「今度は今度、今は今」

フラグの回収を急ぐ姪。フラグを立てて放置する平山。

平山達が海に行く日は来るのだろうか?

 

日が開いてしまったが今回も性懲りもなくパーフェクトデイズの記事を書く。

前回はトイレの清掃員である平山とその同僚であるタカシを比較してみた。

映画の簡単な解説も含めてそちらで書いてあるので詳しくはそちらを覗いて欲しい。

 

とはいえここから読みたいとか言う奴がいるかもしれないので、最低限の情報を整理しておくぞ。

主人公の平山は東京のボロアパート在住のトイレ清掃員。

趣味はカセットテープ鑑賞、読書、そこら辺で拾ってきた苗木の育成(と言っても水をやるだけ)、そして写真撮影(こちらも木々の木漏れ日を毎回とるだけ)。

毎日を最小限の出来事に絞って暮らしており、そこに満足感を覚えているという人物だ。

 

彼の1週間はトイレ清掃、銭湯での一番風呂、お気に入りの駅地下の飲み屋で夕食、家で寝落ちするまで読書という基本的なルーティンが組まれておりトラブルが起こらない限り、この流れが繰り返されるようになっている。

毎日同じように見えるこのルーティンが日々の些細なイレギュラーによって崩れ再び何事もなかったかのように戻っていく、この平山の生活を追っていくのがこの映画だ。

 

それで今回考えたいのは、そんなイレギュラーの一つであった姪の登場だ。

ある日トイレの清掃から帰ってくるとボロアパートの階段に中学生位の若い女が座っている。

これが平山の妹の娘、つまり姪にあたるニコだ。

 

母親と喧嘩をした挙句、家を飛び出て平山のところにやってきたってわけだな。

ニコは何事もなかったかのように平山のアパートで暮らし始める。

そして平山の仕事についてきたり、平山のアパートで本を読んで過ごすわけだ。

 

この映画の良いところの一つだと思うんだが、音楽や本がさりげなく、それでいて物語では外せないような形で登場する。

説明するのが視聴者にとって親切だろうと思うのだが、よく考えてみると他人の生活をのぞき見しているとすれば、それは不自然にあたる。あくまで自然な観察者の目線をこの映画は維持する。

よって自分で出てくる音楽や映画を検索する羽目になる。

 

ニコが平山借りてこの小説の主人公の気持ちわかるかもといっていた本がある。

それがパトリシア・ハイスミスの『11の物語』だ。

詳しく言うとその中の「すっぽん」という話の主人公ヴィクターについてだ。

そしてムカつくことにこの本、古すぎて絶版。近くの本屋に行ったが取り扱っていなかった。

早川書房。早急に刷りなおせ、無理なら電子書籍でもいい。今なら売れる。少なくともここに買い手がいる。

図書館で予約したが、こんな古い本なのに予約でいっぱいだった。

あの本何だったんだ?っていう同じ気持ちの奴がいたらしく、ちょっとうれしく思うな。

結局ネット検索だ。読んだらまた感想を上げるかもしれん。

 

映画を見ているときは、この小説の主人公は自殺したんじゃないか?と思って観ていた。

というのも、主人公の気持ちがわかると言うニコに対して、珍しく平山はそんなこというなと言う風な焦っているような反応を見せているからだ。

少なくとも無口な平山が動揺する類のことをした主人公だってわけだ。

ネタバレするとこのヴィクター、母親との不和の結果、殺してしまった奴だった。

つまり「私母親を殺すかも」というのがあのシーンでのやり取りだったわけだ。本を読んでいる奴だけに伝わる憎い演出だな。

こんな感じでニコは母親との不和を抱え、爆発寸前と言う状況。

将来性が見えず結末を今か今かと待ち構えているようなそんな状態だ。

 

結末だけ話すと姪は平山が姉に電話し引き取りに来てもらうといういかにもまともな大人のするような結末を迎える。

最悪の結末をつかんでしまうかもと不安を口にするニコに対して、平山は先ほどの動揺する言葉を口にし、いつでも遊びに来てもいいという。

 

ここで注目したいのは平山と姉の会話だ。短いが平山がなぜこんな生活を選んだかのヒントのようなものが出てくる。

平山の妹は運転手付きの車と言う、裕福な暮らしをしていることが一目で分かる姿で登場する。

かたやボロアパート暮らし、トイレ清掃員の兄の平山。

 

「本当にトイレ清掃員してるのね、変な意味じゃなくて」という複雑な発言もするものの、

 

久しぶりに会ったのか抱き合い、ここで父親が認知症になっており昔のようには扱わないと思うから平山に会いに行ってほしいと言っている。

 

ここからは仮説だが、

平山はもともと会社を継ぐ長男だったが何らかの出来事があり父親と不和になり出て行った(または追い出された)。

結果、会社自体は妹が継ぐことになったのではないかと踏んでいる。

もし違う考えに行き着いた人がいたら気になるので、ぜひ聞かせてほしい。

そして平山はトイレ清掃員という今の暮らしに行き着くわけだ。

 

さてそんな平山とニコの関係のハイライトは銭湯帰りの一コマだと俺は思っている。

ニコは何気なく橋の上から見た河を見て、この河が海につながっていくのかを聞く。

平山が肯定し、今度見に行こうという話になるわけだ。

 

ニコは何度も尋ねる。「今度っていつ?」

だが平山はいつかという明確な時期は答えない。「今度は今度、今は今」

 

今を満足して生きようとする平山の人生観のにじみ出た言葉だと思う。

今この瞬間に「いつかこの河が海につながっているのを見に行こう」と思った瞬間を楽しむのが平山流だ。

そこをすぐにじゃあ何日の何時にどこどこ集合で、と言うような話にはならない。

 

ニコは今を生きず、いつかを生きている。

平山はいつかを見ずに、今を生きている。

 

親からの不条理に対してニコは、今をぎゅっと縮めていつかの悲劇をすぐに予感する。

一方の平山は認知症で老い先短い父親との再会を今の連続で埋めていき、いつかと先延ばしにしていく。

 

どちらが良いとか悪いの話ではなく生き方の問題だ。

ただヴィクターのようにはなりたくないのは平山もニコも同じだろう。

 

惜しむらくは平山の人生の観察はこのニコの物語がどう決着がついたかを見せずに終わる。

ひょっとしたら映画が終わったあとネットニュースに「母親を殺害」なんて物騒な文字が躍っている可能性もなきにしもあらずなわけだ。だが映画は唐突に終わる。

 

なぜなら時間内にフラグをすべて回収することは視聴者にとっては親切だが、やはり物語としては不自然なのだ。

 

 

可能なら何事もなく相も変わらず仲のいい平山とニコの海を見るシーンが見たいわけだ。

 

「今度は今度、今は今」

フラグの回収を急ぐ姪。フラグを立てて放置する平山。

平山達が海に行く日は来るのだろうか?