(10)【結婚、山暮らしスタート。ツーリングマップルと出会う】
 ラテンアメリカの旅から戻って3年、30代半ばで私は人生の転機を迎えた。
 旅の途中で会った人と結婚したのだ。両親は諸手をあげて喜んだ。これで旅をやめて普通の人生を送ってくれる、と思ったようだ。ところがどっこい、相手は南米ボリビアで会った旅人でライダーのけんいちだったので、旅をやめるどころか、相乗効果でさらに長い旅に出てしまうことになるのである。結婚式など形式的なことは一切せず、新婚旅行はキリマンジャロ登山というのも、普通の人生とはやっぱり違っているかも。
 結婚と同時に実家を離れ、生活の拠点が那須高原になったのも大きな変化で、登山、山スキー、キャンプ&林道ツーリング、車中泊旅行など、ますますアウトドア系の趣味に傾倒していくことになった。インターネットも普及し始めたので、東京近辺に住んでいなくてもライターの仕事ができるようになり、那須を拠点に遊びも仕事も充実した生活を送っていた。東京生まれ・東京育ちの私だが、都会よりも田舎の環境のほうが性に合っていたようで、福島に移住した現在でも再び東京で暮らしたいとはまったく思わない。
 ただし、住んでいるのが田舎なだけで、一般的に「田舎暮らし」でイメージされる「古民家」や「ログハウス」ではなく、ごく普通の家だし「自然農」とか「自給自足生活」などは全然していない。農業で土地に縛られるのは大学時代に思い知ったし、二人とも旅好きなので、農業や工作、手芸などをする時間があればどこかに出かけたい質なのだ。
 大きな変化といえば、そのころ『二輪車ツーリングマップ』が『ツーリングマップル』にバージョンアップした。判型が大きくなってリング式になり、コメントも増え、写真ページも追加され、ライダーの間では大きな話題となった。
 そのときは、まさか自分が深く関わることになろうとは思ってもみなかったのだが、とあるバイク雑誌の地図特集で昭文社へ取材に行った際、当時の担当者K氏にいきなりスカウトされ、『関西編』の実走取材担当となったのがきっかけだった。
 1997年、ツーリングマップルは初版時にたしか賀曽利さんに全エリアの監修を依頼したものの、賀曽利さんが『東北編』の取材担当になることを希望し、7エリアそれぞれの担当者(著者)が実走取材をする体制になったと記憶している。以後、私は2001年から2004年は海外ツーリングのために担当を外れたものの、2005年から復帰したので、トータルでは16年も続けていることになる。
ツーリングマップルの取材はだいたい7~9月の間に行われ、表紙撮影のためにカメラマンと3日間ほど同行取材する以外は、基本的に実走取材者が自由に担当範囲内をバイクで走って取材、撮影をする。普通の観光ガイドブックと違い、取材対象もライダー目線でのチョイスで広告がらみがまったくないのもやりやすいし、泊まる宿を自由に決められるのもありがたい。
 おかげさまで、温泉旅館、公共の宿、宿坊、民宿、ゲストハウス、ライダーハウス、健康ランド、キャンプ場、ネットカフェなどなど、いろいろなところに泊まらせてもらっている。ツーリングマップル発刊当初は、携帯電話もまだ一般的ではなかったし、ネットも今ほど普及していなかった。宿もガイドブックで探して電話で予約していたので、その日の宿が決まるまでは落ち着かなかったものだが、数年前から宿泊サイトで簡単に検索、予約できるようになって格段に便利になり、観光地以外にある宿も見つけやすくなった。安価で気軽なゲストハウスが増えたのもありがたいし、さらに、10年ほど前から一般的になった(=私が利用するようになった)インターネットカフェは、宿の予約ができないときのセーフティネットとして大変心強い存在になっている。
 一方でセルフのガソリンスタンドが増え、高速道路の料金所も無人になり、コンビニやスーパーがあちこちにでき、バイク用のナビも普及したこともあり、旅先で人と話す機会が格段に減ったように思う。スマホで常に友達や家族と繋がっているので一人旅でもさみしくないのだろうし、インスタグラムやツイッター、ブログなどをやっていれば、忙しくて誰かと話すヒマもないのかもしれない。

(11)【21世紀始まる。四国遍路の旅を終え、夫婦で世界の旅へ】 
イメージ 1



 20017月、私たち夫婦は長い海外ツーリングに出た。結婚3年後のことだ。夫は、そのために仕事を辞めた。
 我が両親、友人知人の多くは、私がそそのかしたと思っていたようだが、そうではない。私はフリーランスなので、自分で休みを調整すれば比較的長い旅ができるし、那須での生活が気に入っていたので、しばらくこのままでいいと思っていた。旅は、夫の強い希望だった。
 結婚後、那須の家には「海外ツーリングの教祖」やら「原付専門海外ライダー」やら「旅する主婦ライダー」やら何人もの海外ツーリングライダーが押しかけてくるようになった。日本ではバイクに乗っているけれど、海外はバックパッカー旅しかしたことがなかった夫は、彼らの影響でバイクでも海外を旅したくなったというのが原因であって、私のせいではない、と思う。
 蛇足だが、この旅の直前、夫が仕事を辞めてから出発するまでの間には犬と一緒に歩いて四国八十八ヶ所巡礼をした。2ケ月弱、歩き旅の世界もなかなか濃いものだった。
 海外ツーリングは、まず日本からバイクと一緒に船でロシア・ウラジオストックに渡り、シベリア・中央アジア経由でユーラシア大陸を横断→ヨーロッパ一周→アフリカ一周→アジア横断というのが大まかなルートだった。
 ロシアが自由旅行できるようになって間もない時期だったが、日本人がバイクでヨーロッパから横断して日本まで来た例はあったし、サイドカー付バイクで往復した知人のスイス人・日本人夫妻もいた。そのため私たち日本人が日本から出発して旅することも可能だと考えた。しかし、ロシアは入国ビザが必要で、日本の旅行会社でビザ申請してもらうには、事前に滞在期間中のホテルや移動手段をすべて予約しないとだめだった。それでは自由旅行なんてできないし、バイクではますます無理な話だ。
 結局、先述のスイス人・日本人夫妻にサンクトペテルブルグの旅行会社を紹介してもらい、ビザ申請に必要な招待状を書いてもらって無事、3カ月間のビジネスビザを取得することができた。
 そうしていろいろな手続きを済ませ、新潟からロシアのウラジオストック行きの船にバイクとともに乗り込んだ。日本人は私たちだけ。船の甲板にはトヨタの中古車やら家電製品やらがいっぱい積まれていて、貨物船のような様相だった。23日かけてウラジオストックに到着したが、そこからが大変だった。税関の手続きは手探りだし、ロシア語でやりとりしながらようやくバイクを引き取っても、港にも町にも観光案内所などはなく、英語はまったく通じない。何しろ、ホテルのことも、「ガスティーニッツァ」とロシア語で言わないと理解されないし、当時は資本主義国と違って看板類も目立たないから、外見からそれが宿だと判断するのも難しい。旅慣れた私たちだから、現地に着いてから探しても何とかなると思っていたのだが、さすがにロシアは事情が違った。外国人観光客もバックパッカーもまったくいなかった
 苦労して探し当てたホテルはどこも満室で「ニエット(NO)」と断られる。結局、タクシーのおじさんが親戚の家に泊めてくれるように頼んでくれた。つまり、民泊だったが、この後も何度となく、ロシア人家庭にお世話になり、ロシア人に対して持っていた「冷たい、笑わない」というマイナスイメージは見事に吹っ飛んだ。だから、旅っておもしろい。
 39カ月間、80か国余。旅の話は山ほどあるのですが、その中からいくつかをピックアップして紹介します。

***********************************************************************
計画では通り過ぎるだけのつもりだったヨーロッパに予定外に1年以上も滞
在したことは、とてもいい経験だった。バイク&キャンプだったから物価の高
いヨーロッパを1年も旅できたし、物価激高の北欧に2か月も居られたのは、バ
イクのおかげで野宿&自炊旅ができたからだ。あらためてヨーロッパだけ1年間、
バイクで旅をするかと問われたら、資金的にも気力的にも、きっとNOだ。
あのとき行っておいて本当によかった。
アフリカ大陸をモロッコからエジプトまで、ほぼ陸路で一周できたのは本当
にラッキーだった。多くの人は、政情不安でビザがもらえなかったり、突然、
国境が閉まったりしてバイクを空輸するような事態になっていた。中国でSARS
が流行ったからと、日本人も一緒にビザ停止になった国もあった。
中東もイラク以外の国は問題なく旅ができた(イラクで日本人が人質になっ
たり緊張が高まっていた時期)。今やイスラム国が支配しているシリアも平和で
楽しく旅行できた。
インド好きな夫は、若いころにインドとネパールを長く旅していたが、その
ときとバイクで旅した今回の旅ではインドの印象がずいぶん違うと言っていた。
バックパッカーだと駅やバスターミナルなどを利用せざるを得なくて、そこに
はいろんな客引きが手ぐすね引いて待っているので、とても気力体力を消耗す
るらしい。旅の初心者だとすぐに騙されるし、それでインドを嫌いになる人も
少なくないそうだ。バイクならそんな思いはしないし、リクシャやタクシーの
運ちゃんも客ではない私たちには普通に接してくれる。何より、観光客が行か
ない普通の町や村で普通のインドの人たちと会えることが、印象の違いになっ
たと思う。
シベリアでも、バイクで陸路を自由に移動したからこそ、多くの普通のロシ
ア人と出会えたし普通のロシアの暮らしを知ることができた。シベリア鉄道に
乗って移動し、大都市や観光地にしか行かなかったら、ロシアの印象はずいぶ
ん違ったものになっていたと思う。

***********************************************************************
 当時、ツーリングマップルのWEBサイトで旅の様子を逐次掲載してもらったので、見てくれていた方もいると思うが、私たちがロシア事情を詳しく書いたためか、翌年以降、ロシアへ船で渡る日本人ライダーが少しずつ増えていき、今では海外ツーリングの定番ルートになっている。税関の手続きを代行してくれる業者もいるそうだし、ネットで宿の事前手配も可能になったので、私たちのように、ウラジオストックで右往左往することもない。日本人だけでなく、欧米人ライダーもロシアを横断して日本にやってくるようになった。
 そんなこんなで、計画時には2年半だった旅は、大幅に遅れて結局39か月にもおよんでしまった。中国の上海から船に乗り、ようやく神戸港に降り立ったのは2005425日の朝。神戸や大阪ではまさにその直前に起きた、JR西日本の脱線事故を報じる号外が配られていた。
 旅から戻った後も大変だった。出発前まで住んでいたのが社宅だったため、家財道具一式を処分して行ったのだが、そのせいで何もない。住む場所もなく、最初はお互いの実家を行ったり来たりしていたが、独身のとき以上に居心地が悪い。早く自分たちの場所を作らないと、と切実に思い、夫の就職とともにアウトドア環境に恵まれた福島県に家を借りて住み始めた。
 賃貸契約、家電一式、車2台などを揃えると、海外ツーリング費用の半分くらいかかった。長い旅をする場合、旅の資金だけでなく、日本を留守にする間のモロモロの費用(税金、年金、健康保険など)や海外旅行保険(カード付帯の保険は3か月以内が対象なので、それ以上の場合は年間10万以上の保険代がかかる)など、直接的な旅の費用以外のお金もけっこうかかって大変だが、帰国後
の資金も忘れずに用意しておかないとならないことを痛感した。
 そうして20056月、帰国から1か月余りで私たちは福島で日本の生活を再スタートさせた。

(12)【東日本大震災 東南アジア】
 2011311日午後246分、東日本大震災が起こった。福島県中通りの我が家は震度6強の地震で大規模半壊してしまった。そして、直後の原発事故で放射性物質がばら撒かれた。福島第一原発から我が家までの直線距離は70km。危険なのか安全なのかわからないが、もともと縁もゆかりもない福島。本気で脱出するつもりで車に荷物を積み込んでスタンバイしていたが、戒厳令のような状態でしばらく軟禁生活をしている間に、福島がこれからどうなっていくのか最後まで見届けてみようと思うようになり、留まることに決めた。
 福島で暮らし始めて7年目。中古ながら家も購入して念願の拠点ができ、あたりまえのように山だスキーだツーリングだと自分たちの生活を楽しんでいたのだが、あの日を境に、いろいろなことが変わった。終わりを意識するようになり、やりたいこと、やるべきことを先送りにしないことにしたのだ。
 震災直後、私はボランティアで原発被災地でのペットレスキュー活動を始めた。無人となった原発20km圏内に置き去りにされた動物たちの惨状を知り、居てもたってもいられなくなったのだ。犬猫好きを自認しているのに、福島に住む自分が何もしないでいたら、私はきっと後悔する。一生、そのことを負い目に感じて生きていくことになる。そういう思いで警戒区域に潜入して残された犬猫への給餌やレスキュー、保護シェルターでのボランティアなどをしながら、福島の被災地をずっと見てきた。動物保護活動は興味はあったけれど、旅ができなくなるからと、あえて遠ざけていたことだったが、旅との折り合いを付けながら、6年以上経った現在でも続けている。
 夫のほうは、原発事故が大きな引き金になり、
「いつ死ぬかわからないのだから、できるときに好きな旅をしよう」
と、1年後の20124月で仕事を辞めてしまった。2005年に帰国したときには、「次の長い旅は定年後」と言っていたのだが…。
 そうして、夫は再び旅人となり、国内はもとより、韓国、台湾、そして東南アジア、インドネシア、スリランカ、北中南米ツーリングへと行くことになったのである。私もできる限り一緒に行った。バイクではないが、北朝鮮へも行った。これらは2001年から2005年の旅では行かなかった国々だ。とくにインドシナ半島(東南アジア)はバックパッカーにとっては安くて近くて旅もしやすい国々なのだが、世界一周ツーリングでは逆に行きにくいのだ。というのは、陸路ではミャンマーか中国を通って行くことになるが、どちらも外国人の個人的な車両持ち込みは許可していない。そのため、インドシナ半島を自分のバイクで旅するのならネパールあたりからタイへ空輸することになるが、マレー半島の先端であるシンガポールから再度、どこかにバイクを輸送しなくてはならない。いわば島国と同じで手間も費用もかかるので、世界一周ルートからは外されることも多い。私たちもバイクでは行ったことがなかった。旅の難易度が高くて体力的に大変そうなアフリカや中南米や、社会主義国などを優先して、いつでも行けそうな東南アジアツーリングは後回しにしたのだが、震災をきっかけに、ようやく行く機会ができたというわけだ。
東南アジアツーリングは201212月~20133月、201312月~20143と、乾季に合わせてそれぞれ3ヶ月あまりかけて行ってきた。メインで使ったバイクはタイで新車購入したホンダ・ドリーム(タイカブ)110cc1年目はタイ、ラオス、カンボジア、ミャンマーを旅し、2年目はベトナム一周とマレー半島縦断を果たした。ミャンマーは、バイクでは入れないのでバックパッカー旅。ベトナムは、バイクでの国境越えが難しい代わりに、簡単にバイクが売買できるので現地で調達した。また、インドネシア、スリランカ(こちらは夫のみ)も同様に、110cc125ccのスクーターやカブを1510ドルでレンタルしてツーリングした。


 この旅で、安くて気軽に行ける東南アジアツーリングの魅力にすっかりはまってしまった。東南アジアなら小排気量でも十分だし、大きなバイクと違って小回りが利くうえ、故障しても修理屋さんがどこにでもあるのですぐに直してもらえる。宿も食事も安いので、キャンプや自炊道具も不要。だから荷物も必要最小限で済む。物価も安いから資金もそれほど必要ないし、短期間でもそれなりに楽しめる。つまり、会社を辞めなくても海外ツーリングができるのだ。
 バイクの現地調達&無改造で海外ツーリングの敷居を低くした私だが、小排気量のカブでアジアを走るツーリングはさらに手軽なので、最近は東南アジアとインドネシア、台湾ツーリングを絶賛オススメしている。日本でも小型バイクの旅を実践したくて、今年の春、とうとう110ccのカブを購入してしまった。

ところで、震災後、私の人生でまたちょっと変化があった。2度めの東南アジアツーリングを終えた20143月に我が父が癌で亡くなり、その後、認知症が進んでしまった母を介護するために福島と実家のある千葉を往復する生活になった。それが理由で20146月~20162月にかけての北中南米ツーリングは夫が一人で行ったが、私は以前にラテンアメリカは行っているし、東南アジアを存分にツーリングできたことで、自分の中ではひと区切りが付いていた。だから、現在の介護生活も嫌だとか、つらいとは思っていないし、ボランティアも自分がやりたいから続けている。何事もポジティブに考えられるようになったのも、世界をいろいろと見てきたおかげかもしれない。

 これからも終わりを意識しながら、今日が人生最後の日でも後悔しないよう、やりたいこと、やるべきことをどんどんやって行こうと思う。
 とりあえず、目下の目標は、カブで日本一周ツーリング! いつか、日本のどこかでお会いしましょう!