ぼちぼち記録していきまーす♪
5/30(土)に行ってきた史跡は
明保野亭事件があったとされる
こちらです。

明保野亭事件は
池田屋事件から5日後の
1864年6月10日に起きた
簡単に言えば
「勘違い」が引き起こした事件です。
当時、新選組は池田屋事件の残党狩りに
追われていました。
そんなとき、東山の料亭・明保野に
長州系浪士が潜伏しているとの情報を得ます。
すぐさま、
副長助勤の武田観柳斎率いる新選組隊士15名と
会津藩から応援に派遣されていた
会津藩士5名が探索に向かいます。
その中に「柴司(しばつかさ)」
という、21歳の若い会津藩士がいました。
結局、その場には
誰もいなかったんですが
この時、すでに捜索したはずの
場所から1人の武士が逃げようとしたんです。
武田観柳斎の命で柴司は
その武士を制止させるため
槍で突き、怪我を負わせてしまいます。
ところが、この武士は
長州藩士ではなく、土佐藩士の
麻田時太郎だったことが判明。
なので、その場で開放し
新選組側も、このことを
さほど重要視していませんでした。
なぜなら、新選組には
「斬り捨て御免」
いえば、間違えて人を斬ったり
傷付けても
罪にはならない
という特例があったからです。
ですが、事態は一変。
この頃、会津藩と土佐藩は
共に公武合体派で友好関係にありました。
ですが、この事件が原因で
関係がこじれてしまうことを恐れ
(実は土佐藩には土佐勤王党といった
倒幕勢力も潜んでいた)
会津藩は土佐藩に
見舞いの使者、医師を派遣しますが
土佐藩はこれを拒絶。
次の日には
なんと、麻田時太郎が藩邸内で
切腹するという事態に。
いくら間違って傷付けたにしても
忠実に任務にあたった柴司に
何の罪もありません。
ですが、相手側が切腹してしまった以上
この事態を穏便に収めることが
できなくなってしまい
会津藩側も同等の処置をしなければ
ならなくなってしまうんです。
このとき、松平容保公は
「自分の口から
柴に一命をくれとはとても言えぬ」
と涙を流したそうです。
でも、
責任を重く受け止めていた柴司は
「自分の命で事態が解決するなら」
と、切腹を快諾・・・。
そして事件から2日後
兄の介錯で切腹しました・・・。
まだ21歳・・・。
若すぎる(ノДT)
葬儀には、土方さんをはじめ
5人の新選組隊士も参列。
土方さんは
その柴司の遺体に触れ
涙を流したそうです・・・(ノ_-。)
(このとき土方さんは
改めて武士の誓いをたてた、とも)
柴司の切腹により
事態は終息したものの
藩の都合で奪われた若い命。
この時代ならでは、の
悲劇だなぁ・・・と感じました。
今の自分の感覚だと
到底理解しがたい、この事件。
この時代の歴史を見ていて
何回、こんなやるせなさを感じたことか
柴司の墓所は
会津藩本陣のおかれた
金戒光明寺内にあるそうなので
また時間を見つけて行ってきます。
そして、この明保野亭跡は
当時とは少し位置が違うものの
ここは清水産寧坂にある
青龍苑という場所にあります。
(よーじやとかイノダコーヒーとか
色んなお土産屋さんが集合している場所です)
中に入ると
キレイな庭園があります。


そして、一番最初の写真を
青龍苑内から見ると、こんな感じ♪

明保野亭は当時
長州はじめ倒幕の志士による
密議にも多く利用され
龍馬さんの常宿の1つとも言われています。
少し離れた場所には
こんな石碑も。

青龍苑も
この石碑も
思いっきり観光地にあるので
立ち寄ってみてください♪
5/30(土)に行ってきた史跡は
明保野亭事件があったとされる
こちらです。

明保野亭事件は
池田屋事件から5日後の
1864年6月10日に起きた
簡単に言えば
「勘違い」が引き起こした事件です。
当時、新選組は池田屋事件の残党狩りに
追われていました。
そんなとき、東山の料亭・明保野に
長州系浪士が潜伏しているとの情報を得ます。
すぐさま、
副長助勤の武田観柳斎率いる新選組隊士15名と
会津藩から応援に派遣されていた
会津藩士5名が探索に向かいます。
その中に「柴司(しばつかさ)」
という、21歳の若い会津藩士がいました。
結局、その場には
誰もいなかったんですが
この時、すでに捜索したはずの
場所から1人の武士が逃げようとしたんです。
武田観柳斎の命で柴司は
その武士を制止させるため
槍で突き、怪我を負わせてしまいます。
ところが、この武士は
長州藩士ではなく、土佐藩士の
麻田時太郎だったことが判明。
なので、その場で開放し
新選組側も、このことを
さほど重要視していませんでした。
なぜなら、新選組には
「斬り捨て御免」
いえば、間違えて人を斬ったり
傷付けても
罪にはならない
という特例があったからです。
ですが、事態は一変。
この頃、会津藩と土佐藩は
共に公武合体派で友好関係にありました。
ですが、この事件が原因で
関係がこじれてしまうことを恐れ
(実は土佐藩には土佐勤王党といった
倒幕勢力も潜んでいた)
会津藩は土佐藩に
見舞いの使者、医師を派遣しますが
土佐藩はこれを拒絶。
次の日には
なんと、麻田時太郎が藩邸内で
切腹するという事態に。
いくら間違って傷付けたにしても
忠実に任務にあたった柴司に
何の罪もありません。
ですが、相手側が切腹してしまった以上
この事態を穏便に収めることが
できなくなってしまい
会津藩側も同等の処置をしなければ
ならなくなってしまうんです。
このとき、松平容保公は
「自分の口から
柴に一命をくれとはとても言えぬ」
と涙を流したそうです。
でも、
責任を重く受け止めていた柴司は
「自分の命で事態が解決するなら」
と、切腹を快諾・・・。
そして事件から2日後
兄の介錯で切腹しました・・・。
まだ21歳・・・。
若すぎる(ノДT)
葬儀には、土方さんをはじめ
5人の新選組隊士も参列。
土方さんは
その柴司の遺体に触れ
涙を流したそうです・・・(ノ_-。)
(このとき土方さんは
改めて武士の誓いをたてた、とも)
柴司の切腹により
事態は終息したものの
藩の都合で奪われた若い命。
この時代ならでは、の
悲劇だなぁ・・・と感じました。
今の自分の感覚だと
到底理解しがたい、この事件。
この時代の歴史を見ていて
何回、こんなやるせなさを感じたことか

柴司の墓所は
会津藩本陣のおかれた
金戒光明寺内にあるそうなので
また時間を見つけて行ってきます。
そして、この明保野亭跡は
当時とは少し位置が違うものの
ここは清水産寧坂にある
青龍苑という場所にあります。
(よーじやとかイノダコーヒーとか
色んなお土産屋さんが集合している場所です)
中に入ると
キレイな庭園があります。


そして、一番最初の写真を
青龍苑内から見ると、こんな感じ♪

明保野亭は当時
長州はじめ倒幕の志士による
密議にも多く利用され
龍馬さんの常宿の1つとも言われています。
少し離れた場所には
こんな石碑も。

青龍苑も
この石碑も
思いっきり観光地にあるので
立ち寄ってみてください♪