大手電機が介護産業で稼ぐような時代になっていました。

難しい時代を生き抜くために、人員整理の受け皿にもなっているのでしょう。

妻の入ったショートステイ施設にも所長始め何人かが母体から転職していました。

年収が5分の1になったよと、笑っていた所長も喜んでいるわけではないのでしょう。

生き馬の目を抜くような過酷な職場から国の制度が生活を保障してくれるこの職場に変わって、いろいろ思うところはあるのだろうけど、定年までまだ10年を残して自身の適性というものは何処に隠れてしまったんだろうと思っても不思議はありません。

そんな雰囲気を持つP社の施設にあって指導員yさんはバリバリの介護のエキスパートでした。

いくつもの施設を渡り歩いてきた自身の上昇志向も、心に秘めている福祉社会への理念も妻と良く似ていました。

自分を犠牲にしてこそ充実出来るのがこの業界の仕事であると思っている特異な人でした。

妻に限らずすべての利用者にその犠牲精神は振る舞われ、40代と思われる年齢と情熱の成せる技なのかと私はいたく感心していました。

やることなすこと卒が無く、妻を任せきっていて私に何も不安は無く信頼できました。

もう1人s氏は今まで私が専任であった妻からの様々なテクニカルな要求を受け止めてくれる方で、私の出る幕は無くなってしまいました。

いろんな物を調達作成してくれて私が面会に行くたびに妻の生活環境は良くなっていきました。

そのような待遇を受けることが出来て妻も私も恵まれていたと思います。

それは決して私がポストに投げ入れてきた施設への妻の手紙が作用したのでは無く、二人の固有の特性であったと思われます。

その頃世の中はどのようであったか。

日本の代表者である”彼”は、彼と彼の妻が関わったと疑われる学校法人の犯罪事件で、国会で木で鼻をくくったような態度の弁解答弁を繰り返し、それを忖度した役人達によって公文書は書き換えられ破棄され、自責の念で犠牲者まで出すことになっていきました。

相模原の障害者施設では元職員による悲惨な大量殺人事件が発生し、その犯人は犯行予告として誤った優生思想を正当化するような手紙を、同志と思ったのか”彼”と衆議院議長宛てに出していました。

どこかが狂っているのは解っていたがどうして狂っているのか知ろうとする人は少なく、知ってもどうしようもないと諦め自分の生活を守ることだけで精一杯な世の中でした。

テレビの中は狂っていたが私達夫婦は信頼のおける人のおかげで幸せでした。

しかし長くは続かなかったのです。

施設の本社は採算の悪化からショートステイ部門を縮小することにし、妻の施設からもショートステイは無くなることが決定してしまいます。

国の設計図に書かれたショートステイという介護サービスは利益だけを求める事業者には歓迎できるものでは無かったのです。

P社の血が入った会社の経営理論はやはり非情であり、利用者や従業員のことには想いが及ばなかったのでしょう。

本社からの通達文書を私に見せて一緒に嘆いてくれたyさんは、自分の去就は放っておいて利用者のことを真剣に心配してくれました。

妻の次の受け入れ先探しに何軒も一緒に行ってくれました。

s氏も一緒に付き合ってくれて私達に細やかな気遣いをしてくれたのです。

業務としてではありません、個人的に手を差し伸べてくれたのです。

ようやく妻が気に入った特養を探し当て、私達夫婦は一安心出来ましたが、二人は未だ行き先が決まっていませんでした。

「私また失業するのよ」と、yさんは知り合いに明るい表情で言っていたものです。

私は涙が出そうになりました、このような人でなければならないのでしょう福祉や介護の世界にいる人は。

yさんは妻が特養に移ってからも妻の大好きなティラミスを届けてくれていました。

妻の行きたかった旅行にも一緒に行ってくれて助けていただきました。

最後に会ったときs氏は遠方の事業所に決まったが自身はどうするか決めていないと言っていました。

「私ここに変わろうかしら」、そんな嬉しい言葉も掛けてくれるのです。

今どうされているでしょうか、yさんの理想の福祉社会は近づいたのでしょうか。

私は本当に感謝しかありません。

私は二人のことは一生忘れることは出来ないでしょう。

もし、「妻の日記」にゴーストライターがいたとすれば、

それは書くまでもありません。