妻自身を中心とした妻の介護チームはとても優秀な人達でした。
主要な構成員?は妻自身が選定したのです。
妻の意に沿わないスタッフは直ぐに消えて来なくなりました。
それは妻のわがままだったとは思っていません。
妻には外すことの出来ない理想とする福祉社会への理念が強く有ったのです。
自分が介護を受ける立場の当事者になってもその理念から外れたことは容認できなかったのです。
後に私がお世話になるハローワーク職員も精神科の医師も妻の関係した人でした。
つまり私自身も含め大方のスタッフは妻の息がかかっていたのです。
私が妻の主たる介護者であると思っていたのはほんの初期の一時期だけでした。
私が傍に居ることによるデメリットの方が大きかったように思い出されます。
妻はあらゆる介護・福祉サービスを受けたかったようですが私が傍に居るために受けられないものも発生してしまったのです。
「会社やめなくても良いよ」そう言った妻の真意が分かり始めてきたのです。
私が慣れぬ手つきで作る料理もその一つだったでしょう、文句は一切言われませんでしたが。
それでも私の存在が有効に作用したことも有り、役所や年金事務所等への各種申請などの代理人業務?は、元々私の業務範囲に近かったこともあり、スムーズに事は進行出来たのではないかと思っています。
それと、妻の楽しみで有った旅行では、闘病中にTDL2回、長崎HTB1回、客船クルーズにも1回行っています。家族で行った長崎を除き計画から実行はすべて妻のチームがやってくれましたが、資金の出何処は私の懐になりました。
妻も私も預金は少々有りましたが私は退職して無収入となり年金もしばらくは貰えない悲劇世代ですからお金は慎重に使うべきでしたが、妻のためには惜しむ気持ちはありませんでした。
妻や私は有能なサポーター達に囲まれていて幸いでしたね、そう言われるとその通りなのですが、私は少し違う思いをしていたことを白状しなければなりません。
自宅で時々行われる介護担当者会議から私は外されるようになっていきました。
それは私の精神状態が安定してはいなかったからです。
代理で飼い猫3匹が会議に参加していました。
「旦那さんは心身を休める為に外に行ってゆっくりと散歩でもしてきてくださいね」
私は言われるままにコンビニで酒をはしごしてきて、妻だけになっているだろう部屋の前まで戻ってきてはマンション8階の廊下から下の駐車場のアスファルトを眺めていました。
「簡単じゃないか、ひょいっと手すりを乗り越えて飛べば、それだけで楽になれるじゃないか」
そんな衝動に何回も襲われていたんです。
でもドアの向こうで待っている妻を残して飛べるはずがありません。
とても苦しかったのは本当のことだったんです。