193宇宙論後の哲学 哲学とは?! | ゼロ詩人の自己愛エクリチュール

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このブログは社会的基準に合わせられない自分の存在価値を自ら認め、さらには愛するために、自己愛の完成に向けての書き物である。葛藤と矛盾する気持ちを認め、自分を限りなくどこまでも許せるまでの旅である。
詩で世界に、未来に貢献する活動を行っている。

 193宇宙論後の哲学 哲学とは?!




この木は大学構内の古い大きな木。この木も哲学が発しているはずだ。


 

この夏哲学と芸術についての講義を受講。

カントから

フッサール

メルロ・ポンティ

周辺を取りあげた正統派な講義である。

学習院大学の酒井潔先生。

 

 

 

さて、

ここで定義について語るというより

哲学

というものについて感じたこと

 

を伝えたいと思った。

 

 

講義を聞いて思ったこと。

 

 

学生の頃哲学に出会った

 

自分は

受け身の人間であった。

巨大な世界に圧倒され

膨大な歴史に圧倒され

過去の偉人に圧倒され

自分を矮小化して感じさせられていたウインク

(私だけでなく多くの方がそうだと思う)

 

 そしてそれがいやだ!!

と思っていたんだ!ムキー

ま、今もずっとそれは思ってる照れ

 


しかしその後

自分探求が加速した

自分が

今ここにいる。

その上での哲学についての思い。

 

※注

これは改めて哲学と芸術の講義を聞いて、

今の私個人が感じたことであり、講義の内容でもなく、

一般論でもないことをお断りしておく。



哲学とは?


ある個人が


問いを発し、


それに対して


情熱を持って


答えを論理的に


導き出し


これはこうだー!

定義していく


学問だと思った。

 

 



今でこそ有名で


不動の地位を持つ


著名な哲学者たちだが


 

哲学とは


言ってしまえば


一個人の考察と


意見だといえる。ポーン




 

にもかかわらず人間は延々と、

疑うことなく(もちろん考察はするが)

多分この先も当分、

この一個人の意見を超えることは

ないのだろうと思った。

 

むしろそのことの方が


哲学したほうがいい。

 



本当は


一人一人が


自分の哲学を


自分の世界を


探求、構築して


発言していくこと

真の

哲学

なのではないか。


全ての人が哲学者である。

 


これが私の哲学だ。

 



 

有名な「現象学」を発信したフッサールは言った。

 

注(フッサールの現象学phanomenologie 

Edmund husserl.   1859-1938 チェコ東北部プロスティヨフ生まれ

真理の源泉は現象。現象についての学。)

 

『世界とは何か?』

 

と問うのではなく、



 

『世界はいかにして、そのようなものとして私に現れるのか』




『私は世界をいかに経験するのか』と問うのだ、と。

 

 



しかし!


 

『世界とは何か?』

と私は問いたい。


 

そして自分の答えを見つけて

言葉にして伝えよう。

 

続く