じゃなかったんやろけど、その時は何故か胸がザワついてバイクの事故だけじゃなく病気や健康の心配もよぎってしまったんよね。
普段から体調悪くても我慢するのがカッコイイと思ってるのか?多忙を言い訳に病院にも行かないし、とんでもないお酒の飲み方と量にいつどうなってもおかしくなかったのは事実やし。

それでつい、従業員の域を超えて説教じみた事を言ってしまって…ごめんなさい。
(また始まった…)みたいな顔しながら「はいはい、わかりました。無茶しません!気つけます!はよ帰れ!笑」って言われて、私が「お疲れ様でした。じゃ明日頑張って」
それが彼と交わす最後の言葉になってしまうとは夢にも思っていませんでした。
私にとって、とても大切な人が亡くなりました。

勤務先の社長であり、友であり、同志であり、弟のような存在でした。

彼が会社にアルバイトで来ていた大学生の頃からの付き合いで、卒業後正式に入社して次期社長として日々奮闘する中で、お互い仕事や会社に対する思いや悩みをよく語ったりしました。

お酒が大好きでよく飲みにも行きました。
私の親友のお店で「1年分キープしとくわ」と言って一番高いお酒を10本ボトルキープしてくれるええかっこしいの人でした。

娘がまだ小学生の頃、翌日のパソコンのテストに備えてタイピング練習をしていたら不具合が起きてしまってパソコンに詳しい彼に電話で相談したら、すぐに駆け付けてくれてササッと直して帰ったと思ったら「あ、忘れてた。◯◯(娘の名前)にあげといて!ドア」とメールが来て玄関のドア見たらドーナツの入った袋が…そんな気遣いの人でした。

5年前に親友が亡くなって私がドン底の時も、毎晩しょうもないLINEを送って来て何とか笑かそうとしてくれる優しい人でした。

仕事で私が教育してた新人が、どうしても遅刻と身勝手な行動が改善されず頭を悩ませていたら、彼一人が悪者になって苦渋の決断で解雇するという正義の厳しさもある人でした。

社長に就任してからは立場上少し距離を置いて接していましたが(お互いええ大人になったので…ね)
気がつけば、いつも私の味方でいてくれて、いざと言う時は本当に頼りになる立派な経営者になっていました。

会社の業績も右肩上がりで、従業員の給料も大幅にアップして、過去になかった臨時ボーナスも出たりして、ここ数年中断されていた慰安旅行も再開されて今年の旅行の計画も考えてて、以前は年1〜2回の親睦会も頻繁に開かれる様になって従業員同士の関係も今まで以上に深まって、これからもっともっと良くなって行くんやろなって思ってた矢先やったのに…。

2月16日の朝にかかって来た電話が全ての始まりで、そして全ての終わりになって私の心は折れてしまうのでした。





トイレ行ってる間にワタクシのクッション取られましたわ。

お猫様鎮座されてます



ねえねえ?どいてくれません?




は?何か?みたいな顔しやがって!






めちゃくちゃ可愛いやないかいラブどんな情緒やねん。笑






今宵も始まりました

意味なく這いずり回るやつ