3/20(日)は、毎月通った新選組講習会の最終回でした。





もらった最後のレジュメ。

前々回あたりから池田屋事件に入ったんですが
しょうがないんだけど
もうめっちゃ途中で終わった・・・ちーん


しかも、講習会の前はお墓参りだったので
疲れが出てきたのか睡魔が・・・ayaaya

なので、途中から睡魔との戦いでした(-"-;A



今回のテーマは「なぜ池田屋だったのか」。

池田屋事件については、何度も書いてるので
今回は印象に残った部分を書いていきます。



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池田屋事件の舞台になった、池田屋惣兵衛方ですが
その創業はいつなのか不明だそう。
少なくとも、ペリー来航の2年前の嘉永4年(1851年)版の
「商人買物独案内」に記載が見られるそうです。

その中に、池田屋の位置として

三条小はし(橋)西入、北かは(側)、七けんめ(軒目)

と記載されているそうです。

なので、現在、池田屋の石碑がある場所は
6軒目にあたり、この記載通りに言うなら
そのお隣の明治屋の場所が
本来の池田屋の位置になるんだそうですが
そう言いきれない、とのこと・・・(;^_^A


そして池田屋は、「長州の常宿」として書かれてることが多いんですが
それは安政の大獄の頃の話で
毛利家の政治活動での使用はほとんど出てこない。

なので、探知されにくいと判断されたため
この日、池田屋を選んだのでは?とおっしゃっていました。
(これは前にも書いてたかな・・・)

言い換えれば、それでも新選組はこの池田屋の情報を
キャッチしていたことになるので
情報収集力に長けていたことになる、ってことでしょうか。



その後、当時京都居留守役だった
乃美織江の書簡を読んだんですが・・・・この辺で睡魔がちーん



・・・・・・コホン//////あせる



で。←



事件当日の探索経路で、近藤さんの書簡に触れました。


<近藤さんの書簡>

速やかニ御守護職、御所司代へ此の段御届ケ申し上げ候ところ
速やかニ御手配、其の夜五ツ時相い約シ候ところ
惣方御人数御繰り出し延引、時刻茂移り候間
局手勢の者ニ 三条小橋縄手二ヶ所ニ屯(たむろ)致し居り候ところへ
二手二分ケ四時頃打ち入り候ところ・・・・




ここに書かれてる「時間」を
山南忌の時に釣先生にいただいた資料を参考に現在の時間に換算すると

守護職、所司代と落ち合う約束をしたのが
夜五ツ時→21:13。

そして、池田屋に突入したのが
夜四ツ時→22:37。


となります。

こうして見ると、今まで私の中にあった
池田屋事件当日の時間が、全く違ってたことがわかるんです。


そして、探索場所ですが

「三条小橋」は池田屋のこと。

「縄手」は土方隊が探索したルートである「縄手通り」のことを指しています。



(縄手通り(大和大路通り))


(三条通りから見た木屋町通り)



ですが、通説では「四国屋重兵衛 丹虎」とされていますが
これは明らかな間違い。

京都で史跡巡りをされた方や、四国屋の場所を知ってる方は
ピンとくると思うんですが
四国屋があるのは「木屋町通り」。
しかも、池田屋と目と鼻の先です。


なので、土方隊が目をつけていた場所は

・高杉晋作が定宿としていたことで有名な「魚品(うおしな)」

・宮部鼎蔵が定宿としていた「小川亭」



のことなのではないか?

とおっしゃっていました。


私もどこかの本で、魚品が所有していた手記の中に

池田屋事件当日に、土方さんが来た

との記録があったことが発見されている

と書かれたのを見たことがあったんですが・・・。
ちょっとどの本だったのか忘れちゃいましたちーん




・・・・というところで、バッサリ講習会終了ちーん

めっちゃいいとこで終わったっていう(爆)




中村先生も「申し訳ないです・・・」と繰り返してらっしゃいました。

この講習自体がスタートして2年半とのこと。

でも、私がこの講習に参加し始めたのは、2014年の夏だったと思います。


1年半、本当に楽しく通わせていただきました。


この講習に参加して、新選組があの幕末という時代の中で
どういう位置にいたのか・・・

本を読むだけはわからなかった、新選組の姿を見た気がします。


講習が終わってしまうのは、本当に残念ですが
またいつか再開されるのを楽しみにしております・・・。



ふぅ・・・。

私も次に何か単発の講習でも探さないとな鼻の下のばしすぎ