Je suis encore vivant !
— Albert Camus, Caligula
おれはまだ生きている!
── アルベール・カミュ『カリギュラ』(渡辺守章訳も岩切正一郎訳もこの部分同じ)
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これがこの戯曲最後の、カリギュラの台詞である。
さいたまネクスト・シアター公演『2014年・蒼白の少年少女たちによるカリギュラ』(蜷川幸雄演出、彩の国さいたま芸術劇場インサイド・シアター、2月16日観劇)は、しかしこの台詞のあとにもうひとつ、カリギュラひとりの場面が付く。カミュが決定稿で削除した場面なのだとか。ハヤカワ演劇文庫版(岩切正一郎訳)の訳注で読むことが出来る(この日記のタイトルは、その場面の冒頭部分)。
最終的に削除されたこの場面を敢えて付け加えた演出は、今回の『カリギュラ』では効果的だったと言える。「今回の」と言うのは、蜷川幸雄は2007年に一度、シアターコクーンで『カリギュラ』を演出し、圧倒的な成果をあげているからだ。
2007年のカリギュラ(小栗旬)が荒ぶる狂気を体現していたとすれば、今回のカリギュラ(内田健司)の狂気は静謐なものだと言える。同じ戯曲が同じ演出家の手に掛かりながらこうまで違うものになったことも驚きだが、どちらも深く納得できる舞台に仕上がっていたのはさらに驚くべきことだ。
小栗旬のカリギュラは「おれはまだ生きている!」と叫んで終らなければならないが、内田健司のカリギュラには観客に対する遺言とも言うべき長台詞を静かに語る余地が残されていたということだろう。『カリギュラ』という独特な戯曲を私は、まったく様相を異にしたふたつの舞台で楽しんだことになる。
アルベール・カミュと蜷川幸雄の多面的な魅力を、今回は思い知らされた。
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ちなみに、蜷川幸雄演出の『カリギュラ』(シアターコクーン、2007年)を観劇した印象をもとに私が書いたのが「暴君こそが詩人である」10首である。『詩を弃て去つて』(書肆山田、2011年)に収めたトリプティック「世界の餘白」を構成する一篇だ。作中、例のカリギュラ最後の台詞が引用されている。
その「暴君こそが詩人である」のエピグラフは、第4幕第12場のカリギュラの台詞だった。
En effet. Les autres créent par défaut de pouvoir. Moi, je n’ai pas besoin d’une œuvre : je vis.
— Albert Camus, Caligula
そうとも。他のやつらは権力がないから創作をする。おれは作品など、作る必要はない。生きているのだ。おれは。
── アルベール・カミュ『カリギュラ』(渡辺守章訳)