(5)【オーストラリアツーリング ~ワーキングホリデーで9ケ月滞在~】
198710月、私はワーキングホリデー(以下、WH)ビザでオーストラリアへ飛んだ。1人ではなく、ブラック企業時代の同僚女性も一緒だった。私の影響で二輪免許を取得し、ライダーになったMさん。オーストラリアの話をしたら何と、一緒に会社を辞めてしまったのだ。
 2人とも英語はまったくできないので、最初の1か月はシドニー市内の別々の家庭でホームステイしながら、英語学校へ通った。その後シェアハウスに移り、アルバイトも始めた。日本ではごく最近、ようやく普及しはじめたシェアハウスだが、オーストラリアではその頃から一般的で、家賃も1週間単位、煩雑な手続きもなく気軽に入退居できるので、WHの若者はみんな利用していた。
アルバイトも簡単に見つかり、チョコレートのパッキング工場の日雇い仕事では日本で働く以上のお金がもらえたし、旅の途中でブドウ摘みのアルバイトもした(こちらは安かった)。日本人観光客向けのレストランやツアーガイド、免税店の仕事もたくさんあり、けっこう高給がもらえた。ただし、日本人同志でシェアハウスに住み、日本人相手の仕事をすれば英語を話さなくても暮らせるので、ほとんど英語を覚えないまま帰国する人も少なくなかった。
さて、バイクは日本人WHオフィスの売買コーナーや、バイク屋などを地道に回って探し、結局、中古品売買専門の新聞で見つけたホンダXLR250を2台、新車の半額以下で手に入れた。
 オーストラリアでのバイクの売買は拍子抜けするほど簡単で、前オーナーからもらった登録書類を陸運局に持っていって書き替えてもらうだけ。住所はホテルでもステイ先でもOK。保険もその場で入れる。バイク屋で購入した場合は、こうした手続きもすべてお任せできるので、さらに簡単だ。一方、日本からバイクを送る場合は、JAFカルネ(通関書類)を作ってから船会社を探して梱包し、現地での受け取り時に税関で手続きするなど、費用も手間もかかるうえ、ツーリング後は日本に送り返さなくてはならない。
 つまり、バイクが現地で調達できれば、海外ツーリングの敷居も費用もぐっと下がる。オーストラリアの場合は島国で国境越えもなく、カルネも必要ない。日本からわざわざバイクを運ぶなんてナンセンスだ。バイク用品もアウトドア用品も、日本製品並みのレベルを求めなければすべて揃った。
 また、大陸一周3万km、4か月半のツーリングの間、あえて砂漠のルートを選ばなければ、ほとんどは舗装路だったし、雨季を避ければ洪水で溺れかけたりもしないし、何度もパンクしたりすることもなかった。キャラバンパーク(=キャンプ場)はほとんどの町にあり、泊まるところには苦労しなかったし、物価は日本の3分の2くらいで安く済むし、気を付けていれば水やガソリンも問題なかった。オージー(オーストラリア人)はみんな親切で、片言の英語でも楽しく旅ができた。
それまで「海外ツーリング」といえば、ものものしく改造したオフロードバイクを日本から船便で送り、スポンサーを付けて行くものだと思っていた。実際、雑誌に掲載されているのはそういう記事ばかりで、憧れていた女性ライダーの先駆者・堀ひろ子さんも、女性2人でサハラ砂漠を走ったときは、バイクメーカーはじめ、たくさんのスポンサーを付け、サポートカーまで同行させていた。ちなみに、このころ私はまだ賀曽利さんを知らなかった。一般人には海外ツーリングなどとても無理だと思っていたのに、オーストラリアなら現地でバイクが簡単に売買できるし、バイクの改造もほとんどしなくて問題なかった。ちょっと頑張って働けば、誰にでも稼げるくらいの費用で行けるからスポンサーなど付ける必要もない。
 実際、オーストラリアを旅する日本人ライダーやチャリダーにも何人か会ったが、みんな気負わず、バイクを大改造している人もいなかった。
中には日本でバイクに乗ったこともないのに、オーストラリアで二輪免許を取って大陸一周ツーリングに行く人さえいた。つまり、バイクはもちろんのこと、日本で何の準備もしていなくても、オーストラリアならお金を持って行けばツーリングができる。さらに、WHビザで行けばお金だって現地で稼げるのだ。
 どうして、そういう情報が日本ではあまり伝わってないんだろう。一部の人の豪華版海外ツーリングや、過酷なツーリングばかりじゃなくて、普通の人が安く気軽に海外をツーリングできるということをちゃんと伝えなくては、と強く思った。そうして9カ月間の滞在後、日本に帰国した私は「OUTRIDER」をはじめ、何誌かにオーストラリアの情報を書かせてもらった。さらに「地球の歩き方」シリーズで「オーストラリアドライブ&ツーリング編」の出版が決まり、私もかなりの部分で協力したし、友人知人にもオーストラリアツーリングのことを吹聴して回った。 その甲斐があったのか、1990年代前半、オーストラリアをツーリングする日本人が爆発的に増えた。
時代はバブル真っ盛り。高給なバイトはいくらでもあったし、旅した後の再就職も簡単で、会社を辞めやすい時代背景も手伝い、多くの日本人ライダーが南の大陸を目指した。
 このころ、ライダーだけでなく、オーストラリアは日本人の旅行先として大人気になり、ガイドブックなどもたくさん発行されるようになった。フリーのライターとなった私も、この後しばらくはオーストラリア関係の仕事に明け暮れるようになったのである。

(6)【フリーライター生活 ~革命後の東欧へ~】
オーストラリアから帰国後にフリーライターとなったと書いたが、バイク雑誌にオーストラリアの記事を書かせてもらったくらいで、すぐにライターとしての仕事があったわけではない。まずは東京下町の実家に転がり込み、ぼーっと過ごしていると、昭和ヒトケタ生まれ、日本の高度成長期を会社という組織で過ごした父親から、「お願いだから、『会社』と呼ばれるところに入ってくれ」と懇願された。
 でも、私はオーストラリアだけで旅を終わらせたくはなかった。
 『会社』に入ったら、旅に出るためにまた仕事を辞めなくてはならないし、旅の経験だっていかされない。だったら仕事でも何でも旅ができるほうがいいし、旅の経験も仕事にプラスになるだろうと思い、旅行関係のライターを目指した。
 そんなときに、高校の友人・菊池くんから連絡があった。
 今では山岳写真の大家となっている菊池くん(菊池哲男氏)だが、その頃はまだニコンの社員で、その傍ら、山岳専門雑誌でときどきカメラマンもしていた。その山岳雑誌の編集部で契約アルバイトを募集しているから、どう?と声を掛けられ、そのまま編集補助の仕事に就いた。 海外ツーリングの先駆者「賀曽利隆」の名前を初めて知ったのは、このころ。山岳雑誌編集部の資料室で賀曽利さんの著書「極限の旅」を見つけ、奥さんが洋子、長女の名前が「優子」、そのうえ、みんな血液型がBというので「私は、きっとこの人と縁がある」と思った。というのも、我が家も父親が「タカシ」、母親が「ヨウコ」、そして私が「優子」で、やはりみんなB型だったからだ。この予想通り、その後しばらくして「地平線会議」という地球冒険者のネットワークで賀曽利さんと知り合い、以来、ずっと縁が続いている。
 ちなみに我が父は、旅とは縁のない会社人間で、賀曽利さんの長女優子さんも父親とは違い、普通の人生を歩んでいるそうで、親子で真逆という関係も似ている。
山岳雑誌編集部でアルバイトをした後、オーストラリアのムック本の取材で再度オーストラリアへ行ったり、大手情報出版社から呼び戻されたり、旅に関する仕事ならできる限り引き受けるようにしているうちに、やがて海外旅行ガイドブックをメインに、アウトドア関連やバイク雑誌など、趣味が仕事に結びつくようになり、フリーのライターとして独立した。
 そうして忙しく過ごす中、19891月、昭和が終わり、平成となった。仕事に追われ充実はしていたものの、自分の旅をしたいためにフリーライターになったのに、次の旅に出るきっかけがつかめないでいた。
そんな矢先、198911月に「東欧革命」が起こった。東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が壊され、東欧の人々が壁を越えてどんどん西側へ移動し、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーほか、東欧各国が将棋倒しの駒のように、次々と民主化された。最後はルーマニアの独裁者・チャウシェスク大統領夫妻が公開処刑されるというショッキングな結末で一区切りとなったが、その後のバルト三国のソ連邦からの独立、そしてソ連邦の解体へと続く序章であり、東西冷戦が終結する導線となった。
 東欧革命のニュースを連日、食い入るように見ながら、私は「次はここへ行こう」と決めた。
 忘れられていた、もうひとつのヨーロッパ。いったい、どんなところなんだろう、とワクワクした。ただ、オーストラリアのとき以上に情報はなく、それどころか革命後の東欧がどうなっているのか誰にもわからない。それでも「きっと、私は行ける」と思った。
 バイクはやはり現地調達にこだわった。前例はなかったが、バイクが手に入らなければ自転車でもいいし、バックパッカー旅でもいい。とりあえずは、情勢が安定している西ヨーロッパでバイクを探そう、とドイツ・フランクフルトに降り立ったのが、19907月。東欧革命からまだ8か月しか経っていなかった。このときは、ラジオ番組の公募で国際レポーターに選ばれ、30万円もらった。
フランクフルトではユースホステルに泊まりながら、街でライダーに声を掛けてバイク屋さんの場所を聞きだした。何軒目かの店でカワサキKMX125の新車を40万円ほどで購入することができた。2ストという点が気になったものの、私の体格と予算的に無理のない小排気量のバイクはヨーロッパにはほとんどなく、ほかに選択肢がなかった。
 ドイツでは外国人でも問題なく、しかも税金なしでバイクが買えた。グリーンカード(滞在許可証)の期限が切れる前に国外へ持ち出すことを条件に、外国人用ナンバーが交付されるのだ。それらの手続きもドイツ語しか通じない陸運局で泣きそうになりながら一人でがんばった。よく、フランス人は英語を話さないと言われるけれど、実際は話せないのだ。ドイツでも同様で、ドイツの田舎町などでは片言の英語も通じなかったりする。そういう私は、フランス語とドイツ語に関しては、ほとんど覚えられなかったのだが。
 そうして無事バイクを手に入れ、東ドイツ(まだ統一前だった)、ハンガリー、チェコスロバキア(まだ1つの国だった)、ユーゴスラビア(まだ分裂していなかった)、ブルガリア、ルーマニアと、ポーランドを除く東欧諸国を2か月間かけてツーリングした。「強制両替」や検問など、まだ共産主義的制度が残っていたうえ、ハンガリーで詐欺に遭ったり、チェコで怪我をして入院したり、ルーマニアでアメリカ人金持ちオヤジに金で買われそうになったりと、アクシデントも何度かあったが、予想していたよりはスムースに旅ができた。中でもハンガリーやチェコスロバキアなどは、西側からの観光客も多く、拍子抜けするくらいだった。一方で、ブルガリアとルーマニアは格段に遅れていて、ガソリンや物資が不足していた。旅人がいないので情報がなく、宿も少なくて旅はしにくかったものの、その分、人々は親切で、あちこちで自宅に泊めてもらい、いろいろ世話を焼いてもらった。
 とくにルーマニアは、チャウシェスク政権下では、外国人を家に泊めることはおろか、話すことも禁止、あちこちに潜んでいる私服の監視員に逐一行動をチェックされていたこともあり、開放感もあってか外国人である私に多くの話を聞かせてくれて、大変印象深い国になった。
 東欧の詳しい旅の話はここでは書ききれないので、別な機会にできれば、と思う。
今思い返してみても、歴代の旅で一番大変だったけれど、革命直後の東欧を自分の目で見て来られたことは、二度とできない貴重な経験になった。12年後の2002年、東欧各国を再びバイクで訪れたのだが、もう、あの頃の東欧と出会うことはできなかった。

(7)【初めてのアラブ世界。サハラ砂漠縦断の旅へ】
 東欧の旅を終えて西ドイツのフランクフルトに戻り、日本に一時帰国したあと、アフリカ大陸を目指して南下した。今度はサハラ砂漠縦断だ。フランス・マルセイユからフェリーでアルジェリアの首都・アルジェに渡る。どんよりと曇った初冬の空の下には私の不安を映すような鉛色の地中海が広がり、船の中は髭面で目つきの鋭いアラブ人ばかりで緊張した。日本の中古船らしく、あちこちに書かれた日本語に少しほっとするものの、船内には硬い椅子しかなく、隙間風が入ってきて寒いし、不安と緊張のためにまんじりともできないままに次の日の朝、KMX125とともに、アルジェの街に到着した。
 初めてのアラブ世界。見慣れぬアラビア文字、尖塔のモスク、そこから聞こえてくる独特な旋律のアッザーン(礼拝を呼びかける合図)、チャドルを被った女性たち。ああ、まさに「異邦人」(久保田早紀の歌です)ワールドが広がっていた。
 そんな中、たった一人で歩く東洋人の女が珍しくて、みんな遠慮なく視線をぶつけてくる。いきなり住所を聞かれたり、お茶に誘われたり、後をついてこられたり。最初のうちは怖かったけれど、慣れてくると逆にみんなが注目してくれる分、安全だとわかった。
 実際、アルジェリアでは女一人で旅する私を心配してくれて、ユースホステルのオーナーが食事に連れて行ってくれたり、知り合った人が家に泊めてくれたり、「次の街には親戚がいるからそこに泊まりなさい」と住所を教えてくれたり、どこでも親切にしてもらったし、東欧のように詐欺や盗難はなかったし、しつこい物売りや物乞いもいないし、ぼったくりもなく、治安はとてもよかった。
 近年は一部の過激派のせいでイスラム教そのものが誤解されているようだけど、イスラム教では「旅人には親切にせよ」という教えがあり、本当は礼儀正しくて親切で暖かい人々だ。お酒があまり飲めないのと、犬が少ない(犬を遠ざけよという教えがある。これは、狂犬病予防のためという説がある)のが、どちらも好きな私にとってはつらいけれど(イスラムが厳格な国ほど、どちらにも厳しい)
アルジェリア以外のイスラムの国々もどこも印象がよかったので、偏見を持たれている現状が、なんとも悔しい限りだ。
話は戻って、1990年のアルジェリア。アルジェを後に、どんどん南下する。アトラス山脈を越えると荒涼とした砂漠の風景になり、町と町の間隔が長くなって交通量もほとんどなくなる。ガルダイヤ、エルゴレア、インサラーなど、オアシスの街を繋いで走り、やがてサハラ砂漠越えの拠点、タマンラセットにたどり着いた。
 サハラ越えには3本のルートがあるが、その当時通行できたのは、アルジェリアを縦断してニジェールへと抜ける「ホガール・ルート」のみだった。その起終点になるのが、タマンラセットの町で、そこからニジェールのアーリットまで約630kmが、砂の道(ピステ)。途中、400km先にある国境の町、インゲザムが唯一の給油地点だがガソリンの有無は不確定らしい。
 これから越える砂漠の準備のため、あるいはニジェールから越えてほっと一息つくため、タマンラセットのキャンプ場には、サハラ越えの旅人たちがたくさん集まっていた。ほとんどは車で旅する欧米人だったが、中にはバックパッカーや自転車の人もいた。砂漠を越える公共の交通手段はないが、砂でスタックしたときに車を押す人員確保のため、バックパッカーを乗せてくれる車も少なくないのだ。
 キャンプ場には日本人の旅人も10名近く、来ていた。こんなところまで来るのだから、相当なツワモノばかりで、旅のミニコミ誌『旅行人』編集長で旅行作家の蔵前仁一氏夫妻、のちにオフロードバイク雑誌の編集長となるS氏や私を含め、ライダーが4名、ほかに自作のリヤカーでサハラ縦断に挑む冒険家の河野兵市氏もいた(2001年、北極で死去)。蔵前氏はこの旅を「ゴーゴーアフリカ」にまとめていて、その中に私も少し登場している。
 私はキャンプ場で知り合った改造トラックで旅をするドイツ人たちと一緒に砂漠の旅へ行く予定だったが、私のビザ延長が遅れたため、後日、1人で出発することになった。同行してくれるという車もあったけれど、ほかのライダーやリヤカーの河野さんも単独で行くというし、いろいろ考えた末、私もひとりで行ってみることにしたのだ。
 22リットルのガソリン、8リットルの水、1週間分の食料を積むと、125ccのバイクは座る場所がないくらいになった。深砂と砂嵐に遭って何度も転倒し、1日100kmしか進めない日もあったが、3日目にインゲザム手前でトラックのドイツ人たちと再会、その後は一緒に行動し、1週間ほどかけて無事に砂漠を越えた。
 サハラを越えたあとは、ブラックアフリカに揉まれながら旅を続けた。アラブ人とは明らかに違った顔立ちの黒い肌の人々、色鮮やかな衣装の女性たち、しつこい物売り、まとわりついて離れない子供たち。生きるために貪欲なまでのパワーに圧倒された。

 サハラを越えてすぐ、ニジェールのアガデスという町でパリ・ダカールラリーの一行に出会った。生きるためだけに必死な貧しい国に、先進国の人間が娯楽のために大金を使っての大名旅行。アフリカを蹂躙し、見下しているようにしか見えなかったし、高額な参加費用を払い、誰かにオーガナイズされ、決まったコースを決まった期間で他人と競争しながら走ることは、旅とはまったく別モノだと思った。そういう私の旅だって、娯楽には違いないのだけれど。
 最後は、コートジボワールの首都・アビジャンで工場を営む日本人にKMX12510万円で買ってもらい、単身、ドイツに戻って3か月余りの旅を終えた。
 東欧を含めた19901991年の旅は、社会主義国、イスラム教国、砂漠、ブラックアフリカなど、先進国とはまったく価値観の違った異文化との遭遇であり、私にとって、確実に冒険だった。よくやったなあ、と我ながら思うし、いいタイミングで行けてラッキーでもあった。
 というのは、私がサハラを越えてから間もなく湾岸戦争が起こってアルジェリアも政情不安になり、さらに内戦も勃発して非常事態宣言が発令された。そして、アラブの春などでアルジェリアへの入国は今でも難しいままだからだ。
2004
年に再び西サハラルートでサハラ越えをしたが、その西サハラルートも数年前に全線舗装路となった。GPSも一般的になったので砂嵐で視界がなくなっても位置を見失うこともない。砂漠の海をラリーゲームのように走っている人もいるらしい。もう、サハラ越えはただの移動で冒険ではなくなってしまったのかもしれない。
 多少でも冒険的な要素がある時代に、行っておいてよかったと思う。

(8)【バックオフ誌、賀曽利さんとの出会い】
 サハラから戻り、旅の余韻に浸るヒマもないまま、日本でまた忙しいフリーライター生活が始まった。海外でも1人で動ける駆け出しライターは使いやすかったのだろう、仕事はたくさんあり、スキー、キャンプなどアウトドア関係、旅行ガイドブックの仕事を精力的にこなした。1年に3~4回は海外取材に出かけ、トンガとかカリブ海諸国など、かなりレアな国へも行けたのは役得だった。
 世の中はバブル真っ盛り。お台場に伝説のディスコ「ジュリアナ東京」がオープンし、ワンレン・ボディコンの女性たちが「ジュリ扇」を降り回してお立ち台で派手に踊っていた時代。残念ながら私は一度も行ったことがなかったけれど、行って見ておけばよかったな、と後悔している。でも、行ってたら人生変わってたかもね。
 私に関しては、バブル時代に東京に居たわりには、いまひとつバブルの恩恵にあずかれなかった。その分、バブルがはじけてもほとんど影響はなかったので、まあよかったんだろう。
 そんなバブル真っ只中の日本に戻って半年くらい経ったある日、旅関係の仕事で知り合ったG社の編集者Oくんから、オフロードバイク雑誌『バックオフ』の編集部に移動になった、と連絡がきた。当時『バックオフ』のメインキャラクターだったのが、日本人海外ツーリングの第一人者、賀曽利隆氏。毎号のように、誌面に元気よく登場していた。
「えっ!じゃあ、そのうち賀曽利さんに会わせてよ~」
とOくんに何気なく言ったら、2時間後、「サハラ組の日本横断」という企画がいきなり決まった。Oくんもサハラを125ccのバイクで走った経験があり、サハラ砂漠を日本人で最初にバイクで走った賀曽利さんをリーダーに、私、Oくんの3名で紀伊半島・潮岬から越前岬まで野宿しながら林道も走って日本横断ツーリングをする、という内容だった。
 その紀行文を賀曽利さんが『バックオフ』に、私が『レディスバイク』(どちらも出版元はG社)に書くという、ひと粒で2度おいしい取材。編集のOくんがカメラマンも兼ねるし、全行程野宿なので経費も少なく済む。そんな素晴らしい企画を考えた優秀な編集者Oくんは、その数年後に編集プロダクションを立ち上げ、現在は時計関係のスペシャリストとして活躍している。
 紀伊半島といえば、この4年前に行った『アウトライダー』誌の野宿ライダー教祖、寺崎氏との同行取材も紀伊半島で野宿ツーリングだったのも、何か因縁を感じるなあ。
 あれから4半世紀、両御大とも未だ現役で、しかも同じスタイルで走り続けているのはすごいことだと思う。
 その取材がきっかけで、私は『バックオフ』の仕事をするようになり、賀曽利さんの記事の編集をしたり、全国の林道紹介、海外ツーリング情報ページほか、いろいろな記事を担当させてもらい、あちこちへ取材に行った。特に1992年、ソ連邦解体直後のサハリンへのツーリングツアーのレポーターの仕事は貴重な経験だった。まだ定期船はなく、稚内からチャーター船に乗り、自分のバイクを持ち込んで行ったが、自由にツーリングできるわけではなく、常時パトカーが随行し監視されていた。そんな時代を見ているからこそ、21世紀にロシアが自由に走れるようになったときの驚きも大きかった。
 1990年代前半はオフロードバイクがブームだったのか、ライバル誌の『ガルル』とともにオフロードバイク雑誌も元気で活気があった。実際、オフロードバイクの種類も多く、未舗装の林道もまだけっこう残っていて林道ツーリングも人気だった。しかし林道が舗装化されたり通行禁止になったり、ライダーの減少もあって、『バックオフ』は残念ながら、2010年に休刊となってしまった。ひとつの時代の終わりだったが、10年以上も深く関わってきただけに、ちょっとさみしい。だが、『バックオフ』で知り合った読者やフリーの方々との付き合いは今でも続いていて、それは私の大きな財産になっている。

(9)【ラテンアメリカ縦断ツーリングへ】
「南米では、腕時計をしていると、腕ごと切られて盗まれるんだって」
 アフリカを旅していたとき、他の日本人旅行者からそんな話を聞いた。
「でも、南米にはちゃんとした都市が多いから、アフリカよりずっと旅はしやすいらしいよ」(※アフリカでは首都といっても何もないことが多い)
 このとき漠然と、ラテンアメリカに興味を持ち、次の旅先候補にしたのだが、ガイドブックの取材で依頼されるのは、オーストラリア、ヨーロッパ、中国、東南アジアくらいで、ラテンアメリカの仕事はまったくなく、未知の国のままだった。
「それなら自分で行ってみよう」
 と思い立って19942月、アメリカへ飛んだ。サハラの旅からすでに2年半が経っていた。
 治安が悪いといっても人間がちゃんと生活しているんだから、きっと旅も普通にできるはず。腕を切られるというのは、いわゆる都市伝説のひとつだろう。そういえば、「ダルマ女」っていうのもあったよね。
 ちなみに「ラテンアメリカ」とは大まかに言うと、南北アメリカ大陸におけるメキシコ以南の国々とカリブ海諸国のうち、旧宗主国がスペインやポルトガルだった国々を指し、旧英国領のジャマイカやベリーズなどを除いてほとんどの国が含まれる。ラテン文化の影響を強く受けているのが特徴だ。「中南米」というとメキシコ(北米)が入らないし、英語圏の国が含まれる、などと微妙な違いがあるが、私の旅ではメキシコと中南米諸国、カリブ海諸国をすべて含めて「ラテンアメリカ」としている。
 ラテンアメリカの旅でも、オーストラリアや東欧のときと同様、バイクは現地調達にこだわった。バイクを日本から送るか現地で調達するかで、海外ツーリングの難易度がぐんと下がるのだ。日本から送った場合、カルネ(通関書類)を用意し、旅が終わったら送り返さなくてはならないので、費用も手間もかかる。
 早い話、私は面倒くさがりなのだ。だから、バイクの改造もほとんどしない。せっかくメーカーで研究・設計されたものを、素人が中途半端に手を加えるべきではないと思っている。ビックタンクも重心が高くなって運転しにくいし、ほとんどはノーマルタンクで間に合うし、心配なら必要な区間だけガソリンを携行すればことが足りる。実際、私はそれでずっと大丈夫だった。
北米にはあまり興味がなかったので、メキシコに近いロサンゼルスを起点にして、リトルトーキョーの安ホテルに滞在しながらバイクを探した。かつてない円高の恩恵もあって、新車のヤマハXT225(セロー)が諸費用込みで約34万円と、日本よりも安く買うことができた。
アメリカに住所がなくてもバイク屋の住所で登録できたし、名義はちゃんと私だったし保険にも入れた。手続きも全部バイク屋がやってくれたので、ドイツで買ったときよりもずっと簡単だった。ただ、アメリカの場合、ナンバーが届くまで1か月以上もかかる。早くラテンアメリカに行きたい私は、とりあえず登録書類だけ持ち、ナンバーなしのバイクで出発した。
ラテンアメリカでは、いろいろとトラブルがあった。
 アメリカからグァテマラにナンバーを送ってもらったのに、届くのに3週間以上かかったり、そのために旅を一時中断したり、またエルサルバドルでバイクの書類一式を落としたり、一時帰国中の日本でパスポートほか重要書類や仕事道具、現金など一式入れたバッグを、都内をバイクで走行中に紛失したり(結局、見つからなかった)。なんでこんなにいろいろあるの?というくらいアクシデントがあった。よく考えると、ちょうど大厄年だった。命に関わるようなことがなかったので、まあ、よかったともいえるのかな。
 ラテンアメリカの治安は実際どうだったかというと、はっきり言って悪い。特に旧市街が危なくて、ぼーっと歩いているとバックなどをひったくられるので、常に後ろに注意しあえて不測な動きをして警戒態勢でいなくてはならない。それでもラテンアメリカを長期で旅した人は、1度くらいは強盗にやられていて、私もキューバでバッグをひったくられたり、ブラジルで少年2人組に白昼堂々、デイパックを盗られた。幸い被害はカメラくらいで済んだけれど。
 ただ、全般的には軽犯罪が多く、せいぜい物やお金を取られるくらい。命まで取られることはない。私の経験に基づく見解では、スペイン、イタリアなど、ラテン系の国はだいたいこの傾向にある。
 先日、コロンビアで日本の大学生が地元の少年に銃殺された事件があったが、強盗にスマホか何かを奪われて、取り返そうと追いかけてしまい、発砲されたとのこと。最近まで南米を旅していた私の夫の話では、近頃はスマホの地図を見ながら歩く日本人が狙われていて、日本人の若者の多くがスマホを盗られていると聞かされた。やっぱり、地図は紙媒体じゃなくっちゃね。
 また、ラテンアメリカでは、びっくりするほど英語が通じなかった。普通のバックパッカーなら観光地を繋いで旅するからまだしも、バイクだと普通の町にも寄るので、スペイン語オンリーでさっぱりわからないし、会話集だけでは、挨拶と簡単な会話しかできない。一人旅で誰かと話せないのもさみしかったし、ラテンアメリカのほとんどの国はスペイン語が公用語だから、覚えたほうが旅は格段におもしろくなるので、グァテマラでスペイン語を勉強した。
 グァテマラには旅行者向けのスペイン語学校がたくさんあって、1日4時間の個人レッスン&3食付ホームステイが1週間100USドル以下と激安のため、多くの長期旅行者はグァテマラでスペイン語を覚え、南下していた。個人レッスンなので、いつからでも何日間でもOKなのも便利だ。アンティグアなどの町に行けば、ホテルの客引きならず、スペイン語学校の客引きが寄ってくるので、自分で探し回る必要もない。学校とホームステイがセットなので、宿の心配もなし。
最後に、ラテンアメリカといえば日系移民の存在抜きには語れない。チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルなどで多くの日系人、日本人に出会ったが中でもブラジルの「弓場農場」で過ごした経験は忘れがたい。原始共産主義のもと、当時100名近くの日本人と日系人が共同生活しながら芸術活動も行っているブラジル日系社会でも特殊な存在だったが、旅行者も受け入れてくれるので私は1か月ほど滞在して農作業を手伝った。日系人がどんどんブラジルに同化しているのに比べ、弓場農場は古き良き日本そのものだった。日本から一番遠い
地球の反対側で出会った「ニッポン」。ラテンアメリカの旅は自分が日本人であることを意識させられた旅でもあった。
この旅は当初1年間くらいの予定だったが、途中で2度帰国したこともあり、結局はロサンゼルスから南米最南端を回ってブラジルまでたどり着くのに1年半もかかってしまった。旅で使ったバイクは弓場農場に寄付してきた。しばらくは農場内で活躍していたそうだ。
 旅の詳細は帰国後、「来て見てラテンアメリカ」(凱風社)に書き記した。希少なラテンアメリカの旅紀行だと自負しているけれど、残念ながら絶版になっている。