前回の続きです。
今回も前回同様、かなり長いです。
(いや、前回以上に長い)
でも、すごく興味深いというか
Twitter上でこのような解説していただけるのは
ほとんどないと思うので書き留めます。
興味ある人は読んでいってくださいねヾ(@°▽°@)ノ
その前に・・・21日放送の『花燃ゆ』。
「やっぱり!」と言ってしまいそうですが
あの放送の後、NHKに批判が殺到したようで
でも、あれじゃー殺到するよなぁ
あの後、かなり消化不良になったよ(・Θ・;)(笑)
では、両先生のこの日のツィート。
自分用の記録ですが、まとめておきます。
今日は、町田先生が解説された
吉田稔麿メインの池田屋事件です。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

吉田稔麿の最後を追って見たい。
最初に、塩屋兵助・源助書簡(里村文左衛門宛、6月12日)である。
塩屋兵助は稔麿の定宿旅館(二條寺町東入)の主人であり
源助はその子息で、里村は稔麿の伯父である。
なお、里村と塩屋はかなり親しい間柄であったらしい。
その書簡は以下の通り。
当五日早朝御家来御遣しにて御他出の趣御申こし
則小袴脚半たび様の品御入用之趣夕方迄調置候様御申に付早速罷こし候所
猶御注文の品有之夕方持参致候所
何かと骨折呉候様御一礼有之
御機嫌よろしく程なく帰宅いたし候所
尤其節何か御寄合と相見へ四五人様御相談に御座候
四ッ時此御屋舗へ鳥渡御帰り被成九ッ時頃又候池田屋へ御越の所
無程多人数罷越候趣にて余程御言合被遊候と相見候
則加州様御屋舗まへしなの屋と申酒屋の門口にて多人数取懸り
終に其傷にて残念之次第に御座候
明六日明まへ御屋舗へ御引に相成候よし、七日霊山へ御送りのよしに御座候
↑本を読んでいると、毎回のごとく
このような書簡が出てきますが
私は、読めそうな部分を端折って読んでいます
吉田稔麿は、何らかの急用でどこかに出立することになったらしく
6月5日早朝、塩屋に使いを送って夕方までに旅装を整えて欲しい旨を依頼した。
塩屋は早速その依頼品を届けたが、更に注文品があり
これを夕方届けたところ、稔麿は上機嫌に礼を述べている。
その時、稔麿は4,5人と既に密談をしていた。
桝屋の手入れは辰五ツ時(午前6時40分頃)から巳四ツ時(午前9時30分頃)なので
古高奪還を目的としての依頼品所望ではなかった。
届先であるが、塩屋兵助の妻である雪女書簡(里村宛、6月13日)には
「日暮に源助池田屋迄持ち来り候」とあり
2回目は源助が夕方に池田屋まで持参していることが確認できる。
そうなると、志士たちは既に夕刻までには池田屋に集まり始めていたことになり
その中心人物であった稔麿は最初からそこに居合わせていた。
更に、2回目の依頼品を池田屋に直接届けさせていることから
その夜の会合は古高の捕縛の有無に関わらず
既に予定されていたことが確認できよう。
その後、稔麿は巳四ツ時(午後10時30分頃)
池田屋から一旦長州藩邸に戻っていた。
つまり、新撰組が池田屋に突入した巳四ツ時には池田屋にはいなかった。
稔麿は京都での古高奪還計画等の後事を桂小五郎に託し
自らは明日の出立に備えて帰邸した。
そこで、「吉田様始皆々様御立の御酒にて、夢にも御存じなき処へふいをうち」
池田屋脱出者の注進があった。
よって、奇しくも池田屋での戦闘が終わろうとしていた子九ツ時(午前零時頃)
再度池田屋に向かうため藩邸を飛び出した。
しかし、早くも加賀藩邸前の「しなの屋」という酒屋の門口において
二条通から御用改をしながら新選組と三条付近で合流するため
南下していた会津藩兵等多数に遭遇し、討死してしまった。
その遺骸は6日夜明け前に長州藩邸に収容され、7日には霊山に葬られることになる。
近野勝之進・原善兵衛書簡(阿武久兵衛宛、6月7日)によると
「六日之夜、三條定宿池田屋惣兵衛方へ壬生浪士其外乱入之由注進有之候付
不取敢吉田稔麿杉山松介両人邸内罷出候処
途中において吉田狼藉ものへ出会及刀傷深手負即死
松介儀ハ深手負邸内へ罷帰り夕方相果申候
時節と申なから残念と申も疎に御座候」
とある。
これによると、稔麿は池田屋での異変の注進が届くと
杉山松介とともに藩邸を飛び出したが
途中で会津藩兵等に遭遇し、稔麿は即死
杉山は重傷を負いながらも藩邸に戻り、翌日の夕方に死亡している。
近野・原は当時京都藩邸におり
しかも、この書簡は池田屋事変後に最も早く認められたことから
池田屋への新選組突入時
稔麿がそこにいなかった確かな証左と言えるものである。
稔麿は池田屋に向かうために藩邸から出てしまったために
全く偶然に遭難していることが確認できる。
「吉田稔麿関係文書」(諸家文稿尺牘)にある
「筆者不明元治元年六月五日直後」と表題が付された書簡によると
「右大変(新選組による池田屋突入)御屋敷へ相聞へ
對州屋敷へ用事有之参り掛ケ途中ニ而戦ひ候もの
深手にて翌朝死ス・杉山松介、薄手・淵上謙蔵」
とある。
これによると、杉山は対馬藩邸に向かう途中で遭難したことになるが
吉田稔麿らの関心は、稔麿が直前まで桂小五郎と池田屋で会していたため
桂の安否に集中していた。
桂が池田屋にまだいるか、または対馬藩邸にいるかのどちらかと考えたのだ。
桂小五郎の「自叙」にも
「松助は此夜變を聞き余を尋て池田屋に来らんと欲し、途中賊の為に斃さる」
とあることから、桂の安否を気遣い
吉田稔麿は池田屋に、杉山松助は対馬藩邸に向かったのであろう。
杉山松助は、ほぼ知られていないが
山県有朋や品川弥二郎から極めて高い評価を得ている。
その品川いわく
「吉田稔麿が第一じゃ。生きて今頃いるなら据え置きの総理大臣で。
次は杉山松助、これは大蔵大臣だ。
久坂は万能に通じ、高杉は奇智に長け
佐世八十郎(前原一誠)は勇、入江九一に寺島忠三郎、此の二人も豪かった。
先ず此の七人が傑出の人物であろう。中んずく吉田は特別豪かった」
稔麿もさることながら、杉山松助の評価が高い。
まとめると、吉田稔麿は当日の夕刻までには池田屋に赴き
当初から予定されていた会合の段取りをつけ
遅参した桂小五郎に後事を託して帰藩した。
しかし、池田屋への新選組突入の注進があり
桂の安否を気遣うあまり
藩邸を飛び出すや否や会津藩兵に遭遇し、討死したのだ。
稔麿はその当時、何故在京していたのか。
そもそも、上京は元治元年4月末から5月初旬であった。
文久3年末より長州藩の攘夷実行、小倉藩との確執、朝陽丸事件等によって
著しく悪化していた長幕関係の中で
稔麿は江戸において老中板倉勝静に入説するなど
両者間の融和運動に奔走している。
今回の吉田稔麿の使命も、出府して幕閣に対する長幕融和交渉を継続することにあった。
しかし、上京時は将軍家茂が滞京中で、元治国是が確定したばかりであった。
朝廷の幕府への依存が明白となって、稔麿が出府しても何ら成果が望めない状況にあった。
桂小五郎は手薄な中央政局において
稔麿の周旋能力を大いに期待したため、その出府は当面見合わせとなった。
八月十八日政変以降、長州藩は朝譴を被り、留守居役以外は在京できなかった。(※)
稔麿はこの時点で、関口敬之介という変名を用いていたが
まさに命がけの周旋活動が継続されていた。
※居留守役だけでなく、名簿に載せた正規の大名屋敷職員全体です。
(中村先生のツィートより)
吉田稔麿の在京目的は、桂と共に中央政局の情報探索にあたり
かつ、志士の活動を統率しながら、長州藩に同情を寄せる諸藩に入説して
自藩に有利な情勢を作り上げることにあった。
吉田稔麿の事績は多岐に渡っているが
特筆すべきものの一つが文久3年末から翌元治元年にかけての
長幕間の裏面交渉とでもいうべき融和運動であった。
稔麿自身が着想したこの周旋を藩が容認し
その円滑な実行を企図して遠近付にまで昇進させており
藩要路の稔麿への多大な期待が読み取れる。
吉田稔麿の突然の死は、長州藩と幕府、双方にとって調整弁を失ったことになり
計り知れない痛手となったことは間違いない。
それは、長幕融和の唯一の可能性を逸することになり
その訃報は池田屋事変という衝撃的なニュースとともに
長州藩内に激震を走らせたことは疑いない。
吉田稔麿は、死の数ヶ月前に著した『東風不競密話』の管見の中で
当面は「猛虎の深山によるの勢をなし
徒然動くべからず」として、藩地に割拠し人心を鎮静化して規律を整え
倹約に励んで武備充実・富国強兵を図れば
いずれは中央政局での覇権を握れるはずであると断言している。
こうした吉田稔麿の見解は
その後の長州藩の方針に大きな影響を与えたと考えるのが妥当であり
稔磨の先見性も十分に評価すべきであろう。
稔麿の存在があったならば
また違った維新史の局面を見ることができたことは想像に難くない。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
あーーーー長かったーーー
リアルタイムでツィートを読んでるときは
全然そんなことなかったんだけど
こうして、まとめてみると
すごい量だった・・・
ていうか、町田先生の説明
めちゃわかりやすい
最後に先生は、後半に書かれた
稔麿さんの活動の部分が、今回完全なスルーだったため
準メイン級で登場しているのに
多くの視聴者の記憶には残らないだろう、
とおっしゃっていました。
これだけ、稔麿さんのことがわかってるのに
なんでそれをちゃんとやらんかったのか?
本当に残念です

私、正直なところ、大河を観てるより
この先生方のツィートを読んでる方が
断然、面白かったです
でも、今まで自分が思っていた
池田屋事件と全然違うというか・・・。
私は、俊太郎さまが新選組に捕縛されて
その奪還と、新選組の屯所の襲撃について
話し合うために、池田屋に集合したと
思っていたので
すっごい勉強になりました。
あと、稔麿さんが、会津藩兵に大人数で
なぶり殺しのようだったのは
大河ドラマの通りだそうです。
あぁ・・・歴史に「もしも」はないけど
あの時、藩邸を出なければ
こんなことにはなってなかったと思うと・・・
志半ばで、本当に無念だったろうなぁ。
でも、Twitterって
こんな使い方があるんですねー。
私は過去にTwitterで
すごく嫌な思いをしてるので
あんまり好きじゃないんだけど(;^_^A
こういう使い方はいいな、って思います
ここまで、お付き合いくださり
ありがとうございます
今回も前回同様、かなり長いです。
(いや、前回以上に長い)
でも、すごく興味深いというか
Twitter上でこのような解説していただけるのは
ほとんどないと思うので書き留めます。
興味ある人は読んでいってくださいねヾ(@°▽°@)ノ
その前に・・・21日放送の『花燃ゆ』。
「やっぱり!」と言ってしまいそうですが
あの放送の後、NHKに批判が殺到したようで

でも、あれじゃー殺到するよなぁ

あの後、かなり消化不良になったよ(・Θ・;)(笑)
では、両先生のこの日のツィート。
自分用の記録ですが、まとめておきます。
今日は、町田先生が解説された
吉田稔麿メインの池田屋事件です。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

吉田稔麿の最後を追って見たい。
最初に、塩屋兵助・源助書簡(里村文左衛門宛、6月12日)である。
塩屋兵助は稔麿の定宿旅館(二條寺町東入)の主人であり
源助はその子息で、里村は稔麿の伯父である。
なお、里村と塩屋はかなり親しい間柄であったらしい。
その書簡は以下の通り。
当五日早朝御家来御遣しにて御他出の趣御申こし
則小袴脚半たび様の品御入用之趣夕方迄調置候様御申に付早速罷こし候所
猶御注文の品有之夕方持参致候所
何かと骨折呉候様御一礼有之
御機嫌よろしく程なく帰宅いたし候所
尤其節何か御寄合と相見へ四五人様御相談に御座候
四ッ時此御屋舗へ鳥渡御帰り被成九ッ時頃又候池田屋へ御越の所
無程多人数罷越候趣にて余程御言合被遊候と相見候
則加州様御屋舗まへしなの屋と申酒屋の門口にて多人数取懸り
終に其傷にて残念之次第に御座候
明六日明まへ御屋舗へ御引に相成候よし、七日霊山へ御送りのよしに御座候
↑本を読んでいると、毎回のごとく
このような書簡が出てきますが
私は、読めそうな部分を端折って読んでいます
吉田稔麿は、何らかの急用でどこかに出立することになったらしく
6月5日早朝、塩屋に使いを送って夕方までに旅装を整えて欲しい旨を依頼した。
塩屋は早速その依頼品を届けたが、更に注文品があり
これを夕方届けたところ、稔麿は上機嫌に礼を述べている。
その時、稔麿は4,5人と既に密談をしていた。
桝屋の手入れは辰五ツ時(午前6時40分頃)から巳四ツ時(午前9時30分頃)なので
古高奪還を目的としての依頼品所望ではなかった。
届先であるが、塩屋兵助の妻である雪女書簡(里村宛、6月13日)には
「日暮に源助池田屋迄持ち来り候」とあり
2回目は源助が夕方に池田屋まで持参していることが確認できる。
そうなると、志士たちは既に夕刻までには池田屋に集まり始めていたことになり
その中心人物であった稔麿は最初からそこに居合わせていた。
更に、2回目の依頼品を池田屋に直接届けさせていることから
その夜の会合は古高の捕縛の有無に関わらず
既に予定されていたことが確認できよう。
その後、稔麿は巳四ツ時(午後10時30分頃)
池田屋から一旦長州藩邸に戻っていた。
つまり、新撰組が池田屋に突入した巳四ツ時には池田屋にはいなかった。
稔麿は京都での古高奪還計画等の後事を桂小五郎に託し
自らは明日の出立に備えて帰邸した。
そこで、「吉田様始皆々様御立の御酒にて、夢にも御存じなき処へふいをうち」
池田屋脱出者の注進があった。
よって、奇しくも池田屋での戦闘が終わろうとしていた子九ツ時(午前零時頃)
再度池田屋に向かうため藩邸を飛び出した。
しかし、早くも加賀藩邸前の「しなの屋」という酒屋の門口において
二条通から御用改をしながら新選組と三条付近で合流するため
南下していた会津藩兵等多数に遭遇し、討死してしまった。
その遺骸は6日夜明け前に長州藩邸に収容され、7日には霊山に葬られることになる。
近野勝之進・原善兵衛書簡(阿武久兵衛宛、6月7日)によると
「六日之夜、三條定宿池田屋惣兵衛方へ壬生浪士其外乱入之由注進有之候付
不取敢吉田稔麿杉山松介両人邸内罷出候処
途中において吉田狼藉ものへ出会及刀傷深手負即死
松介儀ハ深手負邸内へ罷帰り夕方相果申候
時節と申なから残念と申も疎に御座候」
とある。
これによると、稔麿は池田屋での異変の注進が届くと
杉山松介とともに藩邸を飛び出したが
途中で会津藩兵等に遭遇し、稔麿は即死
杉山は重傷を負いながらも藩邸に戻り、翌日の夕方に死亡している。
近野・原は当時京都藩邸におり
しかも、この書簡は池田屋事変後に最も早く認められたことから
池田屋への新選組突入時
稔麿がそこにいなかった確かな証左と言えるものである。
稔麿は池田屋に向かうために藩邸から出てしまったために
全く偶然に遭難していることが確認できる。
「吉田稔麿関係文書」(諸家文稿尺牘)にある
「筆者不明元治元年六月五日直後」と表題が付された書簡によると
「右大変(新選組による池田屋突入)御屋敷へ相聞へ
對州屋敷へ用事有之参り掛ケ途中ニ而戦ひ候もの
深手にて翌朝死ス・杉山松介、薄手・淵上謙蔵」
とある。
これによると、杉山は対馬藩邸に向かう途中で遭難したことになるが
吉田稔麿らの関心は、稔麿が直前まで桂小五郎と池田屋で会していたため
桂の安否に集中していた。
桂が池田屋にまだいるか、または対馬藩邸にいるかのどちらかと考えたのだ。
桂小五郎の「自叙」にも
「松助は此夜變を聞き余を尋て池田屋に来らんと欲し、途中賊の為に斃さる」
とあることから、桂の安否を気遣い
吉田稔麿は池田屋に、杉山松助は対馬藩邸に向かったのであろう。
杉山松助は、ほぼ知られていないが
山県有朋や品川弥二郎から極めて高い評価を得ている。
その品川いわく
「吉田稔麿が第一じゃ。生きて今頃いるなら据え置きの総理大臣で。
次は杉山松助、これは大蔵大臣だ。
久坂は万能に通じ、高杉は奇智に長け
佐世八十郎(前原一誠)は勇、入江九一に寺島忠三郎、此の二人も豪かった。
先ず此の七人が傑出の人物であろう。中んずく吉田は特別豪かった」
稔麿もさることながら、杉山松助の評価が高い。
まとめると、吉田稔麿は当日の夕刻までには池田屋に赴き
当初から予定されていた会合の段取りをつけ
遅参した桂小五郎に後事を託して帰藩した。
しかし、池田屋への新選組突入の注進があり
桂の安否を気遣うあまり
藩邸を飛び出すや否や会津藩兵に遭遇し、討死したのだ。
稔麿はその当時、何故在京していたのか。
そもそも、上京は元治元年4月末から5月初旬であった。
文久3年末より長州藩の攘夷実行、小倉藩との確執、朝陽丸事件等によって
著しく悪化していた長幕関係の中で
稔麿は江戸において老中板倉勝静に入説するなど
両者間の融和運動に奔走している。
今回の吉田稔麿の使命も、出府して幕閣に対する長幕融和交渉を継続することにあった。
しかし、上京時は将軍家茂が滞京中で、元治国是が確定したばかりであった。
朝廷の幕府への依存が明白となって、稔麿が出府しても何ら成果が望めない状況にあった。
桂小五郎は手薄な中央政局において
稔麿の周旋能力を大いに期待したため、その出府は当面見合わせとなった。
八月十八日政変以降、長州藩は朝譴を被り、留守居役以外は在京できなかった。(※)
稔麿はこの時点で、関口敬之介という変名を用いていたが
まさに命がけの周旋活動が継続されていた。
※居留守役だけでなく、名簿に載せた正規の大名屋敷職員全体です。
(中村先生のツィートより)
吉田稔麿の在京目的は、桂と共に中央政局の情報探索にあたり
かつ、志士の活動を統率しながら、長州藩に同情を寄せる諸藩に入説して
自藩に有利な情勢を作り上げることにあった。
吉田稔麿の事績は多岐に渡っているが
特筆すべきものの一つが文久3年末から翌元治元年にかけての
長幕間の裏面交渉とでもいうべき融和運動であった。
稔麿自身が着想したこの周旋を藩が容認し
その円滑な実行を企図して遠近付にまで昇進させており
藩要路の稔麿への多大な期待が読み取れる。
吉田稔麿の突然の死は、長州藩と幕府、双方にとって調整弁を失ったことになり
計り知れない痛手となったことは間違いない。
それは、長幕融和の唯一の可能性を逸することになり
その訃報は池田屋事変という衝撃的なニュースとともに
長州藩内に激震を走らせたことは疑いない。
吉田稔麿は、死の数ヶ月前に著した『東風不競密話』の管見の中で
当面は「猛虎の深山によるの勢をなし
徒然動くべからず」として、藩地に割拠し人心を鎮静化して規律を整え
倹約に励んで武備充実・富国強兵を図れば
いずれは中央政局での覇権を握れるはずであると断言している。
こうした吉田稔麿の見解は
その後の長州藩の方針に大きな影響を与えたと考えるのが妥当であり
稔磨の先見性も十分に評価すべきであろう。
稔麿の存在があったならば
また違った維新史の局面を見ることができたことは想像に難くない。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
あーーーー長かったーーー

リアルタイムでツィートを読んでるときは
全然そんなことなかったんだけど
こうして、まとめてみると
すごい量だった・・・

ていうか、町田先生の説明
めちゃわかりやすい

最後に先生は、後半に書かれた
稔麿さんの活動の部分が、今回完全なスルーだったため
準メイン級で登場しているのに
多くの視聴者の記憶には残らないだろう、
とおっしゃっていました。
これだけ、稔麿さんのことがわかってるのに
なんでそれをちゃんとやらんかったのか?
本当に残念です


私、正直なところ、大河を観てるより
この先生方のツィートを読んでる方が
断然、面白かったです

でも、今まで自分が思っていた
池田屋事件と全然違うというか・・・。
私は、俊太郎さまが新選組に捕縛されて
その奪還と、新選組の屯所の襲撃について
話し合うために、池田屋に集合したと
思っていたので
すっごい勉強になりました。
あと、稔麿さんが、会津藩兵に大人数で
なぶり殺しのようだったのは
大河ドラマの通りだそうです。
あぁ・・・歴史に「もしも」はないけど
あの時、藩邸を出なければ
こんなことにはなってなかったと思うと・・・

志半ばで、本当に無念だったろうなぁ。
でも、Twitterって
こんな使い方があるんですねー。
私は過去にTwitterで
すごく嫌な思いをしてるので
あんまり好きじゃないんだけど(;^_^A
こういう使い方はいいな、って思います

ここまで、お付き合いくださり
ありがとうございます
