私は勉強ができるかというと、「そこそこ」である。
高校は偏差値60前後。悪くもなく良くもなく。
そして1年浪人して、偏差値60前後の大学に行くことができた。
現役の時は偏差値40のところに落ちたわけだが、
1年間で偏差値が20ほど上がった。
年齢が40を過ぎた今でも、当時が一番頑張ってたなと思う。
なぜそこまで頑張ったのかというと、
「今頑張っておけば将来楽できる」と考えていたからだ。
もちろん、多くのことを学べるとかより高度なことができるようになるといった熱意もあったわけだが、
でもなにが本心だったかというと、「将来楽するため」。それがかなえられるのであれば、今どれだけでも頑張れると思っていた。
でも実際は違った。
いまいる世界は、「頑張れる人間が頑張る社会」だった。
例えば、医者になるにはおおよそ偏差値70という、死ぬほど努力しないといけない世界である。
その努力ができ、そしてその努力を成果として出せる人間は、
次に治療という、高校学力よりもさらに高度な知識量と鍛錬が必要になる。
(つまり、医学部に入って、医者になるというプロセス)
その医師としての経験を積むと、
その臨床に加えて「研究」という、医療をさらに良くするための仕事をしないといけない。
(つまり、医学部に入って、医者になって、研究する)
その「研究して論文を書く」という業績をためると、
学会で目立つようになり、学会のなかでの委員会や理事などに推薦される。
(つまり、医学部に入って、医者になって、研究して、学会で理事になる)
そうした実績が評価され、ゆくゆくは学長や病院長になったりとなっていくのがいわゆる「できる人間」ということだろう。
これはおそらく医師の世界だけでなく、いろんな領域でも同様な状況があるように思う。
そうしたプロセスを見ていくと、たしかに努力して努力して、その先に見える世界はその人しか成し遂げられない偉業かもしれない。
しかし、私が思っている「努力するのは楽するため」という目的とは大きく異なる。
努力できる人間がさらに努力を求められる世界なんだ。
たしかにそうした偉業というものは歴史として名を残し、「私がたしかにそこにいた」という痕跡は残るかもしれない。
でもそれが本当に自らを幸せに導いてくれるのだろうか。
いや、そもそも、それをだれが「幸せ」と評価するのかは自分だけである。
その「偉業」というものを残すために、生活であったり家族であったり、
いろんなものが犠牲になるのであれば、それは本当に幸せと言えるのだろうかと私は思ってしまうのである。
最近は病院長であったり学長であったり(教授もしかり)、
不祥事という名で辞職をもとめられるニュースが出たりしている。
でもその内容を見ていると、「これはそこまでの責任を求められることなんだろうか」と思わざるを得ない、ごく些細な内容だったりする。
死ぬほど努力してきたのに、そんな重箱の隅をつつかれてキャリアを失うなんて、酷すぎると思う。
それなら、「じつはもっと努力をできるだけの能力はあるけれども、そこまでストレスがかからず、責任もそこそこで、生活も充実して、家族との思い出をしっかり作る」というほうが充実してるのではないか。
40代になったいま、いろんな仕事が舞い込んできて、
「あなたはできるんだからやってよ」「あなたしかいない」という雰囲気や無言の圧力を感じて、
なんだかやらざるを得ないような状況に追いやられてきているが、
そろそろ仕事量と自分の時間の使い方を考えないといけないと思う。
断る努力をしないと、死ぬまで努力しないといけなくなり、
自分が思い描いてきた「楽して生きたい」という願いがかなえられなくなる。
そう考えたときに、自分の娘が中学2年生で、
まったく勉強をしない。テストも散々。
高校なんか行けるのだろうかと思えるほどの点数しか取れない。
勉強しろといっても1日も続かない。
でもそこで、上記の考えが自分に浮かぶ。
自分にとってものすごいストレスに感じるこの「勉強」を、なんとか努力して、目標の高校に行ったところで、さらに勉強をしないといけない環境になり、いやな勉強をもっとしないといけなくなって、留年することになってしまうのでは・・と思ったりするわけである。
いや、高校はたしかに楽しい。ぜったいに行ったほうがいい。
それは確かだが、、、
起こされないと起きない時間に起こされ、ほぼ目が開いてない状態で机に向かわされ、夜も寝たいのに怒られながら机に向かう。
この状態が本人にとって本当にいいのだろうかと、とても葛藤する。
人生も子育ても、本当に難しい。