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余裕なんだぜ☆

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昨日の日曜日、いや日付的には一昨日。

仕事のあと立ち寄った渋谷ハチ公前で、
何やら雰囲気が違う集団に出くわす。
なんだろうと思いながら横目で2、3秒確認して通り過ぎた。

自宅に戻り、よく巡回するニュースサイトで、
その「ハチ公前の集団」のことを知った。
後藤健二氏と湯川遥菜氏の追悼集会だった。

記事をみれば、
「I am Kenji」
「I am Haruna」
とか書かれた紙を持った人たちが写っていた。
キャンドルを持った人もいた。

「rest in peace」(安らかに眠れ)
なんてのもあった。



辛い結末だった。
細かい説明はいらない誰でも知っている出来事。

海の向こう側、8700㌔の彼方で、
命を終わらせた二人。
その瞬間を迎えることは誰も望まなかった。



この出来事に関して、
テロの脅威はもちろんだが、
あることが気になっている。



安倍首相や政府を非難する意見。
その逆に評価する意見。
自己責任論。
テロの脅威。
世界平和。

どれも間違った論争や意見ではないのだが、
足りない。




昨年の10月だか11月に拘束されたんだっけ後藤氏は。
彼が命を終えるその瞬間まで、
彼はその間何を考えていたのだろう。

彼はジャーナリスト。
中東の情勢やリスクも承もちろん知していただろう。

彼は確か出国前には外務省から、
渡航を控えるように言われていたんだよね?

それでも、彼は8700㌔の彼の地に進んだ。
そして命を終えた。



もし自分が彼だったら?

最悪、死は考えただろう。
それも「どのように死を迎えるか」もある程度予測しただろう。
だってそうゆう職業なんだから。

まぁ死ぬ覚悟っていうことなんだが、
それがなく?
ジャーナリストを生業として渡航したのだとしたら?
おいおいおい。
脳みそお花畑もいいとこで、
もうそんなの勝手にどうとでもなればいい。
というお騒がせ事件になる。


功名心でリスクを見誤った?

可能性がないわけじゃないだろうけど。
そうゆうメンタリティで命を掛けるか?

でもさすがにそうじゃないだろう.....




彼のfacebookには、
英語とイスラム語と日本語で綴られている記事が残っている。

そこには彼の取材やメッセージが込められていて、
思想信念のあるジャーナリストなんだと感じた。



リスク管理とはいうけど....

もちろん望んで死を選ぶ人ジャーナリストは基本いないと思う。
取材記録を持ち帰って世に知らせる仕事なのだから。

でも、戦場に出入りするジャーナリストである以上、
覚悟はあるはず。

と考えるのが素直だ。



そうゆう人たちの行動について、
自己責任論を持ち出すのは何か違和感があった。
(湯川氏はちょっとよくわからないが)



偶然に追悼集会の横を通り過ぎ、
その記事を確認して今またじっくり考えている。



I am Kenji.

ってこれはデモンストレーションの一部なんだろうかと思う。


死をもたらしたISIL。
死に追いやった日本政府。

それらに対して、
「私たちは健二だ」
と言って抗議のメッセージを発信していたのだろうか?


札幌、仙台、東京、京都、福岡のそれぞれの場所で行われたそうだ。





後藤健二という人間がどのように生きたのか?
ということが見えてこない。

おそらくそれらを纏めているジャーナリストなんかがいるだろう。
半年以内か、ここ一年以内にそういった著作物が出てくると思うが.....




人である以上、いつかはその命は終える。
これを書いている自分もいつか消える。
これを読んでいる人もそう。

彼は遠く異国の地で命を落としたのだが、
その彼が「どう生きたのか?」に想いを馳せないで、
赤の他人が追悼とはどうなんだろうと思う。

彼がどう生きてどう死んだのかということに、

「I am Kenji」

なんてメッセージはいらないんじゃないか?

少なくとも自分が彼だとしたら?
自分のために開かれる追悼集会でそんなことは望まない。





テロが悪い。
政府が悪い。
自業自得。

事件に対しては必要な議論なのだろうが、

穿った見方をすれば、
みんな誰かを責めたいのか?

そんな風に思える......



まして追悼とは、
自分の主義主張を披露する訴える場ではないハズ。
とても違和感だ。

彼が真のジャーナリストならば、
日本の外で起きていることに目を向けてほしいだろし、
その国が抱えている問題や歴史、文化も知ってほしいと思っていたハズ。

まず知ることから始まる。

そこにジャーナリストとしての本分があるのだから。
そこに彼が生きた証があるのだから。

死は望まなかったとしても?
本分を全うしようとして命を終えたのかどうか?

せめてそこは考えてあげたいところだろう。




後藤健二氏。
彼が英雄だったのか?
それとも浅はかだったのか?
評価はまだ出ていない。

そんな状況の仲で。
家族や仲間以外の誰かが追悼集会を開く。

彼の死が、かの事件が、
違った意味で別の議論に利用される。
やっぱり何度考えても妙な追悼集会だと思う。

どう考えているのか一人一人に聞いてみたいところだ。
それが問題なく追悼だというのであれば?

きっと自分がおかしいのだろう。