これも記録として、まとめておきます。

池田屋事件に続く、町田先生のツィート。

それに、先週末の中村先生の新選組講座で
教えてもらったことも
ちょっと自分の復習として
付け加えておこうかと。

またもや、とてつもなく長いので
興味がおありの方、お時間のある方は
読んでいってくださいね♪




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今年の大河には、会津藩の姿が全く見えない。
禁門の変においても、長州藩の最大の仇敵は
八月十八日政変の表の主役である会津藩・松平容保
(裏の主役は薩摩藩・高崎正風)のはずである。
確かに、事実上は薩長の激突かも知れないが、少し雑な展開かも知れない。



禁門の変直前の中央政局について、少々。

元治元年(1864)7月2日。
幟仁親王・朝彦親王・熾仁親王・晃親王・二条斉敬・近衛忠房・一橋慶喜等による朝議があり
慶喜は早急な征討の回避を主張した。


この段階では薩摩藩等が出兵を渋っており
かつ親長州藩の廷臣・諸侯の動静が侮れないとして
慶喜の強硬論は一時影を潜め、干戈(かんか)を交えずに穏便に退京・帰藩させることを企図した。
朝廷もその方針を容認したため
翌3日、大目付永井尚志・目付戸川忠愛を伏見の福原の許に派遣した。


そして、天龍寺等から撤兵・帰藩させ
少数の兵のみを伏見に留め、福原越後は当地にて沙汰を待つように命じた諭旨(6月29日、一橋慶喜受領)を示したが
翌7月4日になって福原はこの朝命を事実上拒否した。


長州藩の頑なな態度にも拘らず
一橋慶喜は5日の朝議でも同様に、穏便に退京・帰藩させることを主張し
翌6日、諸藩と協力の上、長州藩士等に諭して京都近郊より退去させるように沙汰した。
慶喜は、対馬藩士樋口謙之允・鳥取藩士山部隼太等を派遣したが
福原を説得できなかった。


このような切迫した情勢の中で
8日、山崎駐屯の久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎・真木和泉等は
再び老中稲葉正邦に、退去命令には従えない旨を陳述し
嘆願の聴許を朝幕に懇請し
福岡・芸州・会津・対馬・薩摩・鳥取・土佐・肥後等の諸藩の京都留守居に嘆願書を回覧し寛典の周旋を依頼した。



この段階で、容易に嘆願が聴許されないこと
一方で長州藩に同情する廷臣や諸侯が多数存在することから
福原を始めとする久坂・入江・寺島らの要路は一旦大坂まで退き
世子定広(※)の到着を待つことを主張したが
来島又兵衛・真木和泉の強硬な反対にあって実行は叶わなかった。

※「世子定広」は、毛利敬親の息子・毛利元徳のこと

長州藩勢は続々と上京を開始し、兵力を京都に集中し始めた。
7月9日、率兵上京した国司信濃は山崎に到着し
伏見から福原も合流して軍議を開き
朝幕双方に対して寛典の方針がなければ容易に撤兵できない旨を建言した。


14日には益田右衛門介の部隊が石清水に到着し
三家老が洛外に揃って布陣して京都の情勢を窺う姿勢を示した。
世子定広も13日に山口を発ち
14日には三条実美ら五卿と共に三田尻を解纜して大坂に向かった。


禁門の変後の周旋活動を行うことになる岩国領主吉川経幹は
内心は時期尚早論であったが
本藩と存亡を共にする決意を固めて殿備を務めることになり
18日に鞆の浦に定広を迎え、共に東航を開始した。
禁門の変は、そこまで迫っていた。



さて、7月17日。
男山において長州藩幹部らは軍議を開き
久坂玄瑞・宍戸佐馬介は勅命を受け入れ
兵庫まで撤兵して世子定広の上京を迎えた上で進退を決すべきと主張。
しかし、来島又兵衛や真木和泉は自重論に反対した。


↑これが、石清水八幡宮での軍議かと。

来島又兵衛は、今回の事態に至ったのは全て松平容保のためであるとし
その征討の軍を進めることを強弁
真木和泉も同意したため、大勢はそれに決した。

18日、家老福原越後・国司信濃・益田右衛門介および真木・入江九一は朝幕に
容保を京外に追放して誅伐する勅命を懇請する嘆願書を呈した


ちなみに、この三家老のうち
大河で登場したのは福原越後だけでした( ̄ー ̄;
あと、真木和泉も登場していません・・・。


この動向を受け
18日夕刻に有栖川宮幟仁親王・熾仁親王・大炊御門家信・中山忠能・橋本実麗等は急遽参内
長州藩の嘆願を受け入れた松平容保の追放を奏請(※)した。
この親長州藩廷臣の動向は、実は長州藩と鳥取藩が中心となって
岡山・加賀藩とも通じたクーデター計画に則ったものであった。


※奏請(そうせい)…天子さまのお許しをいただくこと。


しかし、八月十八日政変を真似たクーデター計画はあっけなく失敗に帰する。
その最大の誘因は、孝明天皇がこのクーデターに全く与(くみ)しなかったことである。
八月十八日政変は薩摩藩の周旋を踏まえた朝彦親王からの奏聞を受け
天皇自身が決断をした朝廷の人事改革と言えるものであった。


しかし、今回は長州藩の意を受けた在京鳥取藩士が中心となって
有栖川宮幟仁親王を始めとする親長州藩廷臣を取り込んで進めたもので
事前に孝明天皇の同意を得られない中、見切り発車的に発動したものであった。


有栖川宮幟仁親王らの列参に対しても
孝明天皇は冷静に対処し、自派の廷臣を至急招来した。
午後十時頃に朝彦親王・晃親王・二条斉敬・徳大寺公純・近衛忠房等は急ぎ参内し
大炊御門家信等からの容保征伐の議を不可として、激しい論争を繰り広げた。


深夜2時頃、慶喜もまた召命を受けて参内し
小御所における御簾前朝議において
関白以下列参廷臣全員の前で容保征討の不可を力説し
最早長州藩が鳥羽方面で戦火を交えており
その罪状は明白であるとして長州藩追討の勅許を求めた。


この慶喜の獅子奮迅の奏聞によって
遂に19日早朝に慶喜以下在京諸藩主に対して
「長州脱藩士等挙動頗差迫、既開兵端之由相聞、速総督以下在京諸藩兵士等、尽力征討、弥可輝朝権事」と
長州藩追討の勅命を下した。


この情景について、正親町三条実愛は
親長州藩廷臣は憤懣やるかたない体で退散し
また、武臣の分際で朝議が仕切られる事態を不当の至りとしながらも
この混乱状況における特例として、その罪が許されたとしている。


なお、一会桑勢力の結成については諸説あるが
現時点では、この長州藩征討の勅命をもってその成立としたい。




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この後、薩摩藩側から見た禁門の変の
中央政局についても解説してくださってましたが
ここでは省きますー。



これを読んでもらってもわかるように
この禁門の変の最大の目的は
会津藩主・松平容保公の首でした。

この戦争で、蛤御門が一番の激戦区だったのは
有名な話ですが

どうして、蛤御門が激戦区になったのかというと
蛤御門を入ってすぐのところに
凝華洞があったから。

この凝華洞は、別名「御花畑」と呼ばれていて
会津藩の役所(容保公の宿舎とも)だった場所でした。


長州藩は容保公の首を狙ってきているので
凝華洞が近い、この蛤御門が一番激戦区になった

ということだそうです。


で、この凝華洞(別名「御花畑」)。

八月十八日の政変のときに、新選組が
警護した場所でもあります。

大河ドラマ『新選組!』で、この御花畑は
全然、意味のない場所に描かれていたんですが
そうではなくて、会津藩の役所という
めちゃ大事な場所を新選組は任されていたんです。

特に何もしてなくても、「そこにいた」という信頼。
すごく重要な存在であることを示したこと。
この功績が讃えられて
のちに「新選組」という名前をもらうことになります。


中村先生は以前、

「三谷さんは、「御花畑」をよくご存知ではなかったんでしょう」

とおっしゃっていましたがσ(^_^;)



やっぱり歴史って面白いね。


こうして、長州側から見た甲子戦争を見ながら
新選組の位置づけを考えるのも
すごく面白い。



来週の『花燃ゆ』は、ついに久坂玄瑞が
寺島忠三郎と鷹司邸内で自刃。

私、あの『新選組!』でも
ここの場面は涙が出たんです涙

そして、入江九一(要潤)も
顔面に槍をつかれて亡くなっているので
その辺をどこまで描くのか楽しみです。

あの要潤さんのキレイな顔を
槍で刺すシーンはあるんやろか・・・汗