現在進行形
妻の次なるショート施設見学と田舎の両親のお守が重なった。
どちらかを調整しなけらばならない。
父が戦争の回顧録を知人のブログに寄稿しいている。
戦争体験者も絶滅危惧種に成りつつある。
文章を読むと健常そうだが本当はかなりイッテル。
以下原文。

73年も前の事である、ハッキリしたことは覚えていないが断片的に記憶を辿って見よう。
現役入隊は以前は甲種だけであったが、そのうちに乙種も採る様になり、私が徴兵検査を受けた時は第二乙種と言うのが出来て立派に合格と云うことで19年9月20日久居の聯隊(部隊)に入隊しました(以前であれば丙種だろうが今や不具者のみ不合格の状態)。
久居には10日程いましたが、その間に敬礼の仕方とか隊列歩行等の基礎を訓練されたと思います。食事は大豆の入った飯でした。
ある日家族との面会が有りました。出発の前日だったか皆に新しい軍服が支給されましたが、私が貰ったのは羅紗の様な分厚い生地(冬服)の服でした。中には薄い生地の夏服を貰った者も居ました(後ほど聞いた話では夏服組は南方へ行く途中で撃沈されたそうです)。
 冬服組は昭和19年9月30日多分深夜だったと思います。人数もはっきりとは分かりませんが、5~6百人位が徒歩で營門を後にして高茶屋駅に向かいました。列車はよく覚えて居ませんが客車だったでしょう。博多へと出発です。
10月2日博多港を昌慶丸にて午前9時30分出航し午後6時釜山港に着きました。
釜山から古都である紙価で有名な洛陽に向かいます。釜山から鉄道で貨物列車(有蓋車)でした。ひたすら北へと進むのですが貨物ですから便所が有りません。
1時間程走ると駅の無いところでも止まります。トイレ休憩です。多分北京に着く手前あたりだったと思いますが、列車が止まったので、飛び出て小便をしながら薄暗いなか前を見ると林檎が枝に成っているではありませんか。その当たり一面林檎畑だったのです。その林檎を採って食べた時の美味かったことは忘れません。
もう一つは酒保品で煙草の支給が有りますが、私はふかし煙草程度でしたが、確か奉天を通過した頃に天壇と云う支那(中国)の煙草が支給され、それを吸った時の旨かった事も忘れません。
ここ迄書いてきて、困りました。釜山から洛陽を目指して朝鮮半島をドンドンと北上し平壌(ピョンヤン)を通り越したのは微かに覚えて居ますがそれから確かに瀋陽(シェンヤン)に着き更に北上したと思うのですが、洛陽は瀋陽から西南に進まねばなりません。地図で見る限り洛陽は開封(カイフオン)の西に有りますが私のイメージではもっと北方です。
ともかく北支の洛陽です。貨物列車を何処で降りたかは記憶が有りませんが洛陽までは随分行軍をしました。洛陽と言っても街ではなく、郊外だったと思います。殺風景な荒野でした。兵舎の構造はよく覚えていませんが、一昼夜歩いて10月14日にたどり着きました。
これより北支派遣鷺第3912部隊上坂隊伊藤中隊に編入されて、嵐部隊(133聯隊)の要員として初年兵教育を受ける事になるのです。