皆さん、おはようございます☀️
pojimoriです。
僕の大好きな、講談界の風雲児・神田松之丞さんは、2020年2月11日に真打に昇進されることは発表され、心踊っておりましたが、つい最近、真打昇進と同時に、6代神田伯山(はくざん)を襲名することが発表されました。
正直な感想としては、松之丞という名前が唯一無二な感じがして、好きだったので寂しいという気持ちと、伯山という講談界の超偉大な名前を襲名するタイミングが早いのでは? というのが第一印象でした。
ただ、彼のラジオ『問わず語りの松之丞』の金曜の再放送をradikoで聞いて、その気持ちが薄らぎました。さらに、応援したい気持ちが湧いてきたということです。
松之丞という名前はそもそも、初々しい名前であり、真打に付くような名前では無かったとのこと。二つ目に上がるタイミングでは、師匠に改名を相談し、真打に上がるタイミングでは、伯山という名前を欲しい気持ちを抑えつつ、「師匠、名前の事でご相談したいことがあるのですが?」と相談し、「伯山襲名をしたいんか?」と言ってもらえて、師匠自ら、伯山の命名権を持つ方と交渉してくれたとのこと。
もちろん、難航しました。それくらい偉大な名前です。
というのも、最後に「伯山」を名乗った五代目が亡くなってから、もう40数年の月日が流れています。
40年って、神田松之丞さんも自分自身も生まれる前です。
神田松之丞という方は、ラジオでは爆笑トークで視聴者を魅了してますが、講談にかける思いは並大抵なものではありません。
彼の生の講談を聞いたり、本を読んだら、想いが伝わるのですが、「神田派の大きな名前を復活させたい!」と公言してきた松之丞が、最も重要なイベントである真打昇進時に選んだ「伯山」という名前が、どれほどのものなのか。
以下は、読売新聞の長井好弘さんの寄稿を引用させて頂きます。
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伯山代々の足跡をたどり、彼らの叩いた張り扇の響きに思いをはせよう。
神田伯山は神田派の頭領の名である。
元々は、神田辺羅坊壽観(かんだべらぼうすかん)という長い名前の講釈師の弟子だった神田伯龍が師名の上の二文字をとって、「神田派」を開いたのだが、その伯龍門下から、「伯山」という師匠を凌ぐほどの巨星が誕生したため、いつか「伯山」が神田派のトップとして扱われるようになったのである。
実際、三代目伯山の弟子の中に、伯龍の名を見つけることができる。
ちなみに、同門の南鶴は、「神」の下の「田」と「邊」を姓として田辺南鶴となり、田邊派を興した。
だから、神田と田辺は、元をたどれば親戚ということになる。
元祖・伯龍には三人の高弟がいたが、一番上の伯鶴は水戸へ、二番目の伯海は上方へ行った。
そのため伯龍没後、弟弟子の伯山が一門を受け継いだ。
そこへ上方から戻った兄弟子が松林伯円を名乗って売り出した。
のちに名人と言われた伯円の能弁には叶わない。
伯山は独自の工夫を重ね、中途はボソボソ、終盤になると口調が一変し、トントントンとたたみ込んでいくという、メリハリの利いた芸風で、伯円に肩を並べる看板になったという。
十八番中の十八番が「徳川天一坊」だ。
「伯山は天一坊で土蔵(くら)を建て」と川柳に詠まれたほどの勢いで、82人の門弟(!)を率いて一時代を築いた。
二代目伯山は、初代の弟子である。
初代が「天一坊」なら、二代目の最大の売り物は「水滸伝」だ。
当時から庶民に親しまれていた中国の古典を、さらに砕いてさらに面白く、良い意味での「通俗」を貫き、痛快な読み物に仕上げた。
もちろん初代譲りの「天一坊」も、師匠に劣らぬ見事な出来栄えで、とりわけ「網代問答」「紀州調べ」「越前切腹」が評判だった。
初代を知らぬ客は「土蔵を建てたのは二代目だろう」と思い込んだという。
1907年、弟子の小伯山に三代目を譲り、自分は「神田まつり」を洒落て「神田松鯉」を名乗った。
松之丞の師匠である現在の松鯉は、この人から数えて三代目に当たる。
そう、師匠が「松鯉」で、弟子の松之丞が「伯山」という師弟関係は、講談の歴史の中に「前例」が存在するのである。
二代目から「伯山」の名前を生前贈与された三代目は、伯山代々の中でも、キラリと光る存在だ。
人呼んで「次郎長伯山」。
あの「清水次郎長伝」で売れに売れた、三尺物(侠客伝)の第一人者である。
当時の演芸界は、一代の大スター桃中軒雲右衛門の登場で浪花節が破竹の勢い。
あおりを食らった講談界の中で唯一華々しい活躍をしたのが三代目伯山である。
寄席でトリをとればいつも超満員で、八丁四方の他の寄席に閑古鳥を鳴かせた。
講談師で「八丁荒らし」といえばまず一番に名前が挙がるのは三代目伯山なのだった。
三代目の代名詞だった「清水次郎長伝」は、元々あった生々しい実録「次郎長伝」を、独自の工夫で大幅に書き換えたもの。
義理人情を盛り込み、次郎長と多数の子分たちを個性あふれるキャラクターに仕立て、やくざの抗争を描いて万人に愛されるという、希有な侠客伝を作り上げた。
三代目の「次郎長伝」が、二代目広沢虎造の浪曲になって全国津々浦々にまでひろがったことは、詳しく書くまでもないことだろう。
痩せ型、細面、切れ長の目、オールバックの髪型。しゃがれ声のタンカは胸のすくような歯切れ良さ。張り扇の音まで威勢がいい。
洋服は生涯着なかった。
読み物の上だけではなく、三代目本人も次郎長を気取る風があった。
親分肌で、金離れが良く、三代目の金で食べている者がつねに5、60人はいたといううわさもあった。
四代目が空位なのは、次の五代目伯山が、「二代目伯山の実子、二代目松鯉が本家筋である」といって、一代飛ばした襲名になったからだ。
この五代目は、よく言えば、我が道を行く人、反骨の人。「講談界きっての変人」との声も聞かれた。
師匠を何人も変え、大看板と喧嘩し、仲間と群れず、何度勧められても文化庁芸術祭に参加せず、晩年は勲四等の叙勲を「腹の足しにもならない」と断った。
このように本人はかなりの個性派だったが、その芸は一級品だ。とりわけ無職渡世のやくざ者を描かせたら、たまらない魅力があった。
読み口が大変に遅いのだが、性格描写、情景描写はこまやかで、ここそという場面の迫力はさすがのもの。
そんないぶし銀の芸を、あの立川談志も礼賛している。
十八番は、「大菩薩峠」「村井長庵」「吉原百人斬り」「天保六花撰」に「天保水滸伝」。
「迷惑をかけたくない。死んでも他人様に知らせるな」が口癖だったので、1976年に亡くなったときは、二週間以上も、その死が世間に知らされなかった。
以上、初代から五代目までの芸と人を見ていけば、シンプルだけど、極めて大事なことがわかるはずだ。
それは、
「代々の伯山に『外れ』がいない!」
ということである。
そう、これまで講談界で「神田伯山」を名乗った男は、すべてが抜きんでた芸の持ち主だった。
いわば「名人の系譜」なのである。
ここに、松之丞あらため六代伯山が加わる。
それがどういうことかは、松之丞自身が
一番知っており、彼なりの「覚悟」があるはずだ。
数々の試練を力に変え、ここまできた
松之丞。
六代伯山となってからも果てしなく続く芸の道は、遠く厳しく、でもその先には、そこにたどりついた者しか見ることのできない、ステキな風景があるはずだ。
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長井さんのステキな寄稿。いい勉強になりました! ありがとうございます。
神田松之丞さん、改め、6代神田伯山の襲名は2月中席(2/11〜2/20)。必ず、この時に同じくファンの両親を連れて、お土産を持参してお祝いに行きます🥂
講談にハマったのは、神田松之丞さんから。
寄席にハマったきっかけは、神田松之丞さんに会いたくて行ったことがきっかけで。
彼の素晴らしいことは、自分のファンだけを作ろうとするのではなく、自分をきっかけにして、講談のファンや、落語のファンや、演芸のファンを作ろうとしていること。
そのブレない広い視点への功績とこれからの期待を込めた神田伯山襲名だと思う。
自分は普通のサラリーマンだが、彼の視点はものすごく参考になる。彼のような大きな視点を持って、酒類業界の成長に貢献していきたい。fight。
神田松之丞さん、conguratulations‼️
Keep walking with you🐾