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ポカポカの思いつき日記

日常生活で思いついたことや思っていることを書き残すメモに近いブログ。

大学を卒業後、メーカーに入社したのだが、この会社が少し変わっていた。

 

このメーカーは私が入社する前に新しい工場を建てており、私が配属された工場からそちらに多くのスタッフが移籍していた。

そのため私が配属された工場の部署ではスタッフのほぼ全てそれまで現場のオペレーターが昇格された人達であった。

つまり工場の多くの職場では地元の工業高校、あるいは商業高校の元不良達がスタッフとして牛耳っており、地元の長男であるため仕方なくUターン転職して来た地元出身の大卒の人達は元不良スタッフ達グループから排除され数々の嫌がらせを受けていた。
ちなみに現場からスタッフに引き上げられた人達は年功もあるがその多くは地元工業高校、商業高校卒業者達が引き上げられ現場オペレーターとして残されたのは地元農業高校卒業者達であった。地元の人曰く、普通科高校→工業高校、商業高校→農業高校のヒエラルキーがあるそうだ。

 

この工場の休憩時間には他では見られない面白い光景が見られた。

現場のオペレーターには朝10時と昼3時に10分間の休憩時間があるのだが、休憩時間になると現場のオペレーターやスタッフの老若男女関わらず一斉に喫煙室に殺到しタバコをガンガン吸うのである。喫煙室はまるで満員電車並みに混み合い、火事並みに煙が漂っており、逆に居室や現場ラインは閑散としていた。元不良の集まりのせいか喫煙率の高さは異常であり、いつでも喫煙可能なスタッフの人達も休憩時間に喫煙室に集まり喫煙しながら談笑していた。タバコを吸わない私にはちょっと異常な光景であった。

 

こんな工場に配属された他所者で大卒の私がどのような扱いを受けたか想像できるだろうか。

答えは簡単で、完全なる放置である。

普通は工場のどこかのプロセスの担当として割り振られ仕事を覚えて行くのだろうが、私の場合「他の邪魔にならないように勝手に仕事を探して勝手にやって」、と言い放たれただけであった。

「いやいや、普通は何かやらせたいことがあって人を入れたんとちゃいますの?」、と聞いたが「君は大卒だから大丈夫でしょう」、という会話で打ち切られてしまうのが常であった。

そんなこんなで工場内をブラブラする日々が続き、向こうもしびれを切らして「他の部署に移らない?」とか聞いてきたりもしたが「他の部署に移るぐらいなら辞める」と言って突っぱねていた。

毎日ブラブラしている私を見かねてUターンで地元に戻って来た人達も話かけてくれ話をしたりしたが、その後必ず私の上司が「あの人達とは話をするな」といちゃもんを付けて来たものであった。

そんな生活が1年と少し続いた頃、さすがに根負けして私はこの会社を去ることにした。

今思っても不思議な会社だったと思う。

この会社で学んだのは、会社の従業員は特に会社のことを考えていないということだった。

 

ちなみに学閥というものが日本の会社では非常に強いということを知ったのもこの会社である。
この会社には、東京工業大学閥(会長が東京工業大学卒だったため)、防衛大学校閥(人事の偉いさんに防衛大学校卒の人がいたため)、それとあと地方の国立大学のとある研究室閥(代々この研究室から卒業生が入社していた)があった。
私の同期に防衛大学校卒(といっても入社は6、7月頃だったと思うが)の人がおり、私がいた工場に配属されて来た。
この人も特に私と同じように特に仕事を割り振られることが無かったが私と違うことは人事のフォローがしっかりとあったことである。
まず色々なセミナーへの出席のため頻繁に東京へ出張しており、その後東大の研究室に研究生として派遣された。
その後のことは私が辞めてから人づてに聞いた話だが、東大に何年か行った後、さらにアメリカへ留学だかなんかしたそうである。
学閥の力を思い知ったものである。
なお最初の会社を辞めた後に入った次の会社もバリバリに学閥があり、慶応、早稲田、東京工業大学、地方国立大学、地元工業高校、地元進学校などがあった。これらはそれぞれの卒業生に名簿が発行され、そして定期的に集まり宴会を行っていた。
ただ圧倒的に慶応閥が強い会社で私が配属された部署の上司もこの会社史上最も若くして課長になった人で、当然慶応大学卒であった。
 

私がかつて所属した研究室は少し変わっていたのでちょっと記しておきたい。

 

大学の研究室は教授1人に助教授2人、助手2人の体制で学生は助教授の下に割り振られ助教授を指導教官として卒業研究を行う。

ただ私が配属された研究室は助教授が2人、講師が1人、助手が1人の体制で、学生は助教授と講師の下に割り振られ、そこで卒業研究を行っていた。このような体制になっていた理由は、教授がある一人の助教授のことを好きにやらせており、実質的にこの助教授は独立した研究室のようになっていた。事実この助教授の実験室は学科の中で最も広いものであり、如何に優遇されていたことが分かる。結局のところ私が配属された研究室は、実質的に教授、1人の助教授、1人の講師、1人の助手という講座ともう一つ助教授の特別な講座があるという構成であり、講座同士の交流も殆ど無いという不思議なところであった。これはこの助教授の人がかなり個性的で自由にやらせるしかなかったのだと思われる。
 
ちなみに毎年この助教授の所には院生1人、学生2人が配属されるのだが、やはり個性的な助教授に付いて行けず、この助教授の所からドクターコースに進む人はいないし卒業性が訪れることも無かった。他の教室は狭い所に多くの学生、ドクター、助手、研究生、そして卒業生なんかが頻繁に出入りしキチキチで実験なんか非常に苦労していたみたいだが、この助教授の広い実験室には最大4人の学生しかおらず、本当にスカスカの状態であった。お察しのように学科の落ちこぼれであった私と私といつもつるんでいた友人とはこの助教授の下に配属され苦難の一年間を過ごすこととなった。
 
このように大学の研究室の中にはちょっとイメージしていたのと違うところもあり、やはり成績が悪い奴はそういうところに行かされがちになるため勉強はしっかりやっておいた方が良いと思う。
 

今はどうか分からないが、私が経験した昔の研究室について記しておきたい。。

 

昔の研究室は教授を頂点とし、その下に2人の助教授と2人の助手がいるのが普通の構成であったが、私が入った研究室は2人の助教授と1人の講師、そして1人の助手であったと思う。研究室内は完全に縦割りで、基本的には指導教官として助教授の下に学生と助手が割り振られ、学生は助教授の指導の下で卒業論文を仕上げるシステムであったが、私のいた研究室では助教授と講師に学生が割り振られそれぞれ卒業論文を仕上げる感じであった。なお助教授間、あるいは助教授と講師間は完全に独立しており同じ研究室であっても部屋は違うしお互いの交流もほぼ無い状態であり、研究室の全スタッフが集まったのは卒研発表後の飲み会だけだったと思う。

 

ついでに当時の教授というものについても記しておきたい。

まず教授は教授になった時点で研究者としての上りで、これはどこの研究室もそうだったと思うが、教授になった以降授業をすることはないし、学校に来ることもほとんどなくなる。メインの業務は学会関係やメーカーでの講演などに費やされていたように思う。私が入った研究室の教授は非常に極端で、学会関係の業務を引き受けアメリカに在住していた。教授が日本に帰って来るのは院試のある9月の1週間と卒研の発表などがある3月から4月頭までの数週間だった。私がこの教授と会話をしたのは2回しかなく1回目は9月に帰国した時に推薦状のお願いをしに行った時と卒研時の質問で「卒業後の進路はどこ?」と聞かれた時で、時間換算でトータル2分未満であった。

 

こんな感じでどこの研究室も助教授が研究と学生の指導の中心であり教授はドクターに行けるぐらい優秀な学生を除いて配属される学生に興味を払うということも無いし名前や顔すら覚えることも無い。事実私が卒業してから2年ぐらい後にこの教授が何らかの賞を取った祝いのパーティーに出かけたのだが、全く私のことは覚えていなかった。

 

今も昔のような感じであるのなら研究室を選ぶ際には教授で選ぶのではなくその下の助教授の人柄や実績を見て選ぶべきである。なぜなら配属される助教授の人間性と合わなかった場合、研究室生活は地獄になるし、最悪自分の専攻が嫌になり大学院進学を断念したり全く関係の無い分野へ就職することを希望するようになる。これは経験者からの真摯な忠告である。