妻の病気に医療は無力であったのは事実ですが医療が必要だったのも事実です。
助かるすべのない難病ですから国の支援が無くなってしまうことはないのですが、その継続には医師のサインも必要で、自己申告すれば済む社会システムではありません。
妻が気休めで通っていた近所の神経内科クリニックもそんな役割だけはありました。
すでに老齢になっていたクリニックの医師は、その世界では認められた権威であったらしく、妻への対応はそつなくこなしてくれて、色々横道にも入り込んで妻を楽しませてくれました。
一度介護認定更新の時、妻のケアマネから苦言が入り意見書を書き直してくれましたので、人物もこなれた方だったのでしょう。
その楽しみにしていたクリニック通院も、もうまもなくできなくなるからと、妻の看護スタッフから私に訪問医療へ切り替えるように指示がされました。
y市には全国的に注目されていた訪問医療の先駆けである医療法人がありました。
高齢者が増えた社会で新たなビジネスが展開されていたのです。
そこの医師たちは訪問先の患者に本来の医療という役目を期待されている訳ではありません、看取りビジネスとして双方向で納得することにより信頼関係は成り立つのです。
妻に割り当てられた医師はとても明るい女性で、いつも豊富な話題で妻を笑わせてくれるのです。
でも、申請に必要な医師の意見書などはたぶん書けないだろうと思い、こちらが気を回して用意しておきサインだけしてもらいました。
医療と介護の関係式には未だ収束しきれていない変数が含まれているのが事実なのです。
医・介連携が必要なのは誰でもが認めるところなのですが、今も何故か国の設計図には無い壁が其処にはあるのです。
利権・・・そうは思いたくないのですが。
医療も介護も経営で語られることに慣れてしまった私たちが居るのも事実でしょう。