2月9日、認知症だった母が84歳で亡くなりました。

4年前に父が肝臓がんで亡くなってから始まった、私の週末介護生活も、
突然終わってしまいました。

あまりに突然だったのと、いろいろ後悔があって、
なかなか気持ちの整理が付かなっかったのですが、
心の余裕と時間の余裕ができたので、
自分の記録として、書き残しておきます。

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▲若いころの、父と母。
盛岡から東北大学進学のため仙台に出てきた父の下宿先が、
母の家のすぐ近くだったそうです
(小田原車通り25番地:忘れないように記しておきます)。
宮城学院を卒業後、洋裁学校に通っていた母は、
モテモテで(自称)他にも言い寄ってくる人がたくさんいたけれど、
やっぱり、東北大学がよかった」ので父を選んだとのことです。うーん、そうなのか。


アルツハイマー型認知症の母、2014年3月末に父が亡くなってからは、
二世帯住宅で2階に住む兄、福島に居る私、京都の妹の3人で
面倒を見ていました。

父が生きてるときから、家事は一切できなくなってましたが、
父の死後も認知症はそれほど進行はせず、
何度も同じ質問をするのに答えるのが面倒だけど、
それ以外は心臓にペースメーカーが入っているくらいで、
トイレ介助も不要だし、服を用意すれば着替えも自分でできるし、
食事制限もなく、ちゃんと箸で食べることもできました。要介護度は2
足がちょっと弱いので、転ばないように気を付けることと、
1日に2、3度散歩に連れ出すのが介護者の役目でした。

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▲散歩には、保護犬出身の「ゆき」も一緒でした

基本的に火曜~金曜はデイサービス(小規模多機能型)に通い、
朝と夕方以降は兄が世話をしました。
土、日、月の3日間はデイサービスには行かずに、
私が一緒に居て、車で通院、買い物、食事に連れ出したりしました。

そのため、私は福島から片道200㎞、土曜のものすごく早朝に出発、
火曜日のものすごい早朝に千葉・流山の実家を出発して
福島に戻るという二拠点生活で、週の半分は介護に費やしていました。

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▲2015年12月、保護猫「くらら」と。

私はフリーランスで、基本的にパソコンがあればどこでも仕事ができるので、
それでも仕事には大きな影響はなかったものの、
その3日間は母と一緒に居るので、自由に外出はできませんでした。
私がどうしても都合つかないときは、妹が京都から来てくれました。
頻度は1ケ月に1回程度とはいえ、平日は普通に仕事をしているので
大変なことです。
兄の方針で、同居の義姉にも甥姪にもほとんど母の介護をさせませんでした。
平日、何かあるときは、自営業(警備会社経営)の兄が
仕事を休んで対処しました。

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▲保護猫ヨン様&シュガーちゃんがいたときは、面倒を見てくれる人がいないので、福島から実家に連れて行きました。

そんな生活も、大変だなあ、面倒だなと思ったことはあっても、
つらいとか、イヤだとかはほとんど思わなかったのですが、
2月3、4、5日の3日間、一緒にいるときには、なぜか

この先、少なくとも10年間は私の人生の半分は、
この人のために犠牲になるのかー」
「この人の人生って、何なんだろう。何もしないって、もったいない。私だったら、もっといろんなことができるのに」
などと思ってイライラしてしまっていたのです。
認知症以外は特に問題もなく、体は健康だったので、
あと10年どころか、100歳近くまで生きるのだろうと思っていました。
終わりが見えなかったので余計にイライラしてしまったようです。
これが最後とは知らずに。

それでも、普段は
「今まで自由にさせてもらったし、子育てをしていない分、
介護をするのは仕方がないんだろう」
と自分に言い聞かせて遠距離を毎週、通ってきました。
移動が大変だけど、嫌だとはあまり思わなかったのに。

それなのに、2月3~5日は、食欲がなくて調子が悪そうな母を
病院へ連れて行けばいいものを、買い物に連れ出したりしてしまいました。

寒い時期だったし、兄が少し前にインフルエンザに罹っていたので、
風邪かもしれないけど、少し様子を見ようと判断してしまいました。
正直、病院へ連れていって、インフルエンザと判断されて
デイサービスに行けなくなると私が福島へ戻れなくなる、
との思いもちょっとありました。
 5日(火)の早朝、実家を出て行くとき、母がちゃんと息をしているのを確認し、
「まあ、大丈夫だろう」と思ったのに
まさか今生の別れになるとは。

5日(火)、デイサービスに行き、午前中は変わらない様子だったのが、
午後3時ころ、調子が悪そうだからと家に戻され、
翌日の午後、兄が病院へ連れて行ったところ、
「脱水症状による細菌感染」
と診断され、点滴を受け、細菌を殺す薬を処方されました。
翌日8日(木)も、同様に点滴を受けて、かなり回復に向かっていたのです。
 私も、電話で様子を聞いて、
「じゃあ、命には別状ないね」
と一安心していたのに。

それが、9日(金)の朝になって、兄が着替えをしに離れた5分ほどの間に、
眠るように亡くなっていたそうです。
それまで、普通にちゃんと会話していたのに。
誰も、それまで死ぬなんて思ってもなかったのに。

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▲2017年6月、保護猫「ひゅうま」も一緒。

救急車を呼んで心臓マッサージをしましたが、息を吹き返すことはなく、
死因は「心臓周辺の大動脈破裂
と診断されました。
ただ、大動脈破裂は、心臓マッサージが原因なのかなとも思います。
それ以前に、細菌を殺す薬が強かったのではないかと。
今となってはわからないし、いずれにしても苦しまずに逝けたので
母にとっても周囲にとってもよかったのでしょう。

兄から電話があったのは、私とけんいちが、北海道に山スキー旅行に行く
直前でした。福島空港でチェックインし、搭乗を待っているときで、
慌ててすべてキャンセルし、私はすぐに実家に向かいました。


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▲「ゆき」は母の遺体に近づきません。いつもべったりだったのに。

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▲親戚以外には母の死を知らせなかったのですが、
母に会ったことのある、ボランティア仲間一同からお花が届きました。
ありがとうございます。

84歳という年齢だし、苦しまずに最期まで自宅に居られたし、
食事制限もなく、一人ぽっちになることもなく、とても幸せな人生でした。

それでも、私は母と一緒に居た最後の時間に、母を疎ましく思ってしまったことが
悔やまれてなりません。
私があんなふうに感じたことが母に伝わって、
そろそろ逝かなくちゃ」と思ったのかな。
父も「もう、優子を自由にしてやろう」と母に言ったのかもしれません。
あんなこと思って、ごめんなさい。
もっといろんなところへ連れ出してあげればよかった。
もう何もできないけれど。

現在、介護をしているみなさん、どうか後悔のないように、お世話してください。

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▲「ゆき」こと、「ゆきの」は私が福島に連れて帰りました。

 この子は、元・保護犬。千葉県内のとあるお宅で、奥さんがペットショップで「買った」犬です。買ったはいいが、間もなく若い男と出て行ってしまい、犬と一緒に残された夫は、「ゆきの」を庭に繋ぎっぱなしで、ごはんも3日に一度しかもらってなかったそうです。
見かねたボランティアさんが「ゆきの」を連れ帰り、
里親を募集していたのでした。2011年11月頃でした。

ちょうど、最後の犬「ポコ」を亡くし、両親がさみしがっていたので、
私が引き受けて、実家に連れていきました。
暗い過去をみじんも感じさせない、明るい性格で、
両親と一緒に楽しく暮らしていたのに、2年後に父が亡くなり、
その4年後に母も逝ってしまい、「ゆきの」も可哀想な子です。
「ゆきの」は、2011年1月生まれの、7歳。
余命10年くらいとして、母と同じくらいかなと思っていたのに、
2人とも見送ることになって、ごめんね。

実家に戻る用事があるときは一緒に帰り、
長期出かけるときは実家の兄にお願いしています。
母が亡くなってから、なんだか寂しそうで笑顔が少なくなった気がします。
幸せにしてあげないと、と思います。

葬儀編に続く。